めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年3月29日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<ファンタジー(空想、幻想)についての思考>



★新約聖書 テモテの手紙 第一 1:4
   果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなも
   のは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすもので
   はありません。
 
★新約聖書 テモテの手紙 第二 4:4
   真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
 
★新約聖書 エペソ人への手紙 4:27
   悪魔に機会を与えないようにしなさい。 
 
聖書のことば「誤りのない真実な神のことば」である。 内容は、読んで比較的、理解に
苦しむことなく教えられるものから、まるで幻想的空想的と思えるものまでいろいろである。 
火の車と火の馬があらわれたり、人(エリヤ)が、つむじ風に乗って天にのぼったり(U列王記2
章)、四つの顔と四つの翼を持った人間のような姿をした生きものが登場したり(エゼキエル書
1章)、七つの頭と十本の角とを持った大きな赤い竜や太陽を着て、月を足の下に踏み、ひとり
の女が登場したりする(黙示録)など、聖書の中には、幻想的な場面も多々あり、空想が満ち
溢れているかのように見受けられる場面が結構ある。 
 
しかし、これらは聖書「文字通りに、そのまま受け取る」のではなく、「たとえ」として受け取る
のである。 主ご自身も「たとえ」で話すと言われている。(マタイ13:34) 我々人の側からみれ
ば、主は、ご自身の御心を人にわかりやすく教えるために、人の日常的な常識などを用いて
「たとえ」として話されたと思うのだが、実はそうではなさそうである。 イザヤ書6章9,10節を引
用されて主イエスは「あなたがた(弟子たち)に、神の国の奥義を知ることが許されているが、
ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。
(ルカ8:10)」と言われたからだ。 ということは、聖書の中にある多くの空想幻想的な表現
は、「たとえ」として受け取るべきであり、それを悟ることができるのは、「キリストの弟子」であっ
て、「ほかの者(群衆)」は、その「たとえ」を通して主が言わんとされている真意、真理を悟るこ
とができないということである。 「ほかの者(群衆)」たとえ」の中に取り残される、というこ
とであろう。
 
さて、昔から「ファンタジー」と名のつく漫画、映画、小説、そして今やゲームが大人の心も子ど
もの心も楽しませてきた。 ナルニア国物語、オズの魔法使い、クマのプーさん、ムーミン、ク
レヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦、ドラえもん、アンパンマン、ハリー・ポッ
ター、・・・など数知れないほどたくさんある。 「ファンタジー」の意味は、空想幻想。 幻想的な
テーマを扱った文学などの作品、ということであるが、キリスト教会の多くは、「空想話を避けな
さい」「呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならな
い。(申命記18:11)」などの御言葉から、「ファンタジーもの」の多くに対して、特に昨今では「ハ
リー・ポッター」に対して反対している。 ただ、キリスト教会によっては、賛成しているところも
あるようだ。
 
著者は、これらの「ファンタジー」と名のつく漫画、映画、小説、ゲームなど一つ一つの背後に
存在する「(悪しき(霊)」が、その人に働いているかどうかに焦点を置いている。 「愛する者た
ちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ため
しなさい。(Tヨハネ4:1)」と書かれているからだ。 事実、「(悪しき(霊)」が働いている可能性
が大きい出来事や事件もある。 聖書の中にも悪霊が働いたことの記述はたくさんある。(T
サムエル記16章、マルコによる福音書5章、ルカ8章、マタイ8章他)
 
基本的には、やはり「聖書のみことば」通りにすべきだと思う。 かと言って、律法的になるの
はどうかと思う。 律法的になっているときは、以外と浅い次元で考えていることが多いようだ。 
「みことば」「みこころ」を深みから行なえるまでには、一人一人に応じての主が導かれる「過
程」というものがある。 また、基本的には、多くの「ファンタジーもの」の背後には、強弱こそあ
れ、様々な種類の「(悪しき(霊)」の存在があると思っている。(使16:16、黙16:13,14) ただ、
「ファンタジーもの」だから、すべてが危険とも言えない。 それらに関わるとき、それらの「霊」
が、その人に(悪)影響を与えているかどうかを見るべきだと思っている。 (悪)影響とは、そ
れらに関わる者が、クリスチャンであるなら、その人をキリストから引き離すことである。 未
だ、真の神である主イエス・キリストを受け入れていない者であるなら、ますます真の神から遠
ざけて「救い」とは関係ない方向へと誘うことである。 また、空想の世界が心地よいので、自
分で考えることをせず、受け身になること、現実をしっかり見ないで、嫌なことには目をそむけ
たりして現実逃避になりがちなこと、罪悪感が薄れていき、人やほかのもののせいにして、責
任を取るということを避けることなども悪影響であると言えよう。
 
また、「キリストの救い」は、人が自分は罪人だと認め、十字架のイエス・キリストを仰ぎ、神な
る主の前に悔い改めて、へりくだる者に与えられる。 ところが、「(悪しき(霊)ども」、闇の輩
(やから)は、人が「主に寄り頼む」こと、「真の神」の方に向くことを避けさせるために、人に何
か別物をあてがう。 自分のせいでもなく、自分が責任を持たなくてもいいように、悪霊のせい
にしたり、悪魔、魔物、妖怪、悪人などのせいにしたりするように誘う。 人は、自分が責任を
取らなければならないときがある。 また、人間としての「人情」を美徳とし、神の忌み嫌われる
方に引き込ませようとする。 人が心地よいこと、好むようなことを用いて、道徳に違反せず、
むしろ教訓じみたことを盛り込む。 どれもこれも巧妙な手口である。 それもそのはず、光に
巧妙に擬装するのが悪魔の得意技であるからだ。(Uコリント11:14)
 
我々が知っておくべきことの一つは、「(悪しき(霊)ども」は、人を地獄への道連れにしようと躍
起になっていることである。(Tペテロ5:8) 彼らは、表面上の行ないだけではなく、人の心を
見ている。 ある意味、人より、人の心の「思い」を見抜いているのかもしれない。 悪しき霊
力があり強く、賢く、人を煩わせ、悩ませ、何事も人間の頭で考えさせて、真の神に尋ねること
から引き離そうとすることについて天才である。 (悪しき)霊が関わっていることにおいては、
人間の力だけでは どうすることもできない。 主に寄りすがって、聖霊に目を覚まさせていた
だき、主の導き得ることである。 いずれにしても、あれはいけない、これもいけない、と自分
で決めつけるのではなく、何事においても、主に尋ね祈って行動することが大切だ。 
 
通常、クリスチャンは祈る。 何かをしようとするときには、尚更、祈るであろう。 そして、祈っ
て行動に移す。 祈り尋ねて、主の答えが明確でなかったとしても祈っているから、たとえ間
違っていても主が導いてくださるだろうと行動に移す。 確かに、主は祈りに答えてくださって、
間違っているときには、内容によっては制止してくださるであろうし、時には間違ったことさえ益
になさる場合もある。 しかし、それは、「信仰」が弱くてもたどたどしくても、一つ一つ主に心を
向け、自分の思い、願いを貫くのではなく、主の導き従おうとしたり、従って行った者につい
て言えることである。 多くの場合、人は、主が示しておられることに案外、気づいていないこと
が結構ある。
 
また、一度、主に尋ね祈って、その後、外側の状況を見て、自分で(肉の)判断をして行動に移
すということも結構ある。 そして、知らないうちに主が示されている道から、ほんの少しずつ少
しずつ離れていくということがある。 心の奥に自分の願い、考え、思いをしっかり据えた状態
での尋ね祈りをした後、自分は祈ったんだから、ということで安堵し、すべてが主の御手の中
にあると思い込みをして、徐々に主から離れるということはあり得ることだ。 こういう場合もそ
の人が、まさか「(悪しき(霊)ども」の策略に乗っていることに気づいていない。 
 
実際のところ、自分が今、「(悪しき(霊)」の影響を受けているのかどうかを、知ることは結構
難しいものであるが、真剣に主に尋ね祈り、吟味をしていくなら、主は教えてくださるであろう。 
霊を見破る賜物を与えられている人や牧会者を通して、聖書のみことば通して、希ではある
が直接、主が語られることによってなど、尋ね求める者がわかるような何らかの方法で教えて
くださるであろう。 教えられたなら、自分の肉からの願い、考え、思い捨てて、「主のみここ
ろ」を受け取るのである。
 
「主のみこころ」を受け取って従おうとすると、自我が窮屈に感じるかもしれないが、「みこころ」
に従って一歩踏み出したとき主からの平安を得られる。 軽い次元の安堵ではない。 反対
に、主から離れた自分の願いを「みこころ」と思い込んで行おうとするとき、満足感を得られる
こともあるが、その後、ますますキリストの道から離れて行き、気づけば、悪しきものの思う壺
通り、滅びの穴に舞い戻るということもないわけではない。 ただ、それは道を逸れた結果だと
自分では思えないのが恐ろしいことである。(Uテモテ1:15) キリストを信じた者は、滅びの穴
から、引き上げられたのだから、それを無にすることがないようにしなければならない。(詩編4
0:2) 
 
いずれにしても、表面上だけで、「ああしてはならない」「こうしてはならない」と律法的にならな
いで、「霊を見分けていく」「霊の働きを見破っていく」ことが重要であろう。 見破ることは、キ
リストを信じているからと言って できるものではないが、とにかく、できることは、一つ一つ主に
尋ね求めていくことである。 そうすることが、キリストにつながり続けることになるからである。 
空想ではなく、現実をしっかり見ることができるようになるからである。 日々、「主のみこころ」
を知るために、絶えず、主に尋ね求め続けていきたいものである。 
 
★新約聖書(新共同訳) ピリピ人への手紙 1:9-11
   わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊
   かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い
   者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふ
   れるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。
 
★新約聖書  第一ペテロの手紙  5:8
   身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのよう
   に、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。




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