めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年5月10日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
死後の裁き。悲しい結果になる中にクリスチャンもいることについての思考2018年3月20日付修正文



新約聖書 マタイによる福音書 72123
   わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におら
   れるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 その日には、大ぜいの者がわ
   たしに言うでしょう。 『主よ、主よ。 私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名
   によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありません
   か。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。 『わたしはあなたがたを全然知
   らない。 不法をなす者ども。 わたしから離れて行け。』
 
ルカによる福音書1619節〜31「金持ちと貧乏人ラザロ」からいろいろ考えてみた。 
の箇所の簡単なあらすじは、こうである。 貧乏人ラザロは死後、御使いたちによりアブラハ
ムのふところ、すなわち天の御国へ連れて行かれ、地上で贅沢三昧していた金持ちはハデス、
炎の中で苦しんでいた。 止むことのない絶望感から来る苦痛と孤独で苦しみもだえていた。 
ラザロの指先を水に浸して自分(金持ち)の舌を冷やすように、ラザロをよこしてほしいと願うも、
天国と地獄の間には、決して互いに行き来できない「大きな淵(ふち)」があった。 それなら せ
めて、まだ地上に生きている兄弟(家族や親族、友人など)が地獄に来ないように、ラザロを生
き返らせて遣わせてほしいと願ったが、これは、苦しみの所へ行った死者の切なる願いと言え
よう。 しかし、その願いはかなえられることはなかった。 最後のことばは「もしモーセと預言者
との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れ
はしない。」であった。
 
ここで、金持ち貧乏人とは、字義通りのお金があるないということだけでなく、才能や賜物、
知恵、力、常識などを持ち、真に神に頼ることを必要としていない人、必要としている人というこ
とをあらわしている。 この箇所では、人の「死後には2つの行き先がある」こと、「天の御国と
地獄は行き来できない」ことが語られている。 また、金持ち「モーセと預言者」すなわち「聖
書の教え(当時は旧約聖書)」を無視して生き続けた結果が、止むことのない炎の中での苦し
みということも注目すべきであろう。 
 
今日でいうなら、「聖書(神のことば)と神が遣わした者のことば」を無視すること、受け入れな
いことが続くなら、結果が金持ちと同じようになるという警告でもある。 炎の中で苦しんでいる
金持ちが、貧乏人ラザロの指先を水に浸して自分の舌を冷やしてほしい、と訴えているが、実
際、炎の中では指先の水など、「焼け石に水」ではないかと思われる。 それでも願うということ
は、このことで、いかに主の裁きで、神のあわれみを受けることができなかった者は、一瞬の
休みさえなく、効果がほとんど期待されない、わずかばかりの水でも欲しいという願いさえ与え
られない厳しいところであるということも語っているように思われる。
 
本当に人という者は、裁きの場に立ってから、やり直しのきかない最終の場に立ってから、はた
と気づくものなのかもしれない。 その時、キリストを信じて主のために働いてきた者の中には、
聖書マタイ722にあった「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの
名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」
いう言葉を口にするのかもしれない。
 
彼らは、ルカによる福音書に登場してくる この金持ちのように「聖書のことば」を無視し続けて
いたわけではない。 むしろ、人々に「聖書のことば」を教えていた立場である。 聖書に書かれ
ている「福音」「警告」も十分わかっており、自ら「福音」を伝え、「警告」に注意を払っていたで
あろう。
 
キリスト教でいう「献身」をし、聖書を読み、祈りをするだけでなく、自らもみことばを実践し、「主
のみこころ」を行なうことに人生をかけていたであろう。 それなのに何故?と疑問が湧いてくる
のも当然である。 ただ、一番知っておかなければならないことは、神である主は、人の心、そ
れも「人の心の奥底」を見ておられるということである。(口語訳:黙示録223 イエスは、イエ
スを信じる者は、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ福73
8)」と言われたが、イエスを信じることにおいても「心の奥底」から信じているのかということが
問われることになる。
 
主イエス・キリストは、純粋かつ真剣に求める者の祈りを聞かれるお方である。(箴言1529 
ご利益信仰的な祈りではなく、神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてく
ださる方である。Tヨハネ514 特に、自我が砕かれる、肉が切り落とされるなど、要は、
「人が変えられること」についての祈り求めは聞いてくださっておられる。 彼らは、そのことを
よく知っていて祈っていたはずである。 完全な人間はいない。 主は、一人一人の求めに応じ
て、清め作り変えてくださる。 きちんと神のみこころにかなう祈りをしているなら、必ず、主の
方が取り扱おうとしている部分を教えられるはずである。 最初は、自分の「思い」「考え」が、
「主のみこころ」に従っていない、主の望まれる「思い」「考え」ではない、・・・などと気づいてい
たと思われる。 
 
ところが、献身した者であっても、段々と人間関係のしがらみなど様々な柵(しがらみ)にとらわ
れ、主の示し、指摘を見逃してしまっていたのかもしれない。 その上、中には自分は牧師だか
ら、クリスチャンだから、「・・しなければならない」 「・・しておくべき」などという自分の肉からの
「思い」「考え」「主のみこころ」よりも最優先されて、ますます本当の「主のみこころ」を見失っ
てしまったと思われる。 それでも主は、何度も何度も、忍耐をもって何らかのかたちで、清めら
れるべきところ、砕かれなければならないところを教えておられたはずである。 砕かれなけれ
ば、本当の意味で「主のみこころ」に従い、「主のみこころ」を行なうことなど できないからだ。 
だから、彼らに気づくチャンスを大いに与えておられたと思われる。
 
しかし、そのことを安易に捉えたり、どうしても離せない離したくない「自己」「自分の思い」「自
分の願い」「自分の考え」「自分の計画」・・・などがあって、何度もあったと思われるチャンスを
逃してしまったのではないだろうか。 そのようなことを何度も繰り返しているうちに、砕かれな
ければならない「自我」「自分の思い、考え、計画・・・」を無意識に心の一番奥底に仕舞い込ん
でしまい、いくら主が何らかの形で教えておられても気づかなくなってしまったと思われる。 そ
うなると、自分は、聖書にのっとって「主のみこころ」を行なっていると思い込むまでに時間はか
からない。 しかし、「主のみこころ」を行なっていると思っていても、それは、主から見られると
「主のみこころ」ではなく、「肉の善」である。(ローマ86、ガラテヤ68
 
「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あ
なたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」のことば通り、実際、彼らの多く
は、そのような働きをしたのであろう。 我々クリスチャンからみたら、このような働きは本当に 
すごいことである。 しかし、主は「わたしはあなたがたを全然知らない。」と言われ、「不法をな
す者ども。」と言われる。 やはり、人の見方と神の見方は違う。 人はうわべ(目に映ること)
を見るが、主は心を見る。(Tサムエル記167) 
 
「私は本心から主に従います。」「主のみこころを行ないたいというのは、わたしの本音です。」
「私は本心から主を愛します。」と言ったとしても、その本心、本音より もっと下の心の奥底
「自我」「自己」「自分の思い、考え」などが隠されている場合が結構ある。 だから、主はその
ように告白する者のことばが純粋な本音、本心から言っているのかを試され、調べられる。(エ
レミヤ書123) そして、そのときに、人が本音、本心と告白している、その心の更に奥深く、奥
底に潜む「自我」「自己」「自分の思い、考え」があるなら、教えてくださるであろう。 教えられた
なら、「自分の願い」「自分の思い」は離すまいという堅い決心がない限り、主に清めてくださる
よう、変えてくださるよう必死で祈り求めることである。 その祈りを主は喜んで聞いて下さり、
確かに変えてくださるだろう。 ただ、「自分の願い」「自分の思い」などを きっぱり離すことが
先決ではある。 
 
ちなみに、人は、いくら言動を繕っていても心の奥底にあるものが、言動に表れるものであり、
他の人にも伝わるものである。 クリスチャンであろうがなかろうが、人の心の奥底にあるも
の、すなわち思い、考え、・・など神に忌み嫌われるものかどうかは、その人の行く末(天国か
地獄)を決めるくらい重要であると言っても過言ではない。 
 
人にとっての最終である「死と死後(裁きも含めて)」についての多くは神の領域であろう。 一
人一人、天国へ行くのか地獄へ行くかを、正確に知っておられるのは神である。これも神の領
である。 「死と死後(裁きも含めて)」などについて、いろいろな方法で神から個人的に知ら
される場合がある。 そのときには、恐れをもって受けたらよいが、推測や思い込み、考え、肉
の感情などで神の領域を超えることがないように気をつけなければならない。 わからないこと
は分からないで置いておき、主にゆだねて主が教えてくださるまで待つことも必要である。(伝
道者311) とにかく我々がすべきことは、主イエス・キリスト、このお方を見続けていくことであ
る。(へブル122 そうして、キリストとしっかり つながり続けることキリストにとどまり続ける
ことである。 
 
新約聖書 ローマ人への手紙 216
   私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさば
   かれる日に、行なわれるのです。





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