めんどり通信/2015年11月8日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <「祈り」「祈ること」について:「自分の奥まった部屋にはいり戸をしめる」ことについて思考> |
|
★新約聖書 マタイによる福音書 6:6
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。 そして、戸をしめて、隠れ
た所におられるあなたの父に祈りなさい。 そうすれば、隠れた所で見ておられるあなた
の父が、あなたに報いてくださいます。
★新約聖書 マタイによる福音書 6:7、8
また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば
数が多ければ聞かれると思っているのです。 だから、彼らのまねをしてはいけません。
あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを
知っておられるからです。
●福音書を読んでいて、改めて主が望まれる「祈り」「祈ること」について思考してみた。 イエ
スは、「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。 彼らは、人に見られたくて会
堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。・・祈るときには自分の奥まった部屋に
はいりなさい。 そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。・・・(マタイ
6:5,6)」と言われた。
人に見られたくて、ということも、上手く祈れないから人に見られるのが嫌だということも、動機
の違いはあれど、どちらも人を意識していることに変わりはない。 自分の奥まった部屋には
いるということは、人を意識しないで祈るためということもあるかもしれないが、それよりも「主な
る神と自分」の「一対一の関係」が大切であることを主が言われていると思われる。 律法学者
やパリサイ人などのように露骨に人からの評価を得たいとか自分の弱さゆえ人目を気にして
主に心を集中して祈れないとか、どのような形の表われがあったとしても人を意識せず、心を
主なる神にだけ向けて祈ることができるようになることは大切なことではある。
「主なる神と自分」が完全に「一対一の関係」になるためには、戸をしめなければならない。 す
なわち、何ものも
そこに介入させてはいけないということである。 教会で習った教理や註解
書、神学書などから得た知識などの先入観、世の常識、キリスト教会の常識、・・・などを介入
させてはならない。 すなわち、戸をしめて「心の奥底」「霊(の領域)」からの祈りをすることを
主が望まれている。
奥まった部屋を、ある人は、地下室ではないかという人もいる。 真っ暗で誰にも邪魔されない
というが、イエスが言われているのは、そういう場所の問題ではない。 主イエスは、「心の貧し
い者は幸いです。(マタイ5:3)」と言われたが、この「心」は原語では、プニューマと言って「霊」
を意味するという。 「貧しい」は、原語ギリシャ語でプトーコスと言い、、うずくまる、ちぢこまる
という意味があり、ヘブライ語まで遡(さかのぼ)ると神に対して謙遜という意味だという。 心の
奥底、霊が神に対して謙遜である者が幸いであるとイエスは言われているのだ。 このように
心の奥底、霊が神に対してへりくだっているところで、父なる神に祈りなさいということである。
神は霊である。(ヨハネ福4:24) 我々は、父なる神と霊において交わることができるからだ。
ただ、我々キリストを信じている者も最初から、へりくだっているわけではない。 アダムとエバ
以来の性質を受け継いでいるため、自我が強く、肉(生まれながらの神に逆らう性質)も強い。
心の奥底からへりくだる、すなわち霊がへりくだるには、自我が砕かれ、肉が切り取られる必
要がある。 「砕かれる」というとき、クリスチャンでなくても様々な出来事を通して砕かれる人も
いる。 しかし、大事なことは、神の介入によるキリストによって砕かれるということである。 キ
リストによって砕かれる者は、「キリストの聖き」に預かり、「キリストからのもの」に与(あずか)
ることができる。 ますます神である主と深く交わることができるようになる。 そうして、神の喜
ばれる者に変えられていく。 そのようになることを主の方が望んでおられる。
さて、著者が交わっている姉妹Aさんの証し。 約17年前、ある神学校を卒業された先輩が、タ
イで伝道者として活動され、食料や物資を難民キャンプに差し入れていたという。 その先輩
のところへ行こうとAさんたち8名ほどがタイへ自腹で向かった。 タイでは、2007年当時は、
2000キロに及ぶタイ・ミャンマー国境にタイ政府に正式に認められた難民キャンプが9箇所点
在していたという。 当時その数15万人。 Aさんたちが行った1998年頃も相当な人数のミャン
マー難民がいたようである。
Aさんたちが行った難民キャンプは4千人(カレン族が大半)ではあったが、何しろ膨大な人数
の難民の数からすると小規模であったという。 NGOとかは政府に正式に認められた大きい
キャンプの支援に行くようで、この4千人のキャンプには来なかったようである。 ここは、まる
で忘れられた難民キャンプだったという。 それでも難民キャンプということで、キャンプの入口
では、軍隊が見張りをしていたという。 Aさんたちは、文房具や食べ物、衣類などを差し入れ
に行ったという。 そのミャンマー難民キャンプの4千人のほとんどがクリスチャンということで、
彼らのほしい物は「主を賛美するためにギターがほしい」と求めたという。 聖書は数はわから
ないが、あったようである。
差し入れを渡して帰ろうとすると多くの子どもたちが寄ってきたので、一緒にそのキャンプへ
行った人たちは皆それぞれ微笑んで子どもたちと一緒に写真を撮っていたとのこと。 しか
し、Aさんは、とてもそのような気分にはなれなかったという。 子どもたちはこの難民キャンプ
で生まれ育ち、外の世界を知らない。 Aさんたちの乗った車が走り出すと、子どもたちはバイ
バイと手を振りながら車の後を追って来るように裸足で走って来たという。 一緒に行っていた
仲間たちはバイバイと手を振っていたが、Aさんは、涙が心の奥から溢れてきて止まらなかっ
たという。 皆はニコニコ笑って手を振っているのに、ひとり場違いのような感じで泣き、鼻水を
垂らすほどに泣いて悲しんでいるAさんの姿に仲間たちからドン引きされたとのこと。
怪訝(けげん)そうに見られてもドン引きされても涙は止まらず、胸がちぎれ破れて血が出るほ
どの悲しみがこみ上げてきたという。 心の中で「私の残りの人生、ここに私が閉じ込められて
もいいですから、あの子たちを外に出してやってください」と心の奥の方から「祈り」が出てきた
という。 その後、日本に帰り、様々なことがあり時間は経過していったが、4千人の難民キャ
ンプと、あの子どもたちのことは心の片隅にしっかりあったという。
それから15年くらい経ったとき、ふとテレビを見ると旅番組が放映されていた。 すると、キャス
ターが、タイを紹介しており、「ここは、ミャンマー難民キャンプがあったところです。 4千人の
小さなキャンプでしたが、アメリカの(ある)団体が、このキャンプに目を留めて、寄付を募り、
数年前、4千人全員をアメリカへ亡命させました。 4千人全員がアメリカへ移住しました。」と
言うのを聞いた。 Aさんは、「あのときのキャンプの人たち、あのときの子どもたちが外の世界
へ出ることができたんだ。 イエス様だ。」と主が祈りを聞いてくださったばかりか、このような自
分に、そのことを知らせてくださったとわかり、今度は感謝と畏敬の念を持って涙したという。
今、振り返って考えてみると、あの時の「心の痛み」は、「主の痛み」だったこと、あの時の「祈
り」は、主が与えてくださった、「主の望まれる祈り」だったことを痛感するとのことである。
どのような祈りかは、わからないが、その4千人の難民キャンプの中の多くはクリスチャンで
あったことから彼らも祈っていたであろうということ、教会が差し入れなどで奉仕をするにおい
ても祈っていたであろうということ、Aさんと一緒にタイへ向かった人たちは、現地の伝道者たち
と心を合わせて祈ったであろうということは推測できる。 そのような「祈り」も必要ではある。
しかし、最も必要な「祈り」は、主が、その時その時に望まれている「祈り」であり、主が人の「心
の奥底、霊」に与えられる「願い」「祈り」である。 このことを我々主イエス・キリストを信じる者
は知っておく必要がある。
教会で集まって祈る「祈り」、クリスチャンが集まって祈る「祈り」が無駄であるとは言わないが、
終末に入ったかもしれない、もしくは近づいていると言われる昨今、本当に、主が望まれている
「祈り」と「祈りのかたち」がある。 戸をしめて「心の奥底」「霊(の領域)」からの祈りである。
心の奥底、霊が神に対してへりくだっているところでの祈りである。 我々は、今一度、「主なる
神と自分」がしっかりと「一対一の関係」になり、それが持続するために、砕かれる必要がある。
砕かれた者、砕かれている者、その途上の者(神からの訓練試練を受けている途上の者)に、
主が望まれている「祈り」が与えられるであろう。 腹の底から、主に叫ぶことができるのも、主
がその人の「心の奥底、霊」に、その叫び(祈り)を与えてくださるから、叫ぶことができるので
ある。(めんどり通信/2015年11月1日の墓場に住んでいた男のように) そのためには、やは
り「祈る」ことに取り組みたいものである。 「空しい言葉の繰り返しの祈り」にならないように、
表面的な祈りにならないように、祈りのかたちに囚われないように、何ものも介入させないため
に戸をしめて、心の奥底から純粋に祈ることに取り組みたいものである。
★新約聖書 マタイによる福音書 14:23
群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、
ひとりでおられた。
|
|