めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年2月7日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<神の選びについての思考>


★旧約聖書 申命記 7:7、8
   主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも
   数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が
   少なかった。 しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓
   われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の
   家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。
 
★新約聖書 エペソ人への手紙 1:4、5
   すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、
   傷のない者にしようとされました。 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリスト
   によってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
 
●主イエス・キリストを信じた者は「神に選ばれている」ということをよく聞く。 イエスも弟子たち
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがた
を任命したのです。」と言われた。(ヨハネ福15:16) そして、コリント人への手紙 第一 1章2
7、28節によるなら「この世の愚かな者」「この世の弱い者」「この世の取るに足りない者」「見下
されている者」が、神に選ばれるという。 ただ、人が どの程度、そう思っているのか、そう認
識しているのかは、人によって様々である。 
 
確かに自分は愚かな者、弱い者であると深く認識すべきではあるが、それより大事なことは、
神が「この世の愚かな者」「この世の弱い者」「この世の取るに足りない者」「見下されている
」と見なされているかどうかである。 神が、自分に対して、そのように見られているなら、そ
の人は本当に、自分が愚かな者であること、弱い者であること、取るに足りない者であることを
悟っていると言えよう。 我々は、とかく、みことばさえ無意識に人間の見方、基準で判断しが
ちである。 神がどう見ておられるのか、主は、どう思われておられるのか、・・・と何事におい
ても常に、主なる神を主語して祈りつつ、考え判断し言動すべきである。
 
イエスが仰せられたように、「神に選ばれる」という「選び」の主権は神にある。 そして、この
「選び」に関してだけでなく、すべてのことについての主権は神にある。 「すべてのことが、神
から発し、神によって成り、神に至る」と書かれている通りであるからだ。(ローマ11:36) ま
た、ローマ人への手紙(旧約聖書 マラキ書1:2,3)「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎ん
だ。」と書かれている。(ローマ9:13)」 そして、「神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かた
くなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。」とも書かれている。(ローマ9:18) 
 
ここの「憎んだ」と訳されている言葉は、原語では「疎んじる、下に置く(サーネー)」という意味
だという。 神の主権的な意志である。 神は、ヤコブを選び、エサウを選ばなかったということ
である。 神の主権について、パウロは創造主である神は陶器師であり、被造物である人間は
陶器としてたとえている。(ローマ9:13) 陶器師は、陶器に対して、どのように造るかの権利が
ある。 陶器を尊いことに用いる器として造ろうが、つまらない器として造ろうが、また、造るも
壊すも陶器師が主権を持つ。 そのことについて陶器は、何も申し立てることはできない。 そ
のことを我々人間は、よくよく知っておくべきであろう。 そのことを受け入れるなら、神に対して
文句はないはずである。 そして、その神は「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔
い改めに進むこと」、「すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んで」おられる方
であるということも、よくよく知っておくべきである。(Uペテロ3:9、Tテモテ2:4)
 
また、「選びの主権」は神にあるが、人の自由意志を無視してはおられない。 パウロは、「わ
たしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神(ガラテヤ1:15
新共同訳)」と言っているが、善悪を知ることもすることもない、胎内にいるときから、すでに神
に選ばれていたという。 神に選ばれていることが わかっているなら好き勝手した後に、「神
の救い」を受ければよいではないか、という意見があるかもしれないが、もし、あるなら、そもそ
も そういう意見、思いを持つこと自体、神に疎んじられる要因である。 
 
また、「神に選ばれている」ということは、我々が思っている「選び」のレベルと神が言われる
「選び」のレベルに大きな違いがあるように思われる。 主イエスは「招かれる者は多いが、選
ばれる者は少ない。(マタイ22:14)」と言われたが、要は救われる者、永遠の命を獲得する者
が少ないということであろう。 「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエ
スを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる(ローマ10:9)」、
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる(ローマ10:13)」というみことばがある一方
で、「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におら
れるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。(マタイ7:21)」、「招待される者は多い
が、選ばれる者は少ないのです。(マタイ22:14)」、「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、
それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13,14)」というみことばがある。 
 
神の選びは予定説とは違う。 ちなみに予定説とは、「・・人が救われるのは、人間の意志や能
力によるのではなく、 全く神の自由な恩恵に基づくという聖書の教理。 ある人を天国に、また
ある人を地獄で永遠に苦しませるために意図的に創造した」と教えているという。 確かに主
が、エサウではなくヤコブを、二人が生まれる前に選ばれたのは、人間の行ないではなく、一
方的な神のあわれみ、恩恵によることだが、神は、人の自由意志を尊重される方である。 そ
れは神が人を創造されたとき、人に与えられたものであるからだ。 サタンは誘惑はできる
が、この自由意志(意思)に触れることはできない。 神が人に任されているからである。 
 
確かに、神は初めに、終わりまでの永遠の計画を立てておられる。あらかじめ最初から すべ
てのことをご存知であられる。 だから、今起こっていることは、神の初めに定められたことが
逆算して、展開していると言えよう。 神の側からしたら「選び」はあるが、それは神は、人の側
からの応答をもご存知であるということであろう。 パウロのように、生涯の途中で「わたしを母
の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった」と悟ることができる者は幸
いであるが、なかなか難しい時代になった。 なぜなら、敵である悪魔が、ほえたけるししのよ
うに、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っているからだ。(Tペテロ5:8
 
クリスチャンであろうが、キリストをまだ受け入れていない者であろうが、キリストの福音を聞い
たことのない者であろうが、どんな者でも皆、死後、神の御前に立つ。 その時に「神に選ばれ
ているかどうか」が明確になる。 冒頭の申命記のことばで、主が「あなたがたを選ばれた」
由は、「あなたがたを愛されたから」であると書かれている。 「恋い慕って、選ばれた」とある。 
すなわち、「愛」とは「選び」を意味する。 「わたしを愛する者を、わたしは愛する。(箴言8:1
7)」と主は言われる。 神の一方的な「選びの愛」を受けて、自分の自由意志で「主を愛するこ
と」、「主を選ぶこと」で主なる神に応答していき、主との深い深い交わりをしていきたいもので
ある。 
 
★旧約聖書  伝道者の書 1:9,10
       昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新し
       いものは一つもない。  「これを見よ。これは新しい。」と言われるものがあっても、それ
       は、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。



めんどり聖書研究会