めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年7月26日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<羊と山羊に分けられる前に、「小さい者」にしていただくことに取り組むべきである>



★旧約聖書 イザヤ書 57:15
   いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられ
   る。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりく
   だった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。
 
★新約聖書 ルカによる福音書 9:48
   彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、
   わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受
   け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」
 
●終末の艱難時代、主イエスが来られる時、すべての国々の民が、その御前に集められ、選
り分けられることがマタイによる福音書25章31節〜46節に書かれている。 聖書のこの箇所を
読んでみてほしい。羊飼いが羊と山羊とを分けるように、主が見られて羊である者は右、山
羊である者は左に置かれるという。 そして、右にいる者たちは、祝福された者たちで神の御
国に入ることができると言われる。 また、「世の初めから、あなたがたのために備えられた御
国を継ぎなさい。」というように、羊たちは、世の初めから御国を受け継ぐ者となるよう定められ
ていたと言われる。 この選り分け、定めについてパウロは、自分は「母の胎内にあるときから
選び分け」られていた言っている。(ガラテヤ1:15) 
 
他にも、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとし
て、あらかじめ定めて下さった。」と書かれている。(ローマ8:29) また、御国を受け継ぐ者と
なったことは、あらかじめ定められていたことであるとも書かれている。(エペソ1:11) ところ
が、左にいる者たちは、のろわれた者たちで「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の
火にはいれ」と言われる。 これらの選り分け、陶器師が、陶器に対して壊すか尊く用いるか
などの権利があるように、創造主である神が定められたことに被造物である人間は誰も何も
申し立てることはできない。(ローマ9:21) かと言って、神は無情な方ではない。 忍耐と励ま
しの神であり、情け深く、正しい、あわれみ深い方である。(ローマ15:5、詩編116:5) 聖書を
読んでみるとそのことがよくわかり、主に頼り切る者は、そのことを大いに体験するであろう。
 
右にいる者たち、羊が、御国を受け継ぐようにしてくださった理由は、@わたし(主)が空腹で
あったとき、わたしに食べる物を与え、Aわたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、Bわたし
が旅人であったとき、わたしに宿を貸し、Cわたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、Dわた
病気をしたとき、わたしを見舞い、Eわたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたと主
は言われた。 「わたし(主)」が、一つ一つに繰り返し書かれていることから、何事においても
「キリストが基準」であること、特に裁きの基準は、一人一人がキリストに対して、どのような態
度を取ったのか、どう応答、対応したのかなど、「キリストとのかかわり」が重要視されている。
 
すると、右にいる者たち、すなわち主が見られて「正しい人」とされた者たちは、主から御国に
入れる理由を聞いたとき、そのような覚えがなく、「いつそのようなことをしましたか」と主に問い
直したくらい、彼らにとっては、当然のことをしたと思っていた。 彼らの心の奥底には、神に対
する感謝神への愛がしっかりと根付いていたから、当然のこととして行なうことができたと思
われる。 「キリストとのかかわり」が最優先されていたということである。 彼らが、主に答える
言葉も「主よ。いつ、私たちは」と一つ一つに繰り返して、主がそのように言ってくださるとは、
もったいないという面持ちで丁寧に答えている。 そのような彼らに対する主のことば「・・・あ
なたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたし
にしたのです。(マタイ25:40)」であった。
 
左にいる者たち、山羊が、呪われた理由は、羊に言われたことと正反対のことであり、山羊と
して区分された彼らの主への答えは、「主よ。いつ、私たちは」と一度は言ったものの、「お世
話をしなかったのでしょうか。」と不満がこもったような素っ気無い答え方である。 「私たちは
あなたの名によって預言をし、・・・奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」と自分はよく働
いたと自己主張と弁解をして、主に「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。
わたしから離れて行け。」と言われた者たちと同じである。(マタイ7:23) そのような彼らに対
する主のことば「・・・おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたし
にしなかったのです。(マタイ25:45)」であった。
 
さて、「最も小さい者たちのひとり」「小さい者」とは、どのような者であろうか。 「小さい者」
は、ルカ7:28、9:48、マタイ11:11、18:6,14、10:42、Tヨハネ2:14,18などから、神から見られ
た「クリスチャン」であると思われる。 また、神から見られた「クリスチャン」である者は、コリン
ト人への手紙第一1章に書かれているこの世の愚かな者この世の弱い者この世の取るに
足りない者見下されている者である。 「クリスチャン」とは、原語ではクリスティアノス「キリス
トに従う者」という意味である。 意味からするとキリストに従う「キリスト者」の方が適切かもし
れない。 
 
しかし通常、一般的には「クリスチャン」と呼ばれている。 自分は罪人であることを悔い改め
て、イエス・キリストを救い主として信じ受け入れた者、どこかのキリスト教会に所属している
者、聖書を読んでいる者、祈っている者、教会で奉仕をしている者・・などが「クリスチャン」であ
ると呼ばれているが、神から見られた本当の「クリスチャン」であるなら、「神の子」として一人
一人に応じて神からの訓練試練を受け、「小さい者」となってくるはずである。(へブル12章) 
 
「キリストによって救われる」ということは、自分が決意してキリストを信じ受け入れて救われ
る、というのではない。 まず、神の方が救う人を呼び出され、招かれるということがある。 そ
の上で、人がその招きに応答したときに「キリストの救い」が始まる。 そのことをコリント人へ
の第一の1章で書かれていると思われる。 神が招かれる人、選ばれる人とは、「この世の愚
かな者、この世の弱い者、この世の取るに足りない者、見下されている者」であるという。 た
だ、ダビデは?アブラハムは?ペテロは?パウロは? 一般的に見て、彼らは このような者
であるとは見えない。 そうすると、「この世の愚かな者。・・・」は、世の見方、人の見方ではな
いということである。 
 
また、この世で言う「弱い者」でも、自我が強い者、肉が強い者は、聖書が言う「弱い者」ではな
い。 自分はこれほどまでに自我が強く、肉(生まれながらの性質:自分を押し通す性質)が強
い者であることを悔やみ、嘆いて主によりすがる者こそが、パウロがいう「この世の弱い者」「こ
の世の愚かな者」「この世の取るに足りない者」である。 ダビデもアブラハムもペテロもパウロ
も、その他聖書の登場人物の中で、神が「良し」とされた者たちは、神からの様々な訓練試練
によって、「己」「自分の心の底にあるもの」がいかに愚かで弱い者であるかを悟り、神によりす
がることなしには生きていけないことを実践した。 ここでも、「キリストを基準にすること」「真の
神とのかかわり」「主につながり続けること」が重要であるということを知ることができる。
 
めんどり通信/2015年5月24日の最後の方に書かれているビジョンの中に出てくる「小さな門」
をくぐった人は、薄汚れた服を着て傷ついた「小さい者」だった。 その「小さい者」が、その「小
さい門」をくぐると、細い道が真っ直ぐに向こうの光に向かって延びており、小さい者」の右横
には、御使いと思われる人(?)、主(?)が、その人を肩から抱くようにして倒れないように支
えていてくれた。 細い道を一人ではなく、一緒にゴールまで進んでくれる。 この薄汚れた服
を着て傷ついていたことから、その人が受けた神からの訓練試練の厳しさを推し量ることがで
きる。 その「小さい者」も主イエス・キリストを信じた頃は、まだまだ「大きい者」であったであろ
う。 様々な体験を通して神からの訓練試練を受けるごとにプライドが崩され、肉の自信、軽さ
が取り除かれ、自己中心的だったのが、キリストを見なければならないようにされ、・・・そのよ
うに自我が砕かれ、肉が切り取られ、「狭き小さい門」をくぐるために余計なものが取り除かれ
「小さい者」になったと思われる。 
 
このように見る時、いかに「自我が砕かれ、肉が切り取られること」「キリスト者」にとっては
必須項目であるかということを痛感する。 「小さい門」をくぐることができるということは、神で
ある主の御前に「へりくだっている」ということである。 「最も小さい者たちのひとりにしたの
は、わたしにしたのです」ということだが、「最も小さい者たちのひとり」こそが、十字架にかから
れたキリストである。 ピリピ人への手紙2章6節〜8節「キリストは、神の御姿であられる方な
のに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿を
とり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑し
くし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」と書かれているが、本当に
リストこそ「最も小さい者」すなわち「最もへりくだられた方」である。
 
そして、その方「キリスト」は、「キリスト者(クリスチャン)」が、その足跡に従うようにと、模範を
残してくださった。(Tペテロ2:21) 当然、我々は「主と主のことば」の御前にへりくだるべきで
ある。 すなわち、「主と主のことば」に信頼し続けるべきである。 やがて、その「主の時」が来
たならば、主は、「主のことば」通り、実際に(右)と山羊(左)とを選り分けられる。 ただ、そ
の区分がなされるために、もうすでに一人一人が篩(ふるい)にかけられて、主の整理が始まっ
ているのではないかと思われる。 篩(ふるい)にかけられ、落とされて左の山羊の道へ行かな
いように、とにかく主にしっかりとつながっていたいものである。 気づかずに、山羊の道に歩
んでいる者が多いのも事実である。 つながっているつもりではなく、実際、事実、主につな
がっていることが重要である。 安易に「主につながっている」と思い込んでいる者があまりにも
多い。 「キリスト者(クリスチャン)」の我々は、確実に「羊」として分けられたいものである。 
永遠のいのち入って、いつまでも主と共にいたいものである。 とにかく、主のもとに来て、
主のうちに留まることに取り組んでいきたいものである。
 
★新約聖書 エペソ人への手紙 1:11
  私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画
  のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。
 





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