めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年1月10日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
人の心の表面上にあるうちから肉のものが切り取られ、砕かれることの必要性について:サウルから思考


★旧約聖書 箴言 4:23
   力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 12:2
   この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、
   何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新
   によって自分を変えなさい。
 
★新約聖書 マタイによる福音書 15:18、19
   しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。 悪い考え、殺人、
   姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。
 
●人の「心」について、心理学では、いろいろ専門的知識や考えがあると思うが、一般的に
簡単に考えて、人の心は浅い、表面的な部分と深い、奥の部分がある。 生活の中では総じ
て、「心」にあるもの(思いや考え)が言葉となって表れ、行動にまで表れている。 このことに
関して、ことわざにも幾つかある。 「言葉は心の使い:言葉は心の中にある思いを表す手段で
ある。 心の中で思い、考えていることは、自然に言葉にあらわれるということ」、「言葉は身の
文(あや) 言葉は、話す人の人格や品位を表すということ」、「言葉は立ち居を表す:言葉遣い
によって,その人の性向、品格がわかる」などである。 
 
また、イエスは「口から出るものは、心から出て来ます」と言われ、「心に満ちていることを口が
話すのです」と言われた。(マタイ15:18、12:34) ただ、この「心から出て来る」とは  表面的な
部分だけでなく深い心底にあるところにあるものが出て来るということだと思われる。 旧約時
代、主はサムエルに仰せられた。 「人はうわべを見るが、主は心を見る。」と。Tサムエル1
6:7) 主が見ておられるのは心の浅い、表面的なところにあるものというより、人の心の深
い、奥底にあるものを見ておられる。 心の浅い、表面の部分は、人にもわかりやすいものだ
が、心の奥、奥底にあるもの(思いや考え等)は、人には、なかなかわかりづらいものである。 
 
人はこの地上で生きていくにおいて、人や社会などいろいろなものと関わりを持ち,、時には影
響されたり、また世の影響を受けたり、そういういろいろなことが、人の心の奥、奥底にあるも
のを見えなくしていると思われる。 当の本人はもとより、他の人の見方も正しく見えづらくなっ
ていると思われる。 だから聖霊によらなければ正しく見えなくなっていることが多い。 「主の
ことば」としての聖書のことば聖霊によらなければ、正しく解釈することができないのと同様
である。 
 
結局、人の心の深い、奥底にあるものが、主から見てどうなのかということが重要であるという
ことだが、それは人が悪しき霊に使われたり、結託したりと、悪しき霊とのかかわりを持つこと
につながるからである。 そのことを見ていく。 
 
サウルの生涯を見てみる。 サウルはイスラエルの小さな部族ベニヤミン族。 サムエルから
王としての油そそぎを受けて初代イスラエルの王となった。 サウルは、ペリシテ人との戦いに
おいて、サムエルの七日間待て、そして神が何を言われるかを聞きなさいとの命令を受けてい
たが、遅れたサムエルを待ちきれず、「全焼のいけにえと和解のいけにえ」を自らの手でささげ
た。 しかし、それは、神の祭司しかできない行為だった。 「ちょうど彼が全焼のいけにえをさ
さげ終わったとき」サムエルがギルガルにやって来た。(Tサムエル13:8-14) サウルは悔い
改めるでなく、言い訳をして、自分の行為を正当化した。
 
アマレク人との戦いにおいては、サムエルからアマレク人を、人も家畜もすべてのものを聖絶
するよう命じられていたのに、家畜の最上のものを惜しみ残した。 サムエルを通して、罪を指
摘されても、言葉では「私は罪を犯しました。」と言ったが、口先だけだったので方向転換をし
なかった。 サムエルはサウルと決別してしまった。 サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを
見なかった。(Tサムエル15章)
 
サウルは、ダビデを妬んだ。 神が後継者としてダビデを立てられたことをサウルは知ってい
た。(Tサムエル23:17) ダビデを殺そうと容赦なく追跡した。(Tサムエル24章) ところが、
追っていたダビデに殺されても仕方がない状況が2回あったが、その2回ともダビデの神への
へりくだりによって助けられた。 そのときにはサウルは間違いを認めたが、結局、表面的な
反省でサウルのダビデに対する妬みは変わらなかった。 
 
さらに、ペリシテ人との抗争が再び激化する気配となって、不安に陥ったサウルは、神の忌み
嫌われる霊媒の女を使って、死んだサムエルの霊を呼び寄せ何とかして神の導きを得ようとし
た。 しかし、神はすでにサウルを見放した、ということを聞いて、サウルはその場に倒れ、霊
媒をする女に介抱される始末。(Tサムエル28章) サウルは、ギルボア山で深手を負い、道
具持ちに殺すよう命じたが、彼が、それに応じなかったので、自ら剣の上に倒れ自害するとい
う最期だった。 
 
T歴代誌10章13,14節「サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主の
ことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺
し、王位をエッサイの子ダビデに回された。」と書かれているが、サウルの生涯をひと言でまと
めている。
 
さて、サウルは最初、神からの霊が激しく下ったが、主の霊が離れると悪霊がサウルを悩ませ
るようになった。(Tサムエル10:10、11:6、16:14) 主の霊が離れたら、悪霊の攻撃にさらさ
れたということである。 ただ、主に従っているゆえに、悪霊の攻撃を受ける場合もある。 どち
らも、程度こそ一人一人によって違いはあるが苦しんだり、悩んだりと痛みを伴う。 
 
しかし、違いは、一方は自分の思い通りにならないという歯がゆさや他の人に対しての憎しみ
やねたみがある。 もう一方は、主に従っているゆえの、すなわち主の訓練試練による悪霊か
らの攻撃は、自我が砕かれたり、肉が切り取られたり(生まれながらの性質が変わる)、主の
御前に「忍耐」という宝が積み上げられたりと、その人が清められるという「益」になる。 悪霊
からの攻撃は、直接的であったり、人を使ってきたりと、いろいろな手口があるが、それらによ
る痛みや苦しみで、他の人を憎んだり恨んだり、妬んだりするのではなく、自分に向かってい
る。 だから、主に拠り頼む。 「主と自分」だけの関係だからである。
 
サウルの上に神の霊が激しく下ったときには、サウルは悪霊とのかかわりはなかった。 むし
ろ、神の怒りを自分の怒りとしていた。(Tサムエル11:6) しかし、イスラエルの王となったサ
ウルに早くから高ぶりの兆しが見えてきた。 サウルは面子を気にし、自分の欲望、見栄、外
聞を捨てる気はなかったようだ。 それらの「肉の思い、考え、欲望」は最初は、心の表面上に
あったものだと思われる。 たとえ、心の浅い部分、表面上にあったものでも、それらは心に居
座ってはならないものである。 悪しき霊を引き寄せて、いつの間にか悪しき霊に支配される
恐れがあるからだ。 実際、サウルに悪霊が激しく下る時には、家の中で狂いわめき、琴をひ
いて静めようとしたダビデを殺そうとした。 
 
だから、主はサウルを試すことにより変えようとされた。 サムエルの七日間待て、という命
令も、サムエルが遅れたことにより、民はサウルのもとから離れて行こうとしたことも、神から
の試し、すなわち訓練であった。 サウルが、サムエルを通して語られた「ことば」通りにしてい
たなら、面子を気にしたり、見栄を張ったりして不信の罪を犯させる要因となる肉が切り取られ
始め、自我が砕かれ始められたであろうに。 また、神に頼ることができるような機会を主はサ
ウルに何度も与えられたが、サウルは「自分の思い、考え、欲望」を捨てなかった。 
 
与えられた神からの試し、いわばサウルが変えられるチャンスの時であった。 しかし、それ
らを拒否することにより、それも何度も拒否することにより、その度、心の浅い部分、表面上に
あった「肉のもの(考え、思い、欲望)」は、心の奥へ奥へとしまい込まれていったようである。 
そうなると、ダビデへの妬みの火も消えるはずはなく、2度も自分の命を助けられても、自分の
罪と真剣に向き合おうとしなくなる。 弱い自分であることを知っているのに、神に頼ることが難
しく、頼らなくなり、他のものに頼ろうとする。 
 
このように見ていくとき、自我が砕かれず、肉が切り取られていない者は、アダムとエバ以来
の罪の性質が、神と反対方向へと誘うということである。 そして、その力は強い。 背後に働く
悪しき霊が強いからである。 だから心の浅い部分、表面上に「肉のもの(考え、思い、欲望)」
があるうちに、肉が切り取られ、自我が砕かれるということは重要なことである。 主は必ず、
主イエス・キリストを信じる者を変えようと、神からの試し、試練訓練を一人一人に応じて与えて
おられる。 我々は、それを拒否することがないように気を付けたいものである。 たとえ、自
分の不注意により知らず知らずのうちに、「肉のもの(考え、思い、欲望)」が、自分の心の奥
にまでしまい込んでいたとしても、主のあわれみを求めて、神の喜ばれない心の奥底にあるも
教えていただきたいものである。 そして、主にそれらを取り除き、砕き、清めていただけ
るよう必死で祈り求めてきたいものである。 そのためには、パウロが言ったように、自分の
からだを打ちたたいて主に従わせたいものである。(Tコリント9:27)
 
★旧約聖書 イザヤ書 55:8、9
   「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なる
   からだ。――主の御告げ。―― 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの
   道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
 
 
 



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