めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年12月6日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<寿命について考えてみる>


★旧約聖書 詩篇 90:9〜12
   ・・・私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労
   苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。・・・それゆえ、私たち
   に自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてく
   ださい。
 
★旧約聖書 詩篇 90:15〜17
   あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを
   楽しませてください。  あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子ら
   に見せてください。 私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私
   たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにし
   てください。
 
★旧約聖書 伝道者の書 12:13、14
   結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが
   人間にとってすべてである。 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、す
   べてのわざをさばかれるからだ。
 
●「2015年版世界保健統計」によると、日本人の平均寿命は女性が86.61歳で世界一、男性
が80.21歳で世界4位、男女平均が84歳で世界最長だったという。 今日、医学などが、ますま
す発達しているが、海外メディアによると、専門家は、継続的に寿命は延びるが、人間の寿命
の上限は120歳だと指摘したという。 英国の神経生物学者で、英国医学研究協議会の主席
執行官を務めていたコリン・ブラックモアさんは「人間の寿命が120歳を超えることは珍しく、医
学、科学技術が進歩しても、この上限を突破することは難しい」と指摘したいう。(2014年10月
のニュース) このように、現在、医学的にも、科学的にも、統計的にも、人間の寿命は120年
であることがほぼ証明されていると言われている。 
 
聖書の創世記の登場人物の寿命は、アダム930歳、ノア950歳など、ノアの洪水以前は長寿
だった。 しかし、ノアの洪水以降、アブラハム175歳、イサク180歳、ヤコブ147歳、ヨセフ110歳
と、寿命は下がってきた。 モーセは、120歳生きたが、モーセが生きていた時代、平均寿命
は、すでに現在と同じくらいになっていたという。 その後ヨシュアが110歳、ダビデは70歳で
あった。 
 
ダビデの生涯には、多くの困難、苦難があり、いわば試練の連続であった。 そのような中で、
ダビデは鍛えられ、清められて、ますます神なる主ご自身との交わりを深くしていった。 そして
ダビデのたった一つの願いは、「私のいのちの日の限り、主の家に住むこと、主の麗しさを仰
ぎ見、その宮で、思いにふけること」であると言っている。(詩編27:4) 苦労の連続ではあった
が、ダビデの生涯は、何一つ、無益なものはなく、後(死後)に永遠に続く神との交わりを期待
し喜びと感謝する最期であった。 ダビデに関して、第一歴代誌29章28節には「彼(ダビデ)は
長寿に恵まれ、齢も富も誉れも満ち満ちて死んだ。」と書かれている。 この地上にいる間、
に愛され神を愛し、死後も神の愛の中で永遠に過ごすことができるダビデは幸いな者である。 
 
モーセの場合。 ダビデ同様、波瀾に富む人生行路をたどった。 モーセは、エジプトの王子と
しての生い立ちがあり、成人してからは神の民のため王子の身分を捨て、ミデアンの荒野で孤
独な羊飼いの生活をなし、80歳で神の召命を受け、主の働きに入り、120歳の時、死んだ。 
モーセは120歳であったが、モーセの目はかすまず、気力も衰えていなかったという。(申命記3
4:7) イスラエル人たちを奴隷から解放し出エジプトさせ、荒野の40年間、反抗するイスラエル
の民たちを導いて、約束の地に到着した。 しかし、ビスガの頂から約束のカナンの地の全貌
を見ることを許されたが、「あなたはそこへ渡って行くことはできない。」と神に言われた。 そし
て、後継者としてヨシュアが神によって立てられ、モーセは、そこで主の命令によって死んだ。
(申命記34:5) 
 
指導者モーセに、反逆するイスラエルの民から受けた半端ない苦しみと神への反逆のため荒
野で死んでいった民たちを目の当たりにして、人生のはかなさを痛感し、それらの対極にある
神の永遠性と比べた「モーセの祈り」詩編90篇に書かれている。 ダビデに比べて、モーセ
の死は、志半ばにして倒れたように見えるかもしれないが、そうではなく、何もかも神のご計画
の中にあった。 モーセは律法を代表し、後継者ヨシュアはイエスの型である。 だから「モー
セの死」は、「新しい始まり」を意味していた。 「モーセの死」は、意味のある死、重要な死
あった。 
 
律法を人間の力で行なうには限界があること、人間が自らの力で律法を成就することができな
いこと、人は律法を行なうことによっては救われないことを我々人は知ることになったからであ
る。 パウロは「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるので
す。(ローマ10:4)」と言っているが、律法はキリストでなければ成就することはできないのであ
る。 イエスも「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃
棄するためにではなく、成就するために来たのです。」と言われた。(マタイ5:17)
 
このようにしてみると、神が定められた死の時が、「一番良い時」、「最善の時」であるということ
だ。 死に方や死んだ時の事情など、外側から見て判断されるものではなく、「神が定めておら
れる時」こそが、「人の死の最善の時」である。 ただ、そうは言っても、幼い子どもを残して親
が死んだ時が、その人にとって「最善の時」などとは到底思えないであろう。 せめて子どもが
独り立ちするまでもう少し生き延びたいと思うだろう。 また、幼い時にこの世の人生を終える
者もいる。 かと思えば 100歳頃まで生きる人も増えてきた。 全く「人の命の終わりの時」
は、人にはわからないものである。 それでも、やはり、人には神が定められた死の時があ
る。 いわば、それは「神の領域」であるからだ。 生まれること、死ぬこと、すなわち、命はす
べて神の御手にある。 
 
だから、本来、人間の死で、無駄な死はないのではないだろうか。 無意味な死はないのでは
ないだろうか。 神の御手にあることで決して、無駄なこと、無意味なことはないからだ。 ふと
考える。 例えば、幼い子どもが取り残されたとしても、主はいろいろな方法で、その子どもが
真の神を知り頼ることができるように導いておられるのではないかと。 与えられた命の素晴ら
しさを何らかの方法で教えようとされ、生きる価値が神から与えられていることを教え、その子
どもが生きることに対して積極的になるよう導かれているのではないかと、そう思うのだが。 
また、死にゆく者にも、完全に死ぬ前にそれまでの人生が走馬灯のように映し出され、神に立
ち返るよう導かれているのではないだろうかと。 また死から遠いときに「良心」に働きかけ、ご
自身を知らせようとしておられるのではないかと、そう思うのだが。
 
神は人に「良心」を与えておられる。 その「良心」に主なる神は常に働きかけておられるので
はないだろうか。 「良心」原語のギリシャ語では、「共に」という意味の接頭語と「知る」という
意味の語が合わさって出来ているという。 すなわち、「共に知る」という意味を持っている語で
あり、自分自身と神が共に、善悪の判断がなされること差している語であるという。 まだ真
の神を知らない人でも、この「良心」によってしばしば善悪を見分けることができる。 神が我々
人間に「良心」というすばらしい見張り役を与えてくださっている。 この番人「良心」は、神と共
に協力して働き、何か悪いことを心に思ったり、悪事を働くとそれらを見逃したり、大目に見た
りしないでその人の良心を強く責める。 それが神からの警告となっている。 しかし、「良心」
も鈍感になることがある。 「良心」が鈍感になり麻痺してくるとサタンが働きやすくなったり、悪
しき霊と結託するようになって、結局、その人自身も苦しめられることがあるので気を付けなけ
ればならない。
 
さて、モーセほどではなくても、この地上を生きているなら、いろいろなことがある。 楽しいこと
嬉しいこと、嫌なこと苦しいこと。 そして、様々なことに矛盾を感じ、空しさ(虚しさ)を覚え弱さ
を感じることも多いであろう。 そのような中で、自分の無力さ、人生のはかなさを思い知って、
虚しさがどこから来るのか、自分の心の深いところを見つめながら考え、「罪と赦し」「死と死
後」について真剣に考えることを、いろいろなかたち、方法で神は人に促しておられるのではな
いかと思う。 
 
そのような見方、考え方をするとき、人は死んだら終わり、眠ったときのように何も知らないな
どと片づけられなくなるであろう。 また、死んだらご先祖様のところへ行く、天国へ行くと安易
に言えなくなるであろう。 また、人が死ぬことを「異常に」恐れたり、人を蹴落としてでも生きた
いと世に「異常に執着する」のは、ある意味、「罪人」の姿であることが わかってくるのではな
いだろうか。 ただし、正しい手段で考えていかなければ真実には到達することはできない。 
 
今日、死後の行き先について、様々な宗教?教え、霊媒、占いが氾濫し、生活の中に自然に
入り込んでいる。 それらの手段を使って、サタンは、少しでも隙があれば、人が真実に到達で
きないよう仕向けてくるばかりか、自分と同じ(滅びの)道へ誘(いざな)おうとしてくる。 だか
ら、教会や宗教の枠にとらわれず、純粋に真実を追求することは大切なことである。 そのよ
うにしている者は、主なる神の差し出されている御手をしっかりつかむことができるであろう。 
 
モーセのように、己の弱さ、人生のはかなさ、空しさ(虚しさ)を痛感し、苦労してきた者、苦労し
ている者だからこそ、真の喜びと満足を与えられるように主に心の深みから求めていけるので
はないだろうか。 とにかく与えられた「命」、残りの「命」の価値を認識させていただき、神のみ
わざを見せてくださるよう祈り求めていきたいものである。 神の栄光が現われるようにと祈
り、神の威光を見せていただきたいものである。
 
★旧約聖書 伝道者の書 3:1、2
   天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。 生まれるの
   に時があり、死ぬのに時がある。・・
 
★新約聖書  ヘブル人への手紙 9:27
   そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている
 



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