めんどり通信/2015年3月8日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <感覚についての思考:使徒行伝16章の占いの霊につかれた女の箇所を参考> |
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★新約聖書 コリント人への手紙 第一12:10
ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には
異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
★新約聖書 へブル人への手紙 5:14
しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚
を訓練された人たちの物です。
●使徒行伝16章にパウロが若い女奴隷から占いの霊を追い出したことが書かれている。 あ
らすじは、こうである。 パウロやシラスたち一行が、ピリピという町で、祈り場に行く途中、「占
いの霊」につかれた若い女奴隷に出会った。 女は、パウロたちのあとを追ってきては 幾日
も「この人たちは、いと高き神の僕たちで、あなたがたに救の道を伝えるかただ」と叫び続け
た。 あたかも自分は、パウロたちと同じ仲間で同じことを言ってきたかのように叫ぶ女から、
パウロは、イエス・キリストの御名によって、「占いの霊」を追い出した。 すると、女から「霊」が
出て行き、占うことができなくなった。 「霊」の力でこれから起こることを予言できなくなり、先
行きも判断できなくなって、もうける望みがなくなった女の主人たちから、パウロとシラスは、腹
いせに訴えられ投獄されたということである。
ここで書かれているような「占いの霊」は、明らかに悪しき霊である。 「占いの能力」ではなく
「占いの霊」である。 「(悪しき)霊」は人にとりつき人を支配する。 この女は「占いの霊につ
かれた」と書かれているが、つかれるまでの過程はどうだったのだろう? いずれにしても、旧
約聖書 申命記18:10〜12節に占いは罪であること、しかも主が忌み嫌われていることが書か
れている。 悪霊は人を完全に支配するだけでなく、人を滅び(地獄)へと導く。 主の御心は、
ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる。(Uペテ
ロ3:9) まさしく正反対である。 あからさまに神に忌み嫌われ、ともすれば悪霊の支配下に
入ってしまう危険性のある「占い」に突き進まなくても、悪霊は、人を支配しようと躍起になって
いる。(Tペテロ5:8) この箇所でも、「(悪しき)霊」に支配されていたのは女だけでなく、女の
主人たちも支配されていた。 なぜなら、「もうける望みがなくなった」ことが、パウロとシラスを
投獄する理由だったからである。 金銭を愛することは、すべての悪の根であり、欲ばって金
銭を求める者をサタンや悪しき霊どもが放っておくはずがないからである。(Tテモテ6:10)
著者は、救われる前、自分の先行き、将来の見通しを知りたくて、多くの占い師に占ってもらっ
た。 最初は、手相を少し占ってもらうだけだったが、一つ一つの占ってもらった内容を信じ切
れず、次々と違う占い師に走った。 そうするうちに、四柱推命など占いの本を買ってきて読ん
だり、霊能者のところへ出かけて行って占ってもらったりと主が忌み嫌われることばかり行って
いた愚かな者だった。 挙句の果て、先祖供養にのめり込み、いろいろな種類の先祖供養を
するためお金も時間もかけた。 いつの間にか悪しき霊の支配にどっぷり入ってしまっていた
と思う。
その頃を思い出してみると、表面は楽しいこと笑えることがあったとしても、心の奥は「むなし
い」の一言だった。 当時、良いこと悪いことに関係なく、「第六感」という霊の感覚が割と強
かったように思う。 しかし、現実は自分にとって、失望とあせりが入り混じった不安な方向へと
向かっていたのを覚えている。 あるとき、そんな著者を主の方があわれんでくださり、救ってく
ださった。
あれほど傾いていた偶像礼拝関係に対して、当時は、鳥肌が立つくらい拒否の思いと感情が
起きてきた。 代わりに「愛」とはどのようなものかを口で説明もできず、知性でもわかっていな
かったと思うが、主イエス・キリストに対する愛が、心の底にあるのを感じるようになった。 心
から「主に喜ばれる者になりたい」という願いが離れなくなった。 振り返ってみると、著者の場
合は、ちょうどその頃、「第六感」がどこかに隠されたのかと思うほど、いわば「第六感」「勘」が
働かなくなっていた。 だから、とにかく、主に祈り尋ねていくことをしていったし、今もなお続け
ている。
その後、長い年月、主の方が忍耐してくださり、根気よく著者を訓練してくださった。 主から与
えられた訓練試練によって、「信仰」と「霊」が成長していき、霊的な賜物からではなくても、必
要な時には「霊的感覚」を働かせてくださるようになってきたと思う。 この「霊的感覚」は明ら
かに、主から与えられたから働くことができる。 著者の内に、はじめから備わっていたもので
はない。 最近、思うのに「第六感」がなくなったのではないということ。 日常生活の中で、「第
六感」は働いていることがあるということ。 ただし、主が定められた道をまっすぐに進んで行く
のに、差支えのない「感覚」はそのままでいいということ。 しかし、人が持っている「感覚」の中
には、主に清め(聖め)ていただかなければならないものがあるということである。
さて、以上から「感覚」について簡単にまとめてみる。 「感覚」というとき、種類や定義など専門
家によって定められているかもしれないが、著者がかかわった人たちや自分の経験などを通
して、聖書から区分してみる。 大きく2つに分けると、「霊的感覚」と「肉の感覚(五感:視覚、
聴覚、味覚、触覚、嗅覚)」である。 五感は、どの一つでも欠けたなら、不自由な思いをする。
また、この五感以外に、「第六感」という霊の感覚がある。 この感覚は例えば、虫の知らせ
だったり、悪い予感、良い予感がしたりする。 ある意味、霊の感覚と言えるだろう。 「第六
感」は、人によって強弱はあるが、どんな人にも備えられていると思われる。
ただ、霊の感覚と言っても「霊的感覚」とは違う。 「霊的感覚」だけは、すべての人が持ってい
るのではない。 これは神から与えられるものである。 キリストを信じた後、霊の食物である
「聖書のことば」や神からの訓練試練によって「信仰」が成長するが、それだけでなく、「霊」も
成長していく。 成長していくうち、神から働き(務め)が与えられる人がいる。 その働き(務
め)のため、神の賜物として「霊的感覚」を与えられる。 与えられた「霊的感覚」は、主のため
に用いられる。 真に 神から与えられた「霊的感覚」を持つ者は、神からの訓練試練、試しを
受けながら、たとえ苦しさの中であっても、その人の心の奥には、「主のために」「主を愛する」
という「思い」が植えられていく。 表面は苦しさでもがいているときでさえ、心の奥底、その人
の霊の中には「主を愛している」という「思い」があることにに気づくようになる。 そのような「思
い」も神からの訓練試練を通る中で、主から与えられたものである。
また、神の賜物としてではなく、「霊」が成長していく中で、 「霊的感覚」を賜物として いただい
ていなくても、ここぞというときに「霊的感覚」が働くことがある。 賜物としてではなくても、この
「霊的感覚」は、やはり神から与えられたものである。 いずれにしても、神から与えられた「霊
的感覚」は清い。 ところが、「霊」の感覚である、「第六感」は、そのままであっても何ら差支え
のないもの、すなわち清めが必要のないものもあるが、往往にして、清めが必要な場合が多
いと思われる。 神から与えられた「霊的感覚」と初めから備えられている「第六感」との線引
き、区分は明確にわからない場合も多いが、主に頼っている者には、必要に応じて教えてくだ
さるだろう。
いずれにしても、すべての人に備えられている霊の感覚である「第六感」「勘」においても、清
めが必要なものがあるということは、ともすれば、悪しき霊は そのような清められていないと
ころを隙と見て狙っている可能性があるということである。 そこを悪しき霊が働くための入り
口にしようとしている可能性があるということである。 主なる神によって「清め(聖め)られる」と
いうことは、主の支配下に自分を置くことであり、人が、主の方を向き続けているなら、主が
守ってくださるということである。 我々人は、「霊の世界」のことは実際、わかりづらいものであ
る。 しかし、神は、万物の創造者である。(イザヤ44:24、エレミヤ10:16、エペソ3:9) 見える
世界も見えない世界も創造された。 御使い(天使)の存在も悪魔(サタン)、悪しき霊の存在も
事実である。(ガラテヤ1:8、へブル1:14、ヨブ1:6、ユダ1:9) 悪魔(サタン)、悪しき霊どもが、
人を滅びに導こうとしていることも事実である。
人は、とかく恵みを望み、ご利益を求めて、自分の願い事がかなうものを拝もうとする者が多
い。 不安な心情がそのように掻き立てるのかもしれない。 そのような心理をよく知っている
悪しき霊どもは、良いことばかりを予感させたり、体験させたりすることもある。 また、良いこ
と、悪いことを交互に、もしくは悪いことばかり体験するということもある。 それらが主なる神
からのものであるなら心は揺るぎのない「真の平安」で満たされ、神に対しての「へりくだり」が
出てくるものである。 しかし、それらが、悪しき霊どもの手口の場合は、表面はどうであれ、
心の底には「不安」が沈着して拭い取れないものである。 人の心は、表面部分と内側の深い
底の部分があるようだ。 心の奥底にある「思い」「考え」などは、全部が全部、自分で気づくこ
とは難しい。
しかし、まだキリストを受け入れていない者であっても、人には「良心」というものが備えられて
いる。 主は、人の心を見られて、その「良心」に何らか働きかけられることがあるようだ。 そ
のような神からの働きかけに素直に応えることができるならば、その人にとっての「主の時」が
来たときに、必ず、主のもとに立ち返ることができるであろう。 そして、心の奥底にあった「不
安」は拭い去られるだろう。 神からの訓練試練がある時でも、この「不安」は無くなっている。
ただ、主が、キリストを信じた者を「神の子」と認められたなら、一人一人に応じて神からの訓
練試練があるから、その後の人生に波がある可能性は大である。 しかし、大波のとき小波の
とき、凪(なぎ)のときであっても主が共におられる。 「主と共に生きる」、この生き方こそが、
人生を大いに味わうことになり、神に認められる、すなわち価値ある人生を送ることになる。
我々がすべきことは、まず真に主イエス・キリストを信じ受け入れること。 「信仰」と「霊」が成
長するために、絶えず祈り尋ねること。 「主と主のことば」、「聖書のことば」に注目するこ
と、・・・など いろいろあるが、要は、一人一人がキリストにしっかり繋がることである。 とに
かく、今日も明日も、これからもずっと、目を覚まして、絶えず祈り求めて まっすぐにゴールに
向かって歩むという価値ある歩みを進めていきたいものである。
★新約聖書 コリント人への手紙 第二 4:18
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時
的であり、見えないものはいつまでも続くからです
★新約聖書 第二ペテロの手紙 3:18
わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。
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