めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年12月27日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」について思考>


★新約聖書 マタイによる福音書 22:14
   招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。
 
★新約聖書 マタイによる福音書 7:13
   狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこか
   らはいって行く者が多いのです。
 
★新約聖書 コロサイ人への手紙 3:9〜10
   ・・あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。
   新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
 
●イエスはたとえによって多くのことを教えられた。 その中で、「礼服を着ていない者」のとこ
ろを見てみる。 マタイによる福音書22章1節〜14節。 このたとえの あらすじはこうである。 
ある王が、王子のために結婚の披露宴を設けた。 王は、招待しておいたお客を当日改めて
呼びに、しもべたちを遣わした。 しかし、彼らは来たがらなかった。 それは当時の世界で
は、あり得ないことだった。 王は、そのような無礼な人たちに、なおも 別のしもべを遣わし
て、丁寧な招きの言葉まで用意して呼びに行かせたが、人々はそれを無視し、一人は畑に、
一人は商売に出かけた。 そのほかの者たちは、この僕たちをつかまえて侮辱を加えた上、
殺してしまった。 
 
王は怒って、軍隊を動員して人殺しどもを滅ぼし、町を焼き払った。 当時、状況を考えるな
ら、王が怒るのは無理もない。 王は、招待客を見限り、大通りで出会った者をみな婚宴に連
れて来るよう、しもべたちに命じたところ、良い人悪い人も含め婚宴の席は客でいっぱいに
なった。 不思議なことに婚宴の席であるが、悪い人も交じっていた。 「良い人悪い人」とは、
我々人から見た見方である。 神の見方と人の見方は違う。 人から見た「悪い人」でも、王か
ら与えられた礼服を着るなら「良い人」なのである。 それ以前に、人が判断する「良い人悪い
人」は、婚宴の席につくこと、すなわち「救い」には関係ないということであろう。  ところが、こ
の婚宴の席の中に婚礼の礼服を着ていない人がひとりいた。 
 
当時の習わしは、王が礼服を用意したという。 結婚の披露宴に招かれた人は、王から礼服
を受け取って着るということであったようだ。 礼服を着ないで入ってきた人は、王が用意した
礼服を断った無礼者か正規の門から入って来なかった人であると言えよう。 それでも王は、
この人に、「友よ」と呼びかけ、「どうして礼服を着ないで・・」と着なかった理由を尋ねた。 ちな
みに、ここの「着ないで」は、原語では「持たないで」となっている。 彼は黙っていた。 そのこ
とによって、この人は、この結婚と主催者である王と王子を侮辱していることがわかる。 黙る
ことで、自己主張をしている。 それで王はしもべたちに、この人の手足を縛って、外の暗闇に
放り出すように命じたのである。 このことも当然のことであろう。 この天の御国のたとえの最
後にイエスは「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」と言われた。
 
このたとえで この結婚式とは、キリストと教会をさす。(黙示録19:9) 王は、父なる神、王子
は御子イエス、しもべたちとは、旧約の預言者たち、最初、招待していた客、ふさわしくなかっ
た客とは、旧約のイスラエル人たち、大通りに行って、出会った者とは、異邦人ということであ
る。 このたとえは、終末には、イスラエル人たち(旧約の民)と救われる異邦人(新約の民)と
いう図式から、クリスチャンと今後救われる人々という図式になると思われる。
 
このたとえの一つには、イスラエル人たちが待ち望んでいたはずのメシア(キリスト、救い主)で
あるイエスを拒否することによって、救いが異邦人に広がっていったことが語られている。 そ
して、終末においても、クリスチャンの多くが、イエス・キリストを拒否するようなことが起こり得
ると語られているようである。 結婚の披露宴(小羊の婚姻)に招待されても、それが黙示録
書かれている「小羊の婚姻の時」とは気づかず、断って畑に行き、商売に出て行き、すなわ
ち、せっせせっせと伝道したり、キリストの聖会、集会に参加したり、教会で奉仕したりを優先
することで主に仕えていると思い込む。 
 
伝道することも集会に参加することも教会で奉仕することも、正しいことである。 しかし、主に
尋ねながら、主の御声を聞きながら、聖霊の導きによって行なうべきである。 主が、伝道せよ
と言われる時に伝道する、主が集会、聖会に参加せよと言われる時に参加する、主が教会で
奉仕せよと言われるときに奉仕する。 この基本を決しておろそかにしてはならない。 そうで
ないと、主が伝道ではなく別のことをさせようとされているのに、伝道すべきは主のみこころと
人が判断して、主のみこころとは違う方向へ行くということもあり得るからだ。 まず、「主は自
分がどうすることを望んでおられるのか」を尋ねることが大切である。 
 
また、招待されたクリスチャンの中には、「王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺
してしまった」と同様、変質して 王のしもべたち、すなわち「神から遣わされたしもべ」を通して
語られる「主のことば」を無視するだけでなく、侮辱を加えた上、殺したりする者もあらわれるの
であろう。 いずれにしても、招待を拒否する者の結果は、滅ぼされる、すなわち「天の御国」
に入れないということである。 
 
この婚宴の席は客でいっぱいになった、すなわち「救い」が異邦人に広がっていったが、結論
「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」ということである。 主は、ひとりでも滅びる
ことを望まず、すべての人が悔い改めに進むこと、すべての人が救われて、真理を知るように
なるのを望んでおられる、終末においても多くの人が招かれるが、王が用意した礼服を着て
「小羊の婚姻」に列席する者は少ない、すなわち、最終結果、主に選ばれた者は少ないという
ことであろう。 このたとえで、「選ばれる者は少ない」ことが強調されているように思える。 
厳粛なことである。 
 
ここで重要なことは、「婚礼の礼服」を着ているか着ていないかである。 「礼服」とは、「義の
衣」であり、それは「キリストを着ること、キリストを信じること」である。(ガラテヤ3:27、エペソ
4:24) ここにいた「婚礼の礼服を着ていない者」は、王宮の門からではなく、巧妙に別のとこ
ろから入り、紛れ込んだのかもしれない。 「天の御国」を汚そうとして忍び込んだ輩であるなら
言語道断、裁かれて当然だが、とにかく「天の御国」に入りたくて紛れ込んだ者かもしれない。 
しかし、いずれにしてもイエスは「羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえ
て来る者は、盗人であり、強盗である。(ヨハネ福10:1)」と言われた。 
 
また、侮辱するつもりはなく ただ「自分の考え、思い、願い」を押し通そうとしただけかもしれな
い。 しかし、それは この結婚と主催者である王と王子を侮辱することになるということだ。 
天の御国に入りたいが、「自分」の方法で入りたい、「自分」という者を温存したまま入りたいと
いうのが、この人の「本音」であると思われる。  「黙る」ということは、その「自分の考え、思
い」は通らないことを知っているということであろう。 知っていても尚、「自分(我)」を通そうとす
る。 そういう者は、「友よ」と呼びかけられても、着なかった理由を尋ねられても、へりくだろう
としない。 
 
「婚礼の礼服を着る」ということは、「単にイエスを信じている」という単純なものではないという
ことである。 「自分」を捨てているかどうかにかかっている。 着るか(持つか)着ないか(持た
ないか)、自分がどちらを選択するかどうかである。 「自我が砕かれる」こと、「肉(生まれなが
らの性質)が切り取られる」ことが、必要であることが、ここでも見て取れる。 
 
確かにイエス・キリストを信じた最初の頃は、「単にイエスをキリスト(救い主)と信じた」ところか
ら始まった。 しかし、いつまでもいつまでも「単にイエスを信じている」でとどまっていてはなら
ない。 子どものように神の国を受け入れる純粋さは大事であるが、「成長」しておとなになるこ
とも大切である。 善悪を見わける感覚、霊を見分ける力は、主のみこころに従って歩んで行く
ときに必要なものであり、こういうものは大人のものであるからだ。(へブル5:14) 本当にイエ
スを信じた神の子は「霊」「信仰」も成長していく。(Tペテロ2:2、コロサイ2:19、エペソ4:15) 
成長のスピード、度合いは一人一人に応じてみな違うが、成長」は必要である。 また、その
過程で自我が砕かれ、肉は切り取られるという体験を積んで行くことになる。(へブル12章) 
 
とにかく、「小羊の婚宴に招かれた者は幸い者」として、「婚礼の礼服」を着て祝宴を楽しみた
いものである。 そのためにもキリストの十字架を心底から体験し、安易に「自分は選ばれた
者だ」と安堵せず、目を覚まして、絶えず祈り求めてまっすぐにゴールに向かって歩みを進め
ていきたいものである。
 
★新約聖書 ルカによる福音書 13:24
   努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとして
   も、はいれなくなる人が多いのですから。
 
 



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