めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年4月17日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「長血の女」について再考>


★旧約聖書 イザヤ書 46:10
   わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしの
   はかりごと(計画)は成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。
 
★旧約聖書 イザヤ書 66:2
   ――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことば
   におののく者だ。
 
★旧約聖書 エレミヤ書 29:11
   わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。
   ――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与
   えるためのものだ。
 
「長血の女」については、教会でもよくメッセージされる箇所である。(マタイ9:20〜22、マル
コ5:25〜34、ルカ8:43〜48) あらすじは こうである。 12年の間長血をわずらっている女が
いた。 多くの医者にかかり、全財産を使い果たしたが、苦しめられるだけで、一向によくなら
ないばかりか、ますます悪くなる一方であった。 女は、イエスのことを聞いて、群衆の中にま
ぎれ込み、うしろから、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。(いやしていただける:
新共同訳)」と考えて、イエスの着物にさわった。 
 
すると、その途端、女は病気がなおったことを、その身に感じた。 イエスも、すぐに、自分のう
ちから力が外に出て行ったことを感じられ、「だれがわたしにさわったのか。」と言われた。 隠
しきれないと知った女は、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありの
ままを申し上げた。 そこで、イエスは「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して
帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と言われたということである。
 
女が「『お着物にさわることでもできれば、きっと直る。』と考えていた(新共同訳、口語訳では、
思った、思っていた)」という箇所こそ、女の立派な主イエスへの「信仰」であると、女の「信仰」
をほめ、我々もこの女のように主に信頼しきろうではないか、主イエスは、今も昔も変わらない
お方だから、長血の女のようにイエスに望みを置いて祈ろうではないか、というようなメッセー
ジをよく聞いたものだ。 著者も24,5年前、ある教会に所属していた頃、そのようなメッセージを
したものだ。 ある面、その通りだとは思うが、もう一度、この箇所を精察してみた。 
 
長血とは、長い日数にわたって出血を伴う婦人病のことである。 旧約聖書のレビ記15章によ
ると、この長血は、「汚れる」とされた病気の一つであり、その「汚れ」は伝染すると考えられて
いたので、女は家に引きこもりがちで、半ば社会的な隔離を強いられていたと思われる。 
 
「多くの医者からひどいめに会わされて(マルコ5:26)」ということばから、女は資産家であった
と言われている。 当時、医者にかかれるのは経済的に余裕のある人たちだけであったから
だ。 推測するに、女は全財産をみな使い果たしたということだから、「あそこの医者は名医
だ」、「あそこの呪術はよく効く」などと聞けば、必死にそこへ向かったと思われる。 当時の医
者の中には、現代の医者とは違い、呪術師と似たような面があり、まじないか医術かわからな
いような治療を人々に施しながら、お金を取るということがあったと言われている。 また、「良
い薬がある」「効き目が抜群の・・・がある」と聞けば、半ば隔離されたような生活状況であって
も、そこは資産を使って、どのような手段をもってでも手に入れたであろう。 心身ともに相当
の苦しみだったと思われるので、治るために人間的手段、宗教的手段など、あらゆる手段を
使ったと思われる。 
 
それほど、必死にあらゆる手段を使ったこの女が、なぜ、もっと早くにイエスのところへ行かな
かったのだろうか。 長血の女がいたのはカペナウム近辺と思われるが、カペナウムはイエス
の宣教の本拠地であり、この町の人たちは、すでにイエスのみわざを見聞きしていた。 だか
ら、ゲラサ人の地方からイエスが再び帰って来られるのを、群衆はみなイエスを待ちわびてい
たと書かれている。(ルカ8:40) イエスのうわさは、早くからこの地方では広まっていた。 当
然、長血の女の耳にも早くから聞こえていたと推測できる。 
 
しかし、どうも長血の女の眼中にはなかったようだ。 医者、呪術など人間的な手段、宗教的な
手段には目を向け財産を費やしたが、不思議とイエスのうわさは聞いても女の心の中にまで
は、入って来なかったようである。 いわば、それだけ、女の自我は強かった、肉(生まれなが
らの性質)が旺盛だったと言えるのではないだろうか。 財産を使って、いい医者を探し、効き
目のある呪術、いい薬を探せば治ると思っていたのかもしれない。 確かに心身ともに苦しん
でいるが、自分ではどうすることもできないということを、全財産を使い果たすまで気づかな
かった、認めなかったとも言えるのではないだろうか。 
 
イエスのうわさを聞いていても自分にギブアップしなかった長血の女にとって、イエスは多くの
医者の中のひとりにすぎず、まさかイエスが、キリスト(油注がれた者、メシヤ)などとは気づか
なかったのであろう。 12年間、自分の思い、自分の考えを最優先していたからである。 全財
産を使い果たし、病状は悪化し、心もますます疲れ荒んでいったとき、はじめてイエスのうわさ
が心の中に入ってきたのだと思われる。 全財産を使い果たして、身も心もズタズタになったこ
とにより、この女の自我が砕かれ、肉が切り取られたのだ。 そこまでに至らなければ イエス
のところに来ることができなかった、とも言えるし、そこまでに至ったから イエスが与えてくださ
る「信仰」を受け止めることができた、とも言える。 人という者は、何も問題や苦難がない者は
なかなか 明確に主を信じることが難しく、何かしら問題や苦難がある者の方が、主のところに
来やすいということはあるのかもしれない。 厄介である。  
 
「『お着物にさわることでもできれば、きっと直る。』と考えていた(思った)」「考えていた(思っ
た)」原文は「自分に言い聞かせる」となっているという。 「信仰」と「自分に言い聞かせる」
は、違うと思われるのだが。 もしかしたら、長血の女は、イエスの着物のふさに触れば、呪術
や魔術のように治るという思いをもって触ったのかもしれない。 しかし、女がさわると、たちど
ころに出血が止まった。 イエスの力が女に流れ込んで、いやされたのだ。 このイエスの力が
女に流れ込んだとき、イエスへの「信仰」も女に「神の恵み」として流れ込んだと思われる。 
 
いやされた長血の女が、恐れおののいたのは、自分の身に起こった事を知っただけでなく、
エスへの「信仰」が与えられて、イエスが「キリスト(油注がれた者、メシヤ)」であったことを知
り、それまでの自分の言動の愚かさをも知ったからだと思われる。 恐れおののいたことは、イ
エスへの、へりくだりでもある。 だから、イエスの御前にひれ伏し、真実をありのまま話すこと
ができたのだろう。 そのような女に、イエスは「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。
安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と言われた。 「直した」原文
「救った」となっているという。
 
「娘よ。あなたの信仰が」とイエスは言われたが、女が始めから持っていた「信仰」ではなく、
エスから与えられた「信仰」であるが、すでに女の「信仰」と見なしてくださった上でのおことばで
ある。 女がイエスへの「信仰」を受け取れるくらい、砕かれた心を見られたと思われる。(Tサ
ムエル16:7、マルコ2:8) また(その)病気にかからず」文は「受けた苦痛から解放さ
れて、救われて健全な状態でいなさい」だという。 イエスは、この女の身体だけでなく心、霊も
救われ、今まで半ば隔離されていた社会生活を健全に行なうことができることを皆の前で宣言
してくださった。 
 
長血の女は、自分の力(財産など)で、治そうとした結果、より一層苦しんだことは、ある意味、
自業自得であるが、そのことさえ女が「神の恵み」を存分に受け取ることができるための「益」
にしてくださったのである。 すなわち自我が砕かれ、肉が切り取られて、へりくだった者へと変
えられたのである。 
 
我々は、長血の女の「信仰」を美化しすぎになりがちである。  本当にすばらしいのは 主イエス
からの一方的なあわれみと神の恵みである。 そして主が与えてくださる「信仰」である。 な
ぜ、主はこの女に目を留められたのだろうか。 もちろん、イエスから力が出て行ったからでは
あるが、やはり、女の心の奥底を見ておられたことと、神の幸いなご計画の中に長血の女が
入れてくださっていたからではないだろうか。 だから、むしろ、主の方が、女が砕かれるのを
待っておられたと思われる。 
 
放蕩息子(ルカ15:11-32)も財産を使い果たしたとき、我に立ち返った。 人は、どん底に落ち
たとき、我に立ち返りやすいものである。 かと言って、皆が皆、財産を失くしたら我に立ち返
るのでもない。 どん底に落ちたから我に立ち返るのでもない。 いろいろな理由、様々な原因
で財産を失っている人、どん底に落ちている人も多い。 そういう人たちが皆、イエスへの「信
仰」をいただいているわけではない。 「主の恵み」心の奥底にまで届いているわけではな
い。 やはり、そこには、人にはわからないが、神のご計画があるように思われる。 神の御手
の中でことが進んでいるように思われる。
 
神はすべてを知っておられる。 我々の日々の生活の中の些細なことさえご存知である。 人
心の奥底にある思いや考え知っておられる。(詩編139:1-3) 我々は、限られた時間の
中で生きているので、今後のことについては 予想しかできないが、神は、全知全能の神なの
で、今後のことも何もかもすべてをご存知である。 主は、人の思いを遠くから読み取られ、
我々のことばが舌にのぼる前に、ことごとく知っておられる。(詩編133:4) だからこそ、自分
心の奥底にあるものに注意しておきたいものである。 「自分(自我)」「肉」が自分の中心
となり、自分を支配していないかどうかを吟味する必要があるかもしれない。 だから、我々
は、深く主キリストの中にとどまること、日々、主と交わり、主とともに歩むことに取り組みたい
ものである。
 
★旧約聖書 イザヤ書 25:1
   主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。あなたは
   遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、忠実に成し遂げられました。
 



めんどり聖書研究会