めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年12月20日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
主なる神の御前に立った時に どういう態度を取るのかは、人の心の奥底、すなわち人の霊がへりくだっているのかどうかによる:偽善者律法学者パリサイ人とアブシャロムから思考


★新約聖書 へブル人への手紙 4:13
   造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であ
   り、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
 
★旧約聖書 サムエル記 第二 22:29
   主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。
 
●聖書によると「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル
9:27) これはクリスチャンであるないにかかわらず、信じる信じないにかかわらず、だれもが
一度死ぬこと、死後にさばきを受ける、すなわち神の御前に立つことになる。 その時、人は
神の御前にへりくだることができるであろうか。 
 
人間は本来、創造主である神の御前にへりくだるべきであるが、アダムとエバ以来の「罪」
「罪の性質」によって、へりくだることが難しくなっている。 だから「罪」が赦されることと、「自
我」が砕かれること「肉」(生まれながらの神に逆らう性質)が切り取られて、清められ整えられ
ることが必要である。 神と人間の間を隔てていた「罪」についての解決は、イエスが十字架で
死んでくださったことによって解決した。 だから「罪」が赦されるために、イエス・キリストを信じ
受け入れることが必要なのである。 
 
また、「罪の性質」の解決は、キリストは3日目によみがえられ、神の右に上げられ、父から約
束の聖霊を受けて、それを信じる者たちに注がれたが、その聖霊によって「罪の性質」はきよ
められ、新しい性質を与えられることによる。(使徒2:33、コロサイ3:10) 聖霊によって「罪の
性質」がきよめられる段階で、一人一人に応じて、主の懲らしめや主に責められること、すな
わち主からの訓練試練がある。 このとき、自我が砕かれ、肉が切り取られる体験をするが、
そうして変えられていく。 祈っていたら知らないうちに自然に変えられたということはない。 
一人一人に応じての何らかの訓練はあるはずである。(へブル12:11) 
 
また、苦しみにあったから変えられたというのでもない。 その苦しみに主が介入され、その人
がピントを外れずに主に頼り切ったかどうかが鍵となる。 案外、主に頼ったと言いながら、
分の考えや思いを主のみこころと勘違いする者が多いのも事実である。 そのような者の心の
奥底には、しっかり「自分(自我)」が鎮座していることが多い。
 
人間はこの地上にいる間にしろ、死後にしろ主なる神の御前にへりくだるべきであるが、主イ
エス・キリストを受け入れて「神の子」とされ、クリスチャンと呼ばれる者たちでも皆が皆、神の
御前にへりくだっているかと言えばそうではない。 しかし、真にキリストを受け入れた者は、神
がその人を訓練し「神の子」にふさわしく整えようとしてくださる。 やはり、このことも一人一人
に応じた訓練試練を通して整えてくださるばかりか、その後の神のご計画があって周りの環境
状況さえも、整えられる者もいる。
 
ただ、「神の子」とされた者たちは、神に選ばれ、神のご計画の中に組み込まれていると言え
るが、神に選ばれているから自動的に天の御国への階段をまっすぐに上れるものではない。 
神のご計画の中にあるから、自然につつがなく神に喜ばれる者に整えられるのでもない。 確
かに、神にはご自身が定められたご計画はあるが、我々一人一人の自由意志による応答が
密接に関わっていることを覚えておくべきである。 
 
さて、聖書の登場人物から、神の御前にへりくだらなかった人たちから、その人たちのタイプを
見てみる。 律法学者、パリサイ人たちの場合。 彼らは神を信じ、神の戒めを教えるユダヤ
人である。 イエスは、彼らは教えはするが、自分たちはそれを実行しなかったこと、社会的地
位、世間体を重んじて、人前で善行を行なっていたこと、高ぶっていたことなどを責められた。
(マタイ23章) 
 
一方、律法学者、パリサイ人たちは、当時の一般のユダヤ人たちと同じようにメシヤ(キリス
ト、救い主)の来るのを待っていた。 その救い主はダビデの子として生まれると、旧約聖書の
預言に従って信じていた。 しかし、メシヤであるイエスを目の前にしても、イエスの権威ある教
えを聞いても、奇跡や不思議、いやしを目の当たりに見ても受け入れなかった。 それどころ
か ねたみから民衆を扇動してイエスを十字架につけた。 
 
律法学者、パリサイ人たちの特徴は、ひと言でいえば、イエスが言われたように「偽善」であ
る。 「偽善」とは、ある国語辞書では「うわべをいかにも善人らしく見せかけること。また、そう
いう行為。」とある。 だから善人ぶっている者は、ある意味「偽善者」である。 律法学者、パ
リサイ人ほど、もろに主に反抗する者でなくても、善人ぶるタイプの者は、当の本人は気づいて
いなくても悪しき霊と結託したり、悪しき霊に容易に使われたりなど、悪しき霊の喜ぶことをして
いることがある。 
 
ダビデの三男アブシャロムの場合。 父ダビデに反逆したアブシャロムは、皮肉なことに、名ま
えの意味が「父の平和」だった。 アブシャロムの妹タマルが、異母兄アムノンからはずかしめ
を受けた。 その復讐のために計画を立て、事件から2年経った後、アムノンを殺し逃げた。 
その後、ダビデの将軍ヨアブの仲立ちによりエルサレムに戻ったが、すんなりとダビデ王に会
えなかったばかりか、会ってダビデ王から口づけされても、両者の心の一致はできなかった。 
それどころか、ますます断絶は強まったようである。 アブシャロムはダビデの政権を狙って、
謀反を起こした。(Uサムエル15章)
 
アブシャロムは、謀反を起こす前、周到な計画を立て実行した。 「こうしてアブシャロムはイス
ラエル人の心を盗んだ。」とあるが、その様子がUサムエル15章に書かれている。 人がアブ
シャロムに近づいて、あいさつしようとすると、アブシャロムは手を差し伸べて、その人を抱き、
口づけをしたり、王のところへ訴えを持ち込む者を見つけると、そのつど呼び止めて、訴えを
聞き、「王の側にはあなたのことを聞いてくれる者はいない。」、「ああ、だれかが私をこの国の
さばきつかさに立ててくれたら、訴えや申し立てのある人がみな、私のところに来て、私がその
訴えを正しくさばくのだが。」と言って、自分を売り込むと同時に悲劇のヒロインのように自分の
立場を下げて、しかもダビデを責めている。 直接的にはダビデを批判していないが、巧妙に
ダビデへの信頼を失わせるような言い方をしている。 悲劇のヒロインを演じるタイプの者は、
上手く演じるなら社会的影響力を持つ。 上手く人の心を惹きつける。 
 
このようにしてみると、律法学者、パリサイ人たちのような善人ぶるタイプの者とアブシャロム
のような悲劇のヒロインを演じるタイプの者の共通点は、「悔い改めがない」ことである。 言い
訳をして「自分」を主張して、「悔い改めることがない」 自分も悪いところはあったが・・・と反
省をしているような言葉を発するも、その言葉さえ「自分」を守り、「自分の思い」を押し通すた
めに使う。
 
善人ぶるタイプの者も悲劇のヒロインを演じるタイプの者も、「自分の思い、願い、考え」すなわ
「自分」を主張し、「自分」を守ろうとし、自分」を最優先する。 そのような者の根底は、「自
分」「自分」「自分」である。 悲劇のヒロインを演じるタイプの者は、表面上は善人らしく、やん
わりと物を言いながら、自分の肉の思い、特に人(相手)を非難するための言葉をチラッとさり
げなく言って、人(相手)を責め、人(相手)を悪者に仕立て上げる。
 
また、人は心にあることが言葉にあらわれると言われるが、同じ言葉を聞いても人によっては
嫌みや批判、責めを感じられたり、何も悪意を感じられず言葉通りであったりということがあ
る。 この違いは、言葉を言う人の心の奥底に、話す相手に対しての思いや不満、嫌いという
感情があるかないかだと思われる。 いくら良い言葉、褒めの言葉を聞いても、その言葉通り
に感じられないことも同様である。
 
主なる神の御前に立った時に どういう態度を取るのか、すなわちへりくだるのかどうかは、そ
の人が心の奥底にあるものが影響するということである。 「人はうわべを見るが、主は心を見
る。(Tサムエル16:7)」と言われるが、その「心」とは、「人の心の奥底、すなわち人の霊」であ
る。 そして、表面的には、いろいろな人がいる。 しかし、神が見ておられるのは、心の奥底
が主の御前にへりくだっているかどうかがであるということだ。 
 
先週の「めんどり通信」で書いたダビデの将軍ヨアブは、イスラエルの将軍アブネルとアブシャ
ロムとユダの将軍アマサを殺した。 そのことについて、ソロモンは、ヨアブは自分よりも正しく
善良なふたりの者(アブネルとアマサ)を虐殺したから主が復讐されたと言っている。(T列王
記2:32) アブシャロムの名まえはない。 殺されて当然といわんばかりである。 アブシャロム
は、ダビデに背きダビデの前、すなわち神の御前にへりくだらなかったからである。 律法学
者、パリサイ人たちにイエスは、「忌わしいものだ、わざわいである」、「あなたがたは、あなた
がたの父である悪魔から出た者(ヨハネ福8:44)」と言っている。 
 
結局、この地上でいるときに、自分は神の御前にへりくだっていると思い込んでいても、この地
上においてイザッというとき、もしくは死後、神の御前に立った時に本当に神の御前にへりく
だっているかいないかが問われることになる。 
 
心の奥底に「自分(自我)」「(肉の)自分」がしっかり鎮座しているなら、自分を守るために「善
人ぶる、悲劇のヒロインを演じる」ことを、無意識にしかも あからさまにではなく巧妙に言動し
ていることがあり得る。 律法学者、パリサイ人たち、アブシャロムから見てわかるように、その
ように言動する者を主なる神は忌み嫌われる。 そのような者を悪しき霊は喜び、そのような
者に、いろいろなことで「主のみこころ」とは違うことを「主のみこころ」だという「思い込み」を注
入しようとする。 
 
我々は、今一度、真に主に頼りつつ「自分を吟味する」必要があるかもしれない。 「だれもみ
な自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。(ピリピ2:2
1))」とパウロは言ったが、そのことを よくよく考えてみる必要があるかもしれない。 自分の
心の奥底にあるもの、それが「神への愛」ならいいのだが、「自分(自我)」が鎮座していないか
どうか、「肉」が自分を支配していないかどうか・・・。 今、生きている我々は、人生の途上であ
る。 たとえ聖霊が存分に働かれたとしても油断することなく、ますます純粋に心の奥底、霊の
深みへと進んで行きたいものである。
 
★旧約聖書 詩篇 139:23,24
   神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
   私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
 
 



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