めんどり通信/2016年4月10日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <38年もの間、病気にかかっていた人と生まれつきの盲人のいやしから思考> |
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★新約聖書 ヨハネによる福音書 10:14、15
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、
わたしを知っています。
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているの
と同様です。
★新約聖書 ヨハネによる福音書 10:27、28
わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼ら
はわたしについて来ます。 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅び
ることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
●イエスが行なわれた(癒しや奇蹟、悪霊追い出し他)ことは、聖書に記されている以外にもた
くさんあって、いちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、とヨハ
ネは言っているが、その中で今回2つの癒しから、いろいろと思考してみる。(ヨハネ福21:25)
38年もの間、病気にかかっていた人のいやしについて。(ヨハネ福5:2-18) 当時、エルサレム
には、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダ(あわれみの家という意味)と呼ばれる池があっ
て、水が動いたとき、最初に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、治るという古くから
の言い伝えがあった。 それで、誰も彼もが我先にと池に入ろうと待ち構えていた。 そこにイ
エスが来られ、38年間もの間、病気にかかっている人に目を留められ、近づいて来てくださっ
た。 そして、「よくなりたいか。」と彼に問われた。
彼は、イエスの問いに対する的確な答えではなく、自分を助けてくれる人がいないなどと他の
人に対する不満、不平で、主への応答というより、嘆きと言い訳のようなものだった。 長年の
病気で伏せっている状況から そのような性格になってしまったのかもしれない。 もしくは、も
ともと持っていた彼の性質、本性が表われたのかもしれない。 それでもイエスは、この人をあ
われんでくださり、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言われた。
すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。 荒んだ心の状態、ひねくれた心
の状態であったとしても、「治りたい(直りたい)」というこの人の心からの願いがあったので、イ
エスのことばに聞き従おうとしたと思われる。 聞き従おうとする意思を持ったとき、従うことが
できる「力」は主が授けてくださる。 その人はすぐになおって、床を取り上げて歩き出した。
正しい「願い」「希望」を持つことは大切である。 ただ、「溺れる者は藁(わら)をも掴む」という
ような心持でなければよいが。<意味:非常に困って、どうすることもできない人が、手段を選
ばず、どんなものにでも すがりつき、救いを求めようとする、ことのたとえ>
ところが、この日は安息日だった。 当時、ユダヤ人にとって安息日は労働を休む日として厳
守されていた。 これは現在も同様であるという。 それで、安息日に癒しを行なうことは、治療
行為を行なったとしてユダヤ人たちはイエスを非難した。 いやされたその人も、ユダヤ人か
ら、「床を取り上げて歩け」と言ったのは誰かと詰問された。 彼は、その時はイエスのことを知
らなかったが、その後、イエスの方が彼を見つけてくださって「見なさい。あなたはよくなった。
もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」と注意を
促すことばを語られた。 その主のことばを聞いた彼は、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた
方はイエスだと告げた。
その人は、いやされる前は、イエスのことば「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」に従った
が、いやされた後は、イエスのことば「もう罪を犯してはなりません」を受け入れていない。 「告
げた」ということばから、福音を告げ知らせると言う意味の「告げる」と同じであると解釈してい
る人もいるようだが、そうとは感じられない。 イエスのことを「告げる」ことには、主が望まれる
「告げる人」、「告げる時」がある。 やはり、彼の心は「溺れる者は藁(わら)をも掴む」状態
だったのではないだろうか。 イエスの注意喚起のことばを、へりくだって受け入れていたなら、
彼は砕かれていただろうに。 2回ともイエスの方から近づいて来てくださったという「神の恵
み」に気づかないのは、彼が「自分の身を守る」ためにユダヤ人の側についた、すなわち、イエ
スを第一にしなかったからだと思われる。
いやしのみわざを現わしてくださった方を差し置いて、いやされた自分を第一にし、自分を守ろ
うとすることは、的がはずれている。 「罪」を表わす聖書の言葉はギリシャ語で元々の意味
は、「的外れ」である。 すなわち、「いやしてくださった主イエス・キリストを最優先しない者」は
罪を犯しているといえる。 イエスがこの男に言われた「もっと悪いこと」とは「罪を犯す」ことで
ある。 以前よりもっと深刻な主なる神との断絶であり、永遠のいのちを失う危険性があるとい
うことであろう。
次に、生まれつきの盲人のいやしについて。(ヨハネ福9章) イエスは、道端で生まれつきの
盲人が座って、物乞いをしているのを見られた。 当時は、罪を犯したから、病気や障害にな
ると考えていたという。 だから弟子たちも、誰(両親か本人か)が罪を犯したから、この人は生
まれつき盲目なのですか、とイエスに尋ねた。 イエスの答えは斬新かつ驚くべきことば、「神
のわざがこの人に現われるためです。」だった。 そして、この盲人にイエスの方から近づいて
来てくださり、その人が求める前から、そして、その人に「よくなりたいか」と確認をしなくても、
まるでその人の心の奥からの叫びに応えるかのように、地面の泥につばきをして、それをその
盲人の目に塗り、シロアム(遣わされた者という意味)の池で洗うよう言われた。 その通りにし
た彼は見事にいやされ、目が見えるようになった。 そのことを知った周りの人々はみな驚き、
彼をパリサイ人のところに連れて行った。
彼は自分の身に起こったことをそのまま告げた。 彼はユダヤ人に詰問されるたび、彼の答
え、すなわち彼のイエスに対する見方が「イエスという方」から「預言者」になり、「人の子キリス
ト」「主」になっていった。 パリサイ人に呼び出された彼の両親は、5章の38年もの間、病気に
かかっていた人と同様、ユダヤ社会から追い出されることを恐れ、自分たちの身を守るため
に、「あれに聞いてください。あれはもうおとなです。」と息子に押し付けた。 しかし、彼は、孤
立しても毅然としていた。 イエスを非難して自分に詰問してくるユダヤ人たちに答えるのに、
恐れることなく「あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」と言い、「もしあの方が神
から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」と断言した。
そうすると案の定、ユダヤ人たちは、彼をユダヤ社会から追放した。 そのことを聞かれたイエ
スは、再びイエスの方から近づいて来てくださり、「あなたは人の子を信じますか。」と彼に問わ
れた。 そして彼は、ついにイエスが自分の「主」であることを知ってイエスを拝した。 たとえ両
親がいても何か事情があったのかはわからないが、助けてもらえず、屈辱的であったとしても
物乞いするしか生きる道がなかったこの人は、今や、主の御前にへりくだりつつ、この地上で
は顔をあげて堂々と生きる者となった。 キリストによって新しく生まれさせていただき、新しい
歩みをする者となった。 古きは過ぎ去ったのである。(Tペテロ1:3、Uコリント5:17)
彼の場合、幸いな神のご計画の中にあったと言えよう。 幸いな神のご計画の中にある者に
とって
座って物乞いしていたこと、苦しんだこと、嘆いたことさえ、主は無駄にはなさらない。
むしろ、それらのことを、その人の心の中、それも心の奥底、霊を清め整えるために「益」にし
てくださる。(ローマ8:28) すなわち、主に出会ったとき、御前にへりくだることができるように、
「主と主のことば」に素直に従うことができるように、「主のことば」を聖霊の導きに従って理解し
受け取ることができるように整えてくださる。
ちなみに、病の原因には、生理的なこと、罪によること、悪しき霊どもの仕業によることなどが
考えられる。 ただ、この箇所から見ると、それ以外に、イエスが言われた「神のわざが、その
人に現われるため」ということ、それは、言うなれば、神がそのようにご計画されていたとも言
えよう。 神が、栄光を現わそうとされるから、神のご計画があるから、神に目を留められてい
る人が、あえて苦しく悲しいところを通るということがある。 「信仰」をしっかり持てないほど、
固く握れないほど苦しいところを通る者もいる。 墓場に住んでいた悪霊につかれた男も
これ
と似たところがある。(めんどり通信/2015年11月1日参照) 彼らは、傍から見れば明確な「信
仰」を言い表わしているわけではない。 それでも彼らの心の奥底には、「主と主のことば」に
へりくだる素直な「思い」「願い」が植えられている。 「主への信仰」「主への愛」も心の奥底に
植えられている。 それは、そういう苦しく悲しいところを通りながらも、自分を主に任せてきた
ことが大きな要因ではある。 しかし、それ以上に、その人が幸いな神のご計画の中にあった
ことが、心の奥底から、主に対して素直な者、純粋な者、主を愛する者として整えられた大きな
要因であると思われる。
最初から神がすべてを決めておられるのなら、「信仰」する意味がないではないかという意見
が出るかもしれないが、だれが幸いな神のご計画の中にあるのかどうかは、人の最期になっ
てみなければわからないものである。 ひとくくりに言えば、神の御前に立った時にはっきりす
る。 だから予定説などは愚かなことであり人間には無関係であり論外である。 主権は神に
ある。 そして、人には自由意志(意思)が与えられており、神は人の自由意志を尊重される。
ちなみに予定説とは、「・・人が救われるのは、人間の意志や能力によるのではなく、
全く神の
自由な恩恵に基づくという聖書の教理。
ある人を天国に、またある人を地獄で永遠に苦しませ
るために意図的に創造した」と教えているという。
とにかく、我々人がすべきことは、いろいろ意見をすることではなく、明確かつ真に主イエス・キ
リストに出会い、主に目を留め続けることではないだろうか。 「信じた」「信じる」は、「主につな
がる、主にとどまる」ことである。 それは一時のことではない。 継続が必須である。 明確
に、主を「信じ続ける」、主に「つながり続ける、とどまり続ける」ことが重要なのである。 そうす
るには、絶えず主の方を見ておく必要がある。 そのように取り組む者を主は見放さないばか
りか、主の方からいつも近づいてくださるのである。 「近づいて」というのは、我々人が、「主が
共におられる」ことに気づくということである。 「主が共におられる」というのを日々の生活の中
で感じるということである。
我々は、「主イエス・キリストを信じた」と言っても、それが過去の一つの体験となっていること
があり得る。 また、「主を信じている」と言っても、実際は、主に背を向けている者も結構多い
のも事実である。 「うわべ」ではなく、「心の底から」、へりくだって「キリストにしっかり つな
がっているかどうか」を今一度、祈って吟味し、聖霊が存分に働かれるよう求めていきたいも
のである。
★旧約聖書 詩篇 94:14
まことに、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てになりません。
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