めんどり通信/2016年2月14日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <キリストへの信仰について:イエスの母マリヤから思考> |
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★新約聖書 コリント人への手紙 第二 13:5
あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。・・
★新約聖書 へブル人への手紙 11:1
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
★新約聖書 ローマ人への手紙 10:17
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるの
です。
●イエスの母マリヤの「信仰」について思考してみる。 聖書の中でマリヤに関しての記述は多
くはない。 マリヤについて強烈的な印象を受ける場面は、御使いからの受胎告知場面であ
る。(ルカ1:26-38) マリヤについて書かれているところを簡単に書き出してみる。
老人ザカリヤの妻エリサベツが御使いガブリエルのことば通り、みごもってから六か月目に、
御使いガブリエルが、ガリラヤのナザレという町のマリヤのところに受胎告知に来た。 当時、
女性はユダヤ人の数に入っていないほどの扱いであり、未婚の女の妊娠は、姦通罪の証拠と
して見られ、石打の刑にすると定められていた。(申命記22:23,24) しかし、マリヤは「ほんとう
に、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。(ルカ
1:38)」と受け入れた。 このところのマリヤの「信仰」がほめられるものとされている。
イエスが12歳になられたとき、過越の祭りでエルサレムに行き、その帰り、一日の道のりを
行ったところで、イエスが一行の中にいないことに気づき、ヨセフとマリヤは、イエスを捜しなが
ら、エルサレムまで引き返した。 そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中に
すわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。 その受け答えの賢さに、聞い
ている者たちがみな驚嘆するほどであった。 するとマリヤは、「まあ、あなたはなぜ私たちに
こんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」と
叱りつけた。 そのときイエスは、「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自
分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。(ルカ2:49)」と言われた。 ちなみに、イ
スラエルでは13歳になると、自覚的に律法に従って歩む、自己責任の大人と見なされる。
イエスが30歳でキリストとしての公生涯に入られた後、カナの婚礼があり、そこで、ぶどう酒が
なくなった。 婚礼でぶどう酒がないというのは不面目なことであったので、マリヤがイエスに向
かって「ぶどう酒がありません」と言った。 イエスは、「あなたはわたしと何の関係があるので
しょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」と言われながらも、水をぶどう酒に変えると
いう最初のしるしを行なわれた。(ヨハネ福2:1-11)
公生涯に入られたイエスは、福音を語られるだけでなく、数多くのいやしや様々な奇蹟、悪霊
の追い出しなどを行なわれた。 神の栄光をあらわされたのだが、イエスを信じない者たちや
イエスに反対する者たちは、「気が狂ったのだ。イエスは、汚れた霊につかれている。」と噂し
た。 そのことを聞いた身内の者たち、イエスの母と兄弟たちは、イエスの言動を止めようとイ
エスを連れ戻しに出て来た。(マルコ3:21,31) しかし、イエスは、「神のみこころを行なう人は
だれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と拒否された。(マルコ3:35)
イエスが十字架につけられたとき、弟子たちは皆逃げたが、イエスの十字架のそばには、イエ
スの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。(ヨハネ福19:25)
イエスを見届けていたのである。
イエスが十字架で死なれ、3日目に復活され、40日の間弟子たちに現われた後、昇天された。
120名ほどが集まって約束の聖霊が下るのを待って、祈っていたが、その中にイエスの母マリ
ヤやイエスの兄弟たちもいたようである。(使徒行伝1:14)
以上が、マリヤについて書かれていることであるが、それらからマリヤの人柄の特長を挙げて
みる。 受胎告知のとき、御使いに「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられま
す。(ルカ1:28)」と言われたとき、驚くよりむしろ、「これはいったい何のあいさつかと考え込ん
だ。(ルカ1:29)」ということから、現実とかけ離れた不思議なことがあったとしても、驚いて我を
忘れたり、すぐに有頂天になったりするのではなく、あいさつの意味を考えるという思慮深さが
あることだ。 また、御子イエスが生まれたとき、羊飼いたちが、御使いからイエスについて告
げられたことを話すと、それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いたが、そのと
き、マリヤは、「これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。」ということから、御使
いのことばを、まずは深く受け入れるという素直さがあることだ。
また、イエスが12歳になられたとき、宮で言われた「どうしてわたしをお捜しになったのですか。
わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。(ルカ2:49)」ということば
の意味がわからなかったが、マリヤは「これらのことをみな、心に留めておいた。(ルカ2:51)」
ということから、ことばを解釈することに対する慎重さがあることだ。
このようにしてみると、イエスの母マリヤは、我々と同じ「人間」であるということだ。 マリヤに
ついて、カトリック教会とプロテスタント教会では呼び方も捉え方も違う。 カトリック教会は、マ
リヤを「聖母マリア」と呼び、「聖人」「聖母マリア」として崇拝している。 イエスの母マリヤを神
格化している。 祈りはイエスの母である「聖母マリア」に執り成しを求めるという。 一方、プロ
テスタントの教会では聖人の概念を受け入れていない。 聖書を教会の唯一の正典とし、ただ
「イエス・キリストを信じる」信仰が、プロテスタント教会の根本理念である。 というより、「キリ
ストを信じる者」の根本理念である。
また、マリヤが受胎告知のときに発揮した「信仰」は、神である主から与えられた「尊い信仰」
であること。(Uペテロ1:1) その「信仰」は、成長すべきものであること。 「信仰」が、成長し
ていくためには、神からの訓練試練があり、それらによって自我が砕かれたり、肉が切り取ら
れたりすること。 神は、ご自身のご計画を遂行されるために、あえて人が求める前から「信
仰」を与えられることがあるということ。 以上のようなことがマリヤのところから 教えられるこ
とではないだろうか。
神がご自身のご計画を推し進められるため、マリヤに「信仰」を与えられたと思われる。 もち
ろん、マリヤがその神からの「信仰」を受け入れることができるほど、素直であり、思慮深いな
どと、マリヤの心の奥が、神が「良し」とされていたように思われる。 それでも、与えられた「信
仰」は成長しなければならない。 考え込んでも、語られることばを心に納めても、心に留めて
も、砕かれ、変えられて「信仰」や「霊」が成長しなければ、「肉(生まれながらの神に従うことが
できない性質)」が出てくるものである。 「信仰」が成長するということは、その人の「霊」が成
長することでもある。
御使いガブリエルに出会い、受胎告知を受けるという不思議、聖霊によって身籠って、実際、
イエスを出産するという体験、数々の心に留めておくことばなどがあったとしても、キリストとし
て立たれ神の栄光を現わしておられるイエスを「気が狂った」と連れ戻しに出て来る有り様。
受胎告知のときに与えられた「尊い信仰」では、「イエスは神の子」とは、信じることができな
かったようである。 弟子たちも、そのことを悟ったのは、イエスが十字架にかけられ復活され
た後だった。 ペテロもヨハネもみな神からの訓練試練を受けて、砕かれ、肉が切り取られ、
整えられて、「信仰」や「霊」が成長していったのである。 そして、マリヤもイエスが復活され
た後、ペテロたちと同様、「イエスは神の子」と悟ったようである。 マリヤもペテロたち同様、苦
しみなどを通して神からの訓練試練によって変えられたと推測できる。 120人の中にいたから
だ。 イエスの肉の兄弟たちも同様である。
「信仰」も「霊」も成長すべきである。 砕かれ、切り取られ、整えられて、与えられた「尊い信
仰」が自分のものとして存分に活きるようになる。 「信仰」を、主が望まれるように働かすこと
ができるようになる。 「霊」で見破り、見分けることができるようになる。 「人を生かすものは
霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また
命である。(ヨハネ福6:63)」とイエスは言われた。
イエスの母マリヤについては、ペテロのように肉の出来事、失敗がリアルに書かれていない。
ベールに包まれた感があり、最初の受胎告知の信仰のみがピックアップされがちである。
だ
から、イエスの母ということに加えて人の理想や想像を上手く乗せて崇拝の対象にしやすいの
かもしれない。 結局、一人一人に応じてではあるが、自我が砕かれ、肉が切り取られ、整え
られて成長する必要があるということである。 そうしていくなら、どんな局面になっても世の常
識や噂に流されず、キリストに焦点を定めた揺るぎない者としてくださるであろう。
★新約聖書 使徒行伝 3:16
そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見てお
り知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さん
の目の前で完全なからだにしたのです。
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