めんどり通信/2015年10月4日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <常に主イエス・キリストを足場にすることについて:パウロから思考> |
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★旧約聖書(口語訳) 詩篇 9:10
み名を知る者はあなたに寄り頼みます。主よ、あなたを尋ね求める者を/あなたは捨て
られたことがないからです。
★旧約聖書 詩篇 32:8
わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留
めて、助言を与えよう。
●パウロの生涯を使徒行伝からみると、パウロは劇的な形で主イエス・キリストと出会ってい
る。(使徒9:1-20) 復活のキリストに出会ってからのパウロの生涯は、イエスのことば通り、何
度も苦しい目にあっている。(使徒行伝9:16、Uコリント11:23-27) しかし、その生涯は、苦し
い中にも永遠の栄光に入ることの喜びに満ちたものであった。 また、パウロの生涯は、ひと
ことで言うなら、神がご計画されていたものであり、主との親しい交わりを基盤(足場)にした上
での歩みであり、主の語りかけ、聖霊の導きが明確にあった歩みであった。 主はパウロを愛
され、パウロも主を愛していたゆえ、多くの壮絶な苦難をも乗り越えることができたのである。
パウロは、主イエスの十字架の死と復活を伝えるべく3回の伝道旅行をした。 アンテオケにあ
る教会で預言者や教師たちが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロを
わたしのために 聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われたことにより、@
第1回伝道旅行となった。(使徒13章-14章) キプロス島のパポスというところでは、パウロの
話しを聞こうとする地方総督セルギオを妨害する魔術師エルマに「見よ。主の御手が今、おま
えの上にある。おまえは盲になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる。」と言う
と、たちまち、魔術師は目がすっかり見えなくなるということがあった。
パウロが、ひとこと祈ってから、そのように命じたとは書かれていないが、聖霊が働かれたこと
に間違いはない。 パウロは単独で命じたように見えるが、そうではない。 主がパウロのこと
ばの後ろ盾となったというわけでもない。 パウロが命じた「ことば」は、キリストとパウロが一つ
になって命じた「ことば」だと思われる。 だから、聖霊が働かれた。 キリスト抜きの単独では
(複数でも)、決して聖霊は働かれることはない。 ルステラの町でも、生まれながらの足なえ
で、歩いたことがなかった足のきかない人が、いやされる信仰があるのを見て、パウロは「自
分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言うと彼は飛び上がって、歩き出した。 ここでもパウロ
が、祈ってから命じたとは書かれていないが、キリストが足のきかない人に目を留め、いやさ
れる信仰があると見なした同じ見方、主キリストの見方をパウロもしている。 それはパウロ
が、常にキリストの心を自分の心としていたからであり、主と共にいた証拠でもある。
A第2回伝道旅行(使徒15:36-18:22)の時には、「アジヤでみことばを語ることを聖霊によっ
て禁じられた」と書かれているが、キリストがパウロに直接語られたのか、使徒行伝16:10のよ
うに夢や幻を通してか、使徒行伝13:2のように人を通してか、はたまた状況を通して語られた
のかは書かれていないが、ともかくパウロは主の御心に従っている。 第2回伝道旅行中で
も、占いの霊につかれた若い女奴隷から霊を追い出したが、悪しき霊を追い出したり、いやし
をしたりするとき、いつもパウロが命じた「ことば」の通りになっている。 牢に捕えられても、真
夜中に大地震が起こって、獄舎の戸が開き、鎖から解放された。 囚人たちは誰も逃げださ
ず、看守と看守の家族が救われるという出来事があった。 地震が起こったことも看守と看守
の家族が救われたことも偶然ではない。 パウロと共におられる主なる神がなさったことであ
る。 B第3回伝道旅行(使徒18:23-21:16)の時にも、人々が、パウロの身に着けている手ぬ
ぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行くなど、驚くべき奇
跡を行なったが、これらすべてパウロと共におられた主なる神がなさったことである。
このように、パウロは常に主と共にいたところを足場、すなわち主イエス・キリストを足場にし
て、行動していた。 聖書には書かれていないが、パウロは常に主と交わり、抽象的な内容の
祈りではなく、具体的に祈り、主のみこころを尋ね求めていたのではないだろうか。 そして、
祈っているから、祈ったから、深く考えずに自分の思うままに、というのではなく、情況(状況)、
実情(実状)を見て、考えて行動していたと思われる。 クリスチャンであっても「主にお任せし
ているから」と、よく考えないで気楽にしている者もいるが、それは、本当に主に頼り切った信
仰があるからではない。 自分の苦手な事、嫌な事については、ただ、考えることを避けている
だけである。 そういう傾向がある者も多い。
もちろん、かと言ってキリスト抜きで自分の頭で考えるのではない。 「主は、このことについて
自分がどうすることを望まれているのだろうか」「主は、これこれについて、どうなさろうとしてお
られるのだろうか」「今の状況はこうであるが、自分はどうすべきことが主の御心だろうか」など
と主イエス・キリストを主語にした上で、具体的に実際的に考えるのである。 そういうふうに考
えることは必要である。 キリスト者の歩みは、地に足をつけた現実的なものである。
また、考えて行動するとき、先々のことまで計画していても主の導きを祈り求めながら歩んでい
くと自分が計画していたこと、自分が考えていたことと違うことを示されることの方が結構多い。
それだけ主が考えておられること、主のみこころは、人の考え、思いとは違うのである。 主は
先々の事まで具体的に知らされることも稀にはあるかもしれないが、基本的には、その時その
時に主の導きを示してくださる。 主のみこころ、主のご計画の詳細に至るまで、あまりにも
すばらしいので、我々の度量が少なすぎて、一度には受け取ることが難しいからかもしれな
い。 いずれにしても、歩みの中でその一つ一つの具体的な主のみこころ、主のことばを多く
の時間、年数が経って知り、体験する場合があり、比較的短い時間の経過の後に体験的に知
る場合がありと色々であるが、それは、内容の違い、すなわち、その内容の大きさ、重要さが
違うためであると思われる。 それを判断なさるのは主なる神である。
パウロは常に、主との親しい交わりを基盤(足場)にして考えていた。 常に、祈りつつ考えて
いた。 常に、主イエス・キリストを足場にして言動していた。 だから、結果、パウロの言う「こ
とば」通りに、実際がなったのである。 目に見える形で現われたのである。 それが、パウロ
が常に主と共にいたこと、主イエス・キリストを足場にしていたことの証拠である。
さて、主イエスキリストを信じ受け入れた者は、道を歩むにおいて、主の導きを求める者がほと
んどであろう。 そのため祈って、主のみこころを知ろうとし、主からの答えを得ようとする。 そ
れがキリスト者(クリスチャン)であるからだ。 ところが、祈っても、なかなか具体的、実際的答
えがなく、とまどったり、「祈っているから」と、自分の言動は、主のみこころだと勘違いする者
がいたり、色々である。 それはパウロのように劇的な救いを経験していないからではない。
そもそも、主に尋ね祈りをして、どれくらいの者が、主からの明確な答えをいただいているだろ
うか。 主からの答えに気づいているだろうか。 抽象的な内容の祈りなら止むを得ないが、具
体的な祈りをして、主からの具体的な答えを受け取れている者は意外に少ないのではないだ
ろうか。 よく祈る言葉の中に「自分はどうしたらいいのか、主の御心を教えてください。」とか
「自分は どう行動すればいいのか、主の御旨のままに導いてください」とか「自分は、これこ
れしかじかの時、どう言ったらいいのか、主の御心の言葉を与えてください」などと祈ることが
ある。 そのように祈ることは必要である。 しかし、問題は自分の腹の底(心の奥底)から祈っ
ているかどうかである。
具体的な祈りの場合、祈りに祈った結果、主のみこころが明確にわかり、その答えが自分の
期待していた答えでなくても、納得しなくても、主のみこころの方を選ぶという、しっかりした意
思(意志)、決心が腹の底(心の奥底)にあることが重要かつ必須である。 また、祈って、考え
て言動するとき、間違うことも多い。 これは主のみこころだ、主からの示しだ、導きだと、無意
識に肉(生まれながらの性質)で、自分の都合のいいように思い込み、言動して失敗することも
多い。 しかし、その間違い、失敗ごとに、主を仰ぎ見て、へりくだる時、自我が砕かれ、肉が
切り取られ変えられていく。 道が逸れていたら、主が軌道修正してくださる。 主が、それらを
も訓練と見なしてくださるからだ。 また、心から祈っていたら、主がその人に応じての訓練試
練にあわせる。 その過程を逃げずに主に頼りつつ通っていくなら、尚更、自我が砕かれ、肉
が切り取られて 変えられていく。
こういう過程は、一人一人に応じて、度合いや期間に、差や違いがある。 働きの違いや人の
性質の違いなどによると思われるが、詳細はわからない。 神のみぞ知るという部分が多い。
このような過程を通り続けていくうちに、少しずつではあるが、主の御心がわかってくるようにな
る。 主の御声を聞き取れるようになってくる。 主の御心がわかってでも祈って言動する。 ひ
と言でも祈る。 なぜなら、主と交わりながら、主と共に行動することを主が望まれているから
である。 主と片時も離れないからである。 主を離れては、我々は何もできないからである。
(ヨハネ福15:5)
確かにパウロは、聖書を見る限り、特別な働きのために主が選び召し出された者であるから、
厳しい苦難も多かったし、主に用いられることも多く、それだけ重要な器であったことは事実で
ある。 しかし、我々どんなに小さな器であっても、主なる神から見られたとき、やはり重要な器
である。 真に主を信じる者は、ひとりひとりはキリストのからだの各器官であり、どのような器
官もなくてはならないものであるからだ。(Tコリント12章) キリストのからだの各器官だからこ
そ、常に主との親しい交わりを持ち、主に尋ねながら祈り、イエス・キリストを足場にしていくの
である。
我々は、肉眼で主を見ることはできないが、確かに、主は十字架につけられ3日目によみがえ
られて 今も生きておられることは事実であり、実際である。 主イエス・キリストを信じた者は、
この復活したキリストの光で失明し、すなわち古いものは過ぎ去り、イエスの御霊、聖霊で目が
開かれ、すなわち新しくなったのである。 だからこそ、常に主イエス・キリストを足場にした歩
みをしていきたいものである。
★新約聖書 テサロニケ人への手紙 第一 5:10
主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主
とともに生きるためです。
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