めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年5月22日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<聖霊が注がれ、聖霊の中にどっぷり浸されるために取り組むべきこと>


★新約聖書 ヨハネによる福音書 7:38
   わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川
   が流れ出るようになる。
 
●キリスト教会に通うようになると「バプテスマ」のことを教えられる。 聖霊体験をするには、
水のバプテスマ(洗礼)、聖霊のバプテスマがある。 「バプテスマ」とは、ギリシャ語で「沈め
る、浸す、漬ける」を意味する。 ある対象を水の中に沈める行為をバプテスマということであ
る。 イエスを信じて御霊によって霊が新しく生まれ、神の子となる。 新生である。(ヨハネ福
3:3) 新生体験して聖霊を内にお迎えした者がクリスチャンと言えよう。 聖霊によらなけれ
ば、だれも「イエスは主である」とは言えないからだ。(Tコリント12:3) また、イエスは「まこと
に、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできませ
ん。」と言われた。(ヨハネ福3:3) 尚、この新生体験は、ひとりひとり異なるものである。 
 
また、「聖霊のバブテスマ」は、聖霊が注がれ、聖霊に浸される、聖霊の中にどっぷり漬けられ
るということであるが、聖霊が人の上にくだる時、力を受け、イエスを証しをしたり、大胆な働き
をすることができる。(使徒1:8) 聖霊が、人の体、魂、霊を満たされるゆえ、当の本人はもと
より、外側から見ても劇的な変化が見られる。 使徒たちが、そのことを証明している。 イエ
スが公にキリストとして立たれ、12使徒を選ばれた。 イエスが宣教旅行をされたとき、12使徒
はお供をした。 12使徒以外にも、イエスの弟子として同行した者たちがいた。 その中には、
マグダラのマリヤなど大ぜいの女たちもいっしょであった。(ルカ8:3)
 
イエスが十字架につけられ3日目に復活され40日間、弟子たちに現われ教えられたあと、昇天
された。 彼らはイエスの命令である「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を
待ちなさい。・・もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。(使徒1:4,5)」
のことば通り、エルサレムで、みな心を合わせ、祈りに専念していた。 イエスが昇天された、
その10日後、イスラエル3大祭のひとつ五旬祭の日に、彼らの上に天から聖霊がくだった。 こ
のことがペンテコステである。 ペンテコステとは、ギリシャ語で「第50日」の意味で、「五旬節」
「七週の祭り」とも呼ばれる。 教会が誕生した記念の日でもある。
 
その日、突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡
り、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまったという。 すると、みなが
聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだしたという。(使徒
2:1-4) この他国のことばを、「異言」という。 聖霊に満たされたペテロは11人の弟子たちと
ともに立ちあがって、声を張り上げ、人々に語りかけた。 ペテロのことばを受け入れた者は、
その日、三千人ほどだったという。
 
聖霊が彼らにくだる前、イエスが捕えられるとき、恐ろしさのあまり、弟子たちはみな、イエスを
見捨てて、逃げてしまった。 ペテロなどは「そんな人は知らない」と誓って打ち消し、イエスを
裏切った。(マタイ26章) そのペテロたちが「エルサレムを離れないで、父の約束を待っていな
さい。」と言われた主のことば従い、父の約束を待っていた。 聖霊がくだった後の使徒たち
の活躍には めざましいものがある。 臆病だった使徒たちは、迫害を恐れることなく、大胆に
「神はイエスを死者の中からよみがえらせた。 主は今も生きておられる。」と語る者に変えら
れた。
 
異邦人でイタリヤ隊という部隊の百人隊長であったコルネリオの場合。  祈りの中で御使い
に、ペテロを招くようにと言われていたので、ペテロを招いた。 ペテロも幻の中で、主から「き
よくない物や汚れた物をほふって食べよ」と語られていた。 多くの人がコルネリオのところに
集まっていた。 そして、ペテロの語ることばを聞いている途中で、みことばに耳を傾けていた
すべての人々に、聖霊がくだり、彼らは異言を話し、神を賛美していたと書かれている。(使徒
10章) コルネリオたちは、神のことば聞いて、彼らが信じた時、ほぼ同時に「聖霊のバプテ
スマ」を受けている。 聖霊が存分に注がれ、どっぷり聖霊に浸されたのである。
 
キリスト者(クリスチャン)を迫害していたパウロの場合。 ダマスコへの途上で突然「天からの
光」に照らされ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」というイエスの声を聞いた。 ま
た、「立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げら
れるはずです。」という主のことば聞いた。 パウロは目が見えなくなり、3日間、一切の飲食
も絶ち、暗闇の中で、自分に起こったことを考えていたと思われる。 3日目に主の弟子のアナ
ニヤが訪ねてきて、パウロの頭に手をおいて祈ると、目からうろこのような物が落ちて、目が
見えるようになった。 激しい油注ぎがパウロの上にあり、どっぷりと聖霊に浸されたのであ
る。 食事をして元気づいた彼は、数日後、ただちに、諸会堂で、イエスは神の子である宣べ
伝え始めた。 このように、「聖霊のバブテスマ」は、キリストが授ける。 そして、聖霊の受け方
も、ひとりひとり異なり、その後の働きも異なる。  
 
ところで、当時の使徒や弟子たちは、聖霊の注ぎによって聖霊に満たされ浸されること、すな
わち「聖霊のバブテスマ」を自分から求めていない。 使徒たちは、主からことば与えられて
いたから、ことばが完了することが大きな聖霊の注ぎになったということのように思われる。 
コルネリオの場合、コルネリオにもペテロにも幻の中で「主からことば」が与えられていた。 パ
ウロの場合も、パウロにもアナニヤにも「主からことば」が与えられていた。 このようにしてみ
ると、聖霊のバブテスマ、すなわち聖霊の注ぎ満たし浸しは、人が求めたから与えられたという
ものではないかもしれない。 もちろん、求めることは大事なことであり、ある面は、求めたから
聖霊に満たされ浸されたのだと思うが、それ以前に、人が「聖霊のバブテスマ」を受けるのに、
主の方が、その人を見ておられ、主の定めておられる時が来れば、聖霊に浸そうと決めておら
れる、ということの方が大きな要因ではないだろうか。
 
だから、聖霊を求めると同時に、いやそれ以上に、キリストに、しっかりと揺るぎなくつながるこ
に取り組むべきではないだろうか。 そのことに真に取り組むということは、自我が砕かれる
可能性があり、肉が切り取られる体験を通ることになるであろう。 肉の熱心や気持ちでキリス
トにつながるのではない。 復活のイエスの顕現によって、マグダラのマリヤは、「新しいつなが
り」を教えられたが、その 「つながる」こと、すなわち、気持ちではなく、心の奥底、霊でつなが
、復活の主イエス・キリストは、ご自身を真に求める者と共におられ、真にキリストにつながろ
うと取り組んでいる者とつながって絶えず関わってくださることを実際的に知り続けることが重
要である。 
 
そのように取り組む者に、主はいろいろな方法で「ことば」を語られる。 直接、語られて「主の
ことば」を与えられる者、聖書から語られ「主のことば」を与えられる者、夢や幻、霊的感覚など
の方法で語られ、「主のことば」を与えられる者と様々である。 いずれにしても、与えられた
「主のことば」が成就、完了するとき、大きな聖霊の注ぎ、満たしがあるときだと思われる。 そ
れこそ使徒行伝のペンテコステのときのように外側から見てもわかるほどかもしれない。 もち
ろん、与えられた「主のことば」の内容にもよるが。 
 
砕かれた者が、キリストのもとに来て飲み続けるなら、イエスが言われた通り、必ず、その腹か
ら生ける水が川となって流れ出るであろう。 すなわち、心の奥底、腹から、渇くことのない永
遠の命に至る水、霊的な命があふれんばかりに流れ出すのであろう。 そのようになりたいも
のである。 いよいよ、きよめられて、日々、主の前に静まり、主の御声を聞くという生活をして
いきたいものである。
 
★新約聖書 ルカによる福音書 1:13
    してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えること
   を知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を
   下さらないことがありましょう。」
 
 



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