めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年9月6日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<イスラエルへの神の裁きと周辺諸国の神の裁きから学ぶ:エゼキエル書25章から思考>


★旧約聖書 イザヤ書 46:3,4
   わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時から
   になわれており、生まれる前から運ばれた者よ。 あなたがたが年をとっても、わたしは
   同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたの
   だ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。
 
エゼキエル書には、エルサレムの滅亡の預言、イスラエルの周辺諸国の神の裁きの預言、
イスラエル回復の預言、新しいエルサレム神殿の幻が書かれている。 その中で25章のエル
サレム陥落後の周辺諸国の神の裁きの預言を見てみる。 
 
まず、ロトの子孫であるアモン(アンモン)人は、バビロンが攻めて来た時、その攻撃がユダに
向けられたことを喜び、助けようとせず、聖所が汚され、イスラエルの地が荒れ果て、ユダの家
が捕囚となって行ったとき、あはは、と言ってあざけった。 それで東の人々に渡され国は滅ん
だ。 次に同じくロトの子孫であるモアブは、ユダの家は異邦の民と変わらない、選民ではな
かったと言ってあざけった。 神の選びを否定したのである。 それでアモン人と同じように東
の人々に渡され国は滅んだ。 
 
ヤコブの兄弟エサウの子孫であるエドムは、ダビデ時代にイスラエルに支配されたのを恨み、
バビロン軍侵攻という混乱に乗じてイスラエルに復讐した。 それで人も獣も断ち滅ぼされ、廃
墟にされた。 ペリシテ人も、王国時代にイスラエル支配下に置かれたことを恨み、イスラエル
を心の底からあざけって、バビロン軍侵攻という混乱に乗じてひどい復讐をし、いつまでも敵意
をもって滅ぼそうとした。 それで主はペリシテ人は立ち滅ぼされると仰せられた。
 
これら4つの民族の共通点は、イスラエルがバビロンによって神の裁きを受けたことをあざけっ
たことである。 神の選民であるはずのイスラエルの落ちぶれた状態を嘲笑い、イスラエルは
本当は神に選ばれた選民ではなく、異邦人同様、裁かれるべき民だったと見下したことであ
る。 要は、4つの民族のイスラエルに対する反応が問題だったということである。 
 
しかし、本来イスラエルは嘲られても仕方がないことを繰り返してきた。 出エジプト時代も約束
のカナンの地に入った士師記の時代にも、イスラエルが南北に分裂した王制時代にもイスラエ
ルは偶像礼拝という悪をなし、それに対して主の怒りの裁きがあり、悔い改め、許され、そして
また偶像礼拝、裁き、悔い改め、許され、また偶像礼拝と原則のように繰り返してきた。 周辺
諸国から見ると、主がイスラエルを許されたとき、神の栄光、神のみわざ、神の奇跡を体験し、
平和を得たのに、また墜ちてと同じことを繰り返すイスラエルを見て、見下したとしても当然と
思われる。 しかし、これは人間的な見方、見解である。
 
神である主は、イスラエルを嘲(あざけ)った周辺諸国に裁きを下された。 それは、どのような
状態であれ、イスラエルは神が選ばれた神の宝だからである。(詩編135:4) 神の宝イスラエ
ルを嘲る者は神の裁きを受けるということである。 また、アブラハムに仰せられた「あなたを
祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、
あなたによって祝福される。(創世記12:3)」ということばは、神の変わることのない約束のこと
である。 
 
だから、それまで何度も何度も、イスラエルを救おうとされた主なる神は、ここでバビロンを用
いてイスラエルを滅ぼそうとされている。 しかし、それは壊滅ではなく、救うため、回復、復興
のためである。 主なる神は、イスラエルの残された者が回復すること、救われることができる
ように、あわれみを与えておられる。 イスラエルに対しての神の裁きは、神の憐みと慰めのあ
神の懲らしめで、救いにつながるものであるが、周辺諸国については神の裁きそのものであ
る。 それは、主なる神が、イスラエルを愛しておられるからである。 
 
ちなみに、パウロは、「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの
子孫である(ガラテヤ3:29)」と言っている。 主は、ご自身が選ばれた者たちを愛しておられ
る。 愛しておられるから、愛している者を打たれるのである。 へブル人への手紙12章6節
12章10節「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる」
「・・・霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめ
るのです」と書かれている。
 
このように見ていくとき、イエス・キリストによって、新しいイスラエル、新しい神の民となったキリ
スト者は、「主なる神が選ばれた者」「アブラハムの子孫」であるということだ。 「神の選び」
主なる神が決められることであり、人の誰も決めることはできない。 これは、ある意味、神の
領域である。 だから、周辺諸国のイスラエルに対しての反応、すなわち高慢、嘲り、見下しな
どをイスラエルを選んだ主なる神に対するものと見なされたために裁かれたように、人は、「神
が選ばれた者」「アブラハムの子孫」に対して、どう反応するのかが問われることがあると思わ
れる。 誰が神に選ばれているのか わかる場合もあるが、案外わからない場合の方が多い
かもしれない。 ちなみに、人が見て「キリストを信じた者」と言っても、主なる神が見て「クリス
チャン(キリストに従う者)」と見なされていない者たちがいることも事実である。
 
「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない(マタイ22:14)」と主イエスは仰せられたが、もし
かしたら、自分が接する人たちの中に、主なる神が選ばれた者、アブラハムの子孫がいるか
もしれない。 その者と関わりを持っているかもしれない。 そういうことがあり得る。 そして、
その者の状態、状況、表面的な言動を見て、人間的な見方、判断をしている可能性があるか
もしれない。 人間的な見方、判断は、肉の見方である。 我々人は、神の見方、すなわち
の見方をしなければ、神が良しとされる正しい反応、応答をすることができないものである。 
また、主が人を見ておられるように見ることができないものである。 神の見方、霊の見方をす
るためには、キリストにしっかりつながっておかなければならない。
 
人が何か物事の決定をするとき、何かの教えや誰かの進言などを参考にして考えて自分で決
める。 そうして、人(自分であったり他の人であったり)を足場にして、物事を判断し言動に移
す。 しかし、重要なことは、キリストを足場にして物事を考え言動するということである。 その
ことを、この箇所で主が我々に教えようとされていることの一つではないかと思われる。 キリ
ストを足にするというのは、キリストにあってということであり、まず祈るということである。 軽
い祈りではなく、心の底から正直になって、真剣に祈り、しかも祈りに対する主からの答えが、
自分の思いや願いと違っていても全面的に受け入れ従うという意思を持って祈ることである。 
 
我々クリスチャンは、口ではキリストにあってということをよく言うが、このことが実際となってい
るかどうかを吟味し見直すことが必要かもしれない。 案外、肉の感情、考え、思いで物事を判
断していることが多いからだ。 キリストを足場にするということは、キリストとつながり続けて
なければ できないものである。 「つながる」「とどまる」というより「つながり続ける」「とどまり続
ける」ことが必須である。 「つながる」というとき、自分の都合の悪いとき、自分が嫌なときは
キリストから離れていることがある。 自分の心の思いの都合によってキリストにつながったり
離れたりをすることは結局、つながっているとは言えない。 自分の都合によって主を最優先し
たり、自分を最優先したり、使い分けているのは、結局、自分が最優先なのである。 だから、
「つながり続ける」ことが必要なのである。 「主を最優先する」ことが常であることが重要なの
である。 それが、周辺諸国のように裁かれない秘訣である。
 
また、言い方を変えれば、神を最優先することは、主なる神と自分の一対一の交わりが、まず
あるということである。 そうして、人は初めて 正しく他の人とかかわることができるのである。 
他の人にもどんな教えにも直接、影響されず、キリストにあって人と接することができ、教えを
受け入れることができるのである。 そこには、間違った肉の感情に左右されることもない。 
間違った教えに翻弄されることもない。 だから大きく道を逸れることもない。 もしたとえ、間
違ったとしても失敗したとしても聖霊が正してくださり、主が定められた正しい道へと導いてくだ
さる。 そして、失敗したことさえ、貴重な体験として心に刻み込んでくださり、不思議なほど益
にしてくださるものである。 
 
もし、自分が選ばれた者であるなら、神の懲らしめ(訓練試練)を受けることがあろう。 そのと
きも、やはり、キリストにつながり続けて乗り越えるのである。 キリストにつながり続けている
なら、失敗も弱さも落ち度も・・・すべて、時が来れば「益」にしてくださる。 むしろ、通ってきた
体験、経験、すなわち「過程」を主が「良し」としてくださる。
 
主なる神は、すべての者を「キリストの救い」へと招いておられる。 ひとりでも滅びることを望
まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる。(Uペテロ3:9) すべての人が救
われて、真理を知るようになるのを望んでおられる。(Tテモテ2:4) しかし、キリストのところ
にとどまり続ける、すなわち主が与えようとされる真の救いを受け入れる者は少ないのかもし
れない。 イエスは「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれな
い人が多いのだから。(ルカ13:24)」とも仰せられたからである。 今まで、めんどり通信でも
何度となく書いてきたことであるが、本気で、尚尚、深みで「キリストにつながり続けること」「キ
リストにとどまり続けること」に取り組んでいきたいものである。 日々の生活の中で、常にキリ
ストを最優先した歩みができるようになりたいものである。
 
★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:29
   もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束
   による相続人なのです。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 2:1
   ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人
   をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行
   なっているからです。
 



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