めんどり通信/2016年1月24日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <神の子とされた者に対して、忍耐の限りを尽くして愛し続けてくださる主なる神:ヨナから思考> |
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★旧約聖書 詩篇139:7-10
私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへ
のがれましょう。 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設
けても、そこにあなたはおられます。 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこで
も、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。
●旧約聖書のヨナ書の話しは、聖書を読んだことのない者でも聞いたことがある人も多いかも
しれない。 簡単なあらすじは、こうである。 およそ起源前700年頃、預言者ヨナが、「立って、
あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」という「主のことば」を
受けた。 ところが、「主のことば」に不満だったヨナは、ニネベと反対方向のヨッパ(港)に下っ
た。 主の御顔を避けるためタルシシュへ逃れようとしていたヨナにタイミングよく、タルシシュ
行きの船が見つかった。
ところがヨナの乗った船は海の上で大嵐に襲われた。 嵐の原因がヨナだとわかり、ヨナは自
分の素性を明かし、
暴風を静めるため自分を海に投げ込むように異邦人である船長や水夫
たちに申し出た。 彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、あらゆる努力をしたが事態は
ますます悪くなるばかりだったので、ヨナの申し出のとおりに、ヨナを海に投げ込んだ。 すると
海は激しい怒りをやめて静かになったので、人々は非常に主を恐れた。すなわち主を信じた。
海に投げ込まれたヨナに、主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。 ヨナは三日三晩、
魚の腹の中におり、そこで深い悔い改めをした。 ヨナが切実な悔い改めと祈りをしたとき、主
は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させ、始めの任務に戻してくださった。 ヨナがニネベの町
で「主のことば」を伝えるとニネベの人たちは神を信じ、身分の高い者から低い者まで、 悪の
道と暴虐な行ないを悔い改めた。 その様子をご覧になった神は、わざわいを思い直された。
ところが、ヨナは神が災いを思い直されたことが理解できず、非常に不愉快になり、あろうこと
か主に怒りふてくされた。 そして、町が見える所に仮小屋を作り、町の中で何が起こるか物
見を決め込んだ。 そのようなヨナに神は、暑さをしのぐために一本のとうごまを備えてくださっ
た。 しかし、喜んだのもつかの間、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられ、その虫によって、
とうごまは枯れた。 次に神は、焼けつくような東風を備えられた。 ヨナはその暑さに「私は生
きているより
死んだほうがましだ。」と神に怒りをぶつけた。
神である主は、ヨナに「あなたは当然のことのように怒るのか。(ヨナ4:4)」、「このとうごまのた
めに、あなたは当然のことのように怒るのか。(ヨナ4:9)」と語られた。 そして、「あなたは、自
分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。 まして、
わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない
十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」という語りでヨナ書、ヨナの物語は
終わっている。
さて、ヨナは主のことばに不満であったが、それはヨナは、神に選ばれた民族、イスラエル人と
いう「選民意識」の強さから出て来たものであったと思われる。 確かに異邦人であるニネベの
人々は、真の神を無視して罪を重ねる生き方をしており、裁かれて当然の状態であったよう
だ。 それでも神である主は、ニネベの人々を救いたいと望んでおられた。 いつの時代でも
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる。 だから、ヨナを遣
わされた。 しかし、ヨナには主の御心は理解できなかったようだ。
「選民意識」を持っている者は、ともすれば人を上から目線で見る。 「選民意識」が人と人の
間に溝を作るだけでなく、「主のみこころ」を知ることを妨げる要因になり得る。 主がこの地上
におられたとき、パリサイ人たちや律法学者たちも「選民意識」が強かった。 しかし、このこと
は、イスラエル人と異邦人だけの問題ではなく、主イエス・キリストを信じて神の子とされたクリ
スチャンでも問題のことがあり得る。 神に選ばれていたからキリストを信じることができたと、
神の恵みとあわれみに感謝して、へりくだるなら良いのであるが、中には、あの人は、救われ
ていない人だから、神に選ばれていない人、救われていない人だから罪を犯す、何でもかんで
もご利益があると思えば拝む・・・、などと少々、蔑みながら人を区別するクリスチャンもいない
わけではない。 歴史的に見ても、傲慢な「選民意識」を持った「十字軍」は、異教徒弾圧を行
ない、アメリカ大陸では、ヨーロッパから侵入した白人(選民意識の強かったキリスト教徒が多
勢)が、先住民を皆殺しにしてその土地を奪うということがあった。 主が望まれる へりくだっ
た「選民意識」を持つことは、なかなか難しいのかもしれない。
また、ヨナは主から逃れようとしてヨッパに着いたが、そこですぐニネベと反対方向のタルシシ
ュ行きの船を見つけた。 急いで逃れたいヨナにとっては、グッドタイミングである。 まるで、
船はヨナを待っていたかのようである。 このところから、悪しき霊は、「主と主のことば」に逆ら
うどんな大小の思い、考えにかかわらず、それを見逃さないということである。 サタンや悪霊
は、人の心(思い、考え)を知っている。 絶えず、神を信じる者を神から引き離そうと躍起に
なっている悪しき霊どもが「主のことば」に不満を持ったり逆らう「思いや考え」を見逃すはずは
ない。(Tペテロ5:8) むしろ加担する。 だから、取り扱われて砕かれ、成長する必要がある。
ヨナは実際、主から逃れようと行動したが、主から逃れ切れるとは思っていなかったのではな
いだろうか。 ヨナは、主が「全能の神」であるということを知っていたはずであり、主の支配、
御力はイスラエルだけに限定されていると考えていたわけではないだろう。 また、ヨナは、イ
スラエル12部族のうちゼブルン族であり、主の任務を預かった預言者であり、神の栄光を知っ
ていたからである。(U列王記14:25、ヨシャア記19:13) ヨナ書を読んでいると、幼い子が
駄々こねたような感じさえ受ける。 主の御顔を避けて逃げていることが、どれほど重大なこと
深刻なことであるかを認識できておらず、自分の思うまま感じるまま言動する しつけられてい
ない子どものようにも感じられる。 しかし、一方で、駄々をこねているのは、ある意味、ヨナは
神と、「父と子」という親しい関係であるからだとも思える。 それでも そのままでいいというの
ではない。 やはり成長する必要がある
また、ヨナが船に乗った後、嵐になり、その原因がヨナだと判明したとき、すでに乗組員たちが
ヨナが主の御顔を避けて逃げていることを知っていたと書かれている。(ヨナ書1:10) それ
は、ヨナが話したのであろうと推測できるが、そのこと一つを見ても、自分の置かれている状
況、状態が重大かつ深刻であることと思わず、むしろ軽い調子で御顔を避けて逃げていること
を話したのではないかと思われる。 ただ、そのことさえ主は益にしてくださった。
ヨナが大魚の腹の中での悔い改めや叫びは、彼の心の底からのものであった。 またこの箇
所の「魚の腹の中」の「腹」は原語では、母の「胎」を意味する語だという。 ヨナは「魚の腹の
胎の中」で、覚醒して再び、主の任務に戻され、結果、ニネベの悔い改めになった。 にもかか
わらず、怒った。 ヨナはイスラエルの行く末、すなわちニネベが救われても そのニネベがイ
スラエルを滅ぼすのではないかと心配して怒ったと思われる。 しかし、そのところが砕かれな
ければならないところである。 神なる主が、「全能の神」であり、「神のご計画は万全」である
ことを知っているようで知っていないからだ。 そこが成長する余地のあるところである。
ヨナのように預言者として主に用いられ、信仰がしっかりしている者であっても、神との関係に
おいて成長しなければならないところがある。 成長したヨナと神との関係、交わりを神の方が
必要とされる。 そのため取り扱われるのだ。 ヨナ書では、「あなたは、自分で骨折らず、育
てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。 まして、わたしは、この大
きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人
間と、数多くの家畜とがいるではないか。」という主の語りかけで終わっている。 ヨナがその後
どうなったか書かれていない。
ヘブル語で「ヨナ」は「鳩」という意味であるが、ヨナの場合は、そのことばの意味通りに作り変
えられ、清められ、成長していったと推測できる。 ヨナ書の作者は、ヨナ本人か、あるいは、ヨ
ナから直接聞いた人が書いたと言われているようだが、「一本のとうごまを備えてくださった」
「一匹の虫を備えられ」「焼けつくような東風を備えられた」とヨナ自身が砕かれる道具となった
「とうごま、一匹の虫、焼けつくような東風」を「備えられた」と表現していることから窺(うかが)
い知ることができる。
しかし、もう一方で、このような終わり方をしているのは、主イエス・キリストを信じて「神の子」
なった者たちに対して必ず、神は怒るにおそく寛容をもって忍耐の限りを尽くしてくださるが、神
にも忍耐されることの終わりがあることを暗示しているのではないかと思う。 だから、我々
は、もう救われているのだからと高いところに どっかりと座ることがないように神の御前に大
いにへりくだって、主に心を砕いていただき、清められて「信仰」も「霊」も成長していきたいもの
である。 そして、堅い食物を食べ、悪事においては幼子であり、考え方においてはおとなにな
り、父なる神が「右」と言えば、無理したり、力いっぱい踏ん張って「右」と言うのではなく、自然
に従えるようになりたいものである。(へブル5:14、Tコリント14:20)
★旧約聖書 イザヤ書 55:6
主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
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