めんどり通信/2015年5月31日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <神のご計画が根底にあるから、我々の叫び求めに答えてくださり、それにも主の時がある> |
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★旧約聖書 エレミヤ書 29:11
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。
――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与
えるためのものだ。
★旧約聖書 詩篇 69:13
しかし主よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。あなたの豊かな恵みに
より、御救いのまことをもって、私に答えてください。
●主は叫び求める者の声を聞いてくださるお方である。
だからと言って我々人は、やみくも
に何でもかんでも肉の欲求のまま求めたらいいというものではない。 それでも、やはり苦しい
ときには、そこからの解放を求め、悲しいときには悲しみから脱却できるよう素直に求めること
を、主は「良し」とされている。
我々の神である主は、すべてのことをご自分のご計画どおりに成し遂げられる方である。(エ
ペソ1:11) この神のご計画の中で主は働かれ動かれる。 我々人には知り得ない いろいろ
なことの詳細をも主はご計画の中に組み込まれておられる。 その中で、我々が求めることが
できるよう働きかけてくださったり、事が起きることを許されたりされる。 また、「神が選ばれた
者」の自業自得の事柄や愚かな言動でさえ、大きな神のご計画の中にあり、主は用いてくださ
り、その者を変えるための益にしてくださる。(ローマ8:28) このように、神のご計画は、あわ
れみと愛に満ちているが、神は、人が本気で求めてくることを望んでおられる。
確かに神は、人の叫びを聞いてくださるが、その叫び求めが神に聞き入れられた、その根底
には神のご計画の中にあったということが、大きな要因を占めるのではないかと思われる。
神はすべてのことをご存知である。 一人一人の心の奥底にある「思い」や真の「願い」「考え」
をご存知である。 神がみこころのままに、ご自分の子にしようと、天地の造られる前から、キ
リストにあって選ばれた者一人一人に祝福のための神のご計画を持っていてくださる。(エペソ
1:4) 神が望まれているのは、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改め救われ
て、真理を知るようになることであるから、すべての人に祝福のための神のご計画があると
言っても過言ではないだろう。(Uペテロ3:9、Tテモテ2:4) しかし、実際は、人の自由意志で
「主の愛」と「主の救い」を拒否する者も多い。 だから、イエスは「招かれていても選ばれる者
が少ない」と言われたのであろう。(マタイ22:14)
主が我々の叫びに答えてくださることについて、根本には神のご計画の中にあったからという
ことを、出エジプト記から見ることができる。 神はアブラム(アブラハム)を呼ばれ、彼を通して
世界を祝福すると約束された。 そのアブラハムからイサク、ヤコブ、その12人の息子へと続
いていったが、ヤコブの時、世界的な飢饉が起こり、ヤコブ一家はヤコブの子ヨセフの招きで
エジプトに移り住んだ。 エジプトで大臣になっていたヨセフのゆえに、ヤコブ一家はエジプト王
の庇護の下、安全に暮らしていた。(創世記37〜50章)
ところが、ヨセフの死後、ヨセフのことを知らない王が、イスラエルに脅威を感じ、イスラエルの
民を奴隷にして、建設現場での苦役を課した。 その上、男の子が誕生したときには、殺せと
いう命令まで出された。(出エジプト1章) そのような状況下で、イスラエルの民は苦しみと悩
みの中からうめき叫んでいた。 ただ、彼らが、神に叫び求めたとは書かれていない。 イスラ
エル人からの叫びとしては、「彼らの労役の叫び(出2:23)」と書かれている。 「わたしは、エジ
プトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼
らの痛みを知っている。」と主が言われたことの方を強調して書かれているようだ。(出エジプト
3:7) もしたとえ、イスラエル人たちが主に叫んだとしても、イスラエルの民が、神に叫び求め
た結果、神がモーセを立てられて、イスラエルの民を出エジプトさせた、というより、イスラエル
の民は、ただただ、苦しくて呻き叫んでいたのを神が見られて、一方的な神のあわれみによっ
て出エジプトさせていただいたという感じの方が強いと思われる。
その証拠に、イスラエルの民は、主がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを
聞いて、ひざまずいて礼拝したかと思えば、エジプトの王パロが、モーセの申し出をかたくなに
拒み怒って、イスラエルの民にますます苦役を強いると、すぐさまモーセたちを非難したことか
らも伺える。 神である主に焦点を定めて必死に叫んでいたのなら、こうも早く気が変わること
はないであろうと思う。 それでも、忍耐の神は、エジプトにとっては十の災い、イスラエルに
とっては奇跡を見せ、体験させた。 そして、イスラエルは意気揚々とエジプトを出たが、紅海
でエジプト軍に追いつかれそうになると、「私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何
ということを私たちにしてくれたのです。私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕え
させてください。(出14:11,12)」とモーセに詰め寄る有り様。 その後も、イスラエルの民は何
度となく神である主に反抗した。 それでも主は彼らを導き進んで行かれた。
なぜ、このような反抗的な民を救い出そうとされたのであろうか。 それは、神はご自身のご計
画を持っておられたからである。 ご自身のご計画、特にご自身が語られた「ことば」に、神ご
自身が一番忠実であられるからだ。 アブラハムが神に導かれてカナンにやって来た時、神は
アブラハムに「あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、
四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼
らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。(創世記15:13,14)」と預言されてい
た。 その「主のことば」通り、実際、BC(紀元前)1870年〜1440年頃、イスラエルの民はエジプ
トの奴隷だった。
そして、四百三十年が終わったとき、ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出た。
(出12:41) イスラエルの民の様子から見て、もう少し時間が経って、民がアブラハム、イサ
ク、ヤコブ、ヨセフのことなどを思い出し、彼らが心から神である主に解放を叫び求めるまで
待った方がよかったのではないだろうかとも考えられるが、それでも、やはり「神が定められた
時」が、「一番良い時」なのである。
このように、我々の人の側の信仰や整えが完全でなくても主なる神は、ご自身のご計画の時
が来れば、実行なさる。 モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエル人たちが、度々、
神が立てられたモーセに逆らい、非難しようが、神はご自身のご計画を進めて行かれた。 主
が、一旦、立ち上がられ動かれたなら目に見える形で事は進んで行くのである。 もちろん、
我々人の側の求めは必要なことではあるが、主の御旨、主のご計画のみが実現するのであ
る。(箴言19:21)
我々が覚えておくべきことは、何事においても、根底に神の計画があることだ。 神の御許しが
なければ何事も起こり得ない。 「神のことば」「主からのことば」を頂いている者は、それによ
り、自分は、神のご計画の中にあることを知ることができるが、多くの場合、主から「主のこと
ば」を個人的に頂いていない人の方が多い。 それでも聖書に書かれている通り、キリストに
あって選ばれた者は、神の計画の中にあるということだ。(口語訳エペソ1:4)
それでは、選ばれた者だけが神に求めたらいいではないか、と考える者もいるだろうが、だれ
が選ばれているのかなど我々人が知る由もない。 それは神の領域である。 選ばれている
かどうか云々より、真剣に心の底から主に求めることが大切であり、そのようなに真剣に自分
の肉からの「思い」「考え」「願い」などを捨てて、神のみこころにかなった求めをする者こそ神
に選ばれていると言えるのではないだろうか。(Tヨハネ5:14) ただ、一時、熱心に求めると
いうだけでなく、イエス・キリストから目を離さないで、主に求め続けることが重要である。(へブ
ル12:2)
そして、せっかく祝福のための神のご計画の中に入れられているのに、出エジプトしたイスラエ
ルのほとんどの民のように砕かれ変えられていなければ、神の祝福に与(あずか)れなくなる
ばかりか、またぞろ自分の不注意や愚かさという窓口から、悪しき霊どもの影響を受けれて苦
しみに支配されるという可能性がある。 あわれみの神は、出エジプトをするときに、まだ整え
られていなかった民を荒野での訓練試練により彼らを砕こうとされたが、彼らは、主の訓練試
練も叱責も憎んだ。 主の懲らしめは役に立たなかった。(エレミヤ2:30) 結局、約束のカナ
ンの地に入れたのはヨセフとカレブ、それに新しい世代の民たちだった。 出エジプトを経験し
た20歳以上の民は荒野で死んだ。
今日の我々がしっかり受け取り持っておくべきことは、何事においても、根底に神の計画があ
ること、 神の御許しがなければ何事も起こり得ないこと、イスラエルの失敗から学ぶことであ
ろう。 イスラエルの失敗から学ぶことについては、主は何らかの形で我々に語られているか
ら、素直に耳を傾けること。 今の悪い状況が改善されれば、それでいいとする「救い」ではな
く、神が与えようとしておられる「救い」「恵み」を素直に受け取ること。 「神の懲らしめ」をない
がしろにしないこと。 「神の叱責」を素直に受け入れること。 「主を恐れる(畏れる)」こと。
自分の肉からの「思い」「願い」に執着しないこと、・・などである。(箴言1:24〜33)
とにかく、出エジプトして荒野で死んだイスラエル人たちと同じにならないように、目を覚まして
いきたいものである。 主が立てられた人を通して語られる「ことば」、聖書やいろいろな出来
事を通して語られる「ことば」を素直に真底から受け入れて変えられていきたいものである。
日々の生活の中で、「神と自分」「主と自分」「キリストと自分」という正しい位置関係でしっかり
とどまり続けていくことに取り組んでいきたいものである。
★旧約聖書 詩篇 103:8
主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。
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