めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年2月22日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<ヨブ記を読んで学んだこと、感じたこと、思考したこと>



★旧約聖書 ホセア書 6:6
   わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ること
   を喜ぶ。
 
聖書の登場人物の中で神からの厳しい試練を通り、神の訓練を受けた人は多々いるが、そ
の中でも「苦難の人」と呼ばれる代表の人がヨブである。 そのヨブのことが記されているヨブ
を見てみる。 ヨブ記の簡単なあらすじは、神を畏れる正しい人ヨブが、サタンの神への挑
戦によって、神の許されたところでの試練に会い、一瞬にして財産や家族を失う。 ヨブは大変
な資産家で東の地方で一番の富豪だったが、それでも「主は与え、主は取られる。主の御名
はほむべきかな。」と固く信仰に立つ。 それから、ヨブ自身、悪性の腫瘍に冒され苦しむが、
罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。 また、妻から見放されても、ヨブは崩れなかった。  
 
ところが、ヨブのことを聞いて、ヨブを慰めようとして来た3人の友人エリファズ、ビルダデ、ツォ
ファルとヨブは、長くて、苦しい悲痛な論争をしていく。 最後にエリフという年若い者の論述が
ある。 その後、神が語られ、ヨブが「神のことば」を聞いて、神の御前に、へりくだる。 神は、
ヨブを「義」と認められ、3人の友人のために執りなしの祈りをするように仰せられる。 3人の
友人には、全焼のいけにえの雄牛、雄羊を各7頭を取って、ヨブに祈ってもらえ、と命じられる。 
そして、ヨブが友人たちのために祈ると、主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福され
ということである。
 
もう少し、詳しく見ていく。 3人の友人の共通する主張は、「ヨブの苦しみは、ヨブが罪を犯した
から苦難を受けている」ということ。 また、「自分には罪はないと思っていたとしても自分でも
気が付かないときに起こした罪がある。 だから、神の罰を受けている。」ということである。 
いわば、苦難は罪の結果であるという因果応報応報主義応報思想を主張した。 そう言い
ながら、ヨブを慰めるのではなく、かわるがわるヨブを批判した。 友人たちは、そうすることが
正しいこと、これが神の原則だと固く信じていたようだ。
 
しかし、ヨブはこの応報思想は通用しないと反発した。 自然界を見れば、神の創造の御わざ
は、すばらしいが、同時にそこには、弱肉強食という矛盾した現実があること。 自然界だけで
なく、世界においても、このような関係は絶えないこと。 神がおられることは事実だが、それで
は神がおられるのに、なぜ苦しむのか。 不幸があるのか。 悪者が繁栄し、正しい者がバカ
を見るという現実があるのか。 そのような矛盾した事実があること、などと反論した。 また、
ヨブは潔白を主張、自分は友人たちと論じるのではなく、神と論じたい、神に答えていただきた
いと主張し、神に迫った。(ヨブ13章) 
 
ヨブの友人たちの共通点は、「罪」を問題にしていることである。 ヨブに罪を認めさせて悔い
改めさせようとしている。 一方、ヨブは、自分の正しさ、神の正しさを主張している。 だから、
友人たちとは、いくら言い合っても平行線である。 友人たちとヨブの論争は、「ああ言えばこう
言う」というように続いていった。 そのような中でヨブは、友人たちから慰めを受けるどころ
か、孤立無援の状態になっていった。 3人の友人たちの次に若者エリフが、神は人間を訓練
される方であること。 我々人間の知識では知ることができない神の世界があり、人は神を理
解できないこと。(ヨブ33:12,37:23) だから、人は神を恐れなければならないことを主張した。
(ヨブ37:24) 言っていることは間違っていないが、エリフ自身は、それを悟っておらず、口先
だけの論述になっていたことが問題である。
 
友人たちが主張していることの、すべてが間違っているとは言えないが、ヨブの苦しみは、正し
い神がなぜ、正しい人間を悪人のように苦しい目に合わせるのか、その原因、理由がわから
ないということで、友人たちの主張とは ずれており、その上、友人たちからの非難、批判があ
り、余計に苦しみを増していたと思われる。 ヨブは絶え間ない苦しみの中で、生きる意欲を失
い、死を望んだ。(ヨブ3:21,7:15) それでも、「私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない。(ヨ
ブ27:5)」と、ヨブの主張は揺るがなかった。 神が自分を罰せられたのなら、その告訴状の提
示をしてほしいと。(ヨブ31:35) しかし、神は沈黙された。 ヨブは、神に「あなたの手を私の
上から遠ざけてください。(ヨブ13:21)」「私の不義と罪とはどれほどでしょうか。私のそむき
の罪と咎とを私に知らせてください。(ヨブ13:23)」と懇願した。 ヨブは、友人たちにも「黙って」
ほしいと懇願した。(ヨブ13章)
 
エリフの論述の後、あらしの中から神がヨブに語りかけられる。(ヨブ38〜41章) 神の最初の
ことば「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。(ヨブ38:2)」は、一般的
には、ヨブに語られていると言われているが、むしろ、3人の友人、とりわけヨブの反論がな
かったエリフに対してではないだろうか。 いずれにしても、神はヨブを叱責した。 だが、ヨブ
に罪ありと断罪はしていない。 むしろ、ヨブに顕現してくださった。 ヨブは、神に叱責されるこ
とによって神に出会い、喜び、感謝している。(42:3-6) ヨブは、「神のことば」を聞くことによっ
て 神に出会い神の知恵に出会った。 神は正しい方であることを頭では知っていたが、今
や頭で知るのではなく悟った。 神の正しさに心底触れたのである。
     
それで、ヨブは、知恵なき愚かな人間として 悔いてへりくだったのである。 ちなみに「ちりと灰
の中で悔います。(口語訳ヨブ42:6)」「悔いる」は、原語では、「悲しむ」「憐れむ」「悔いる」
「悔やむ」を意味するのだという。 だから「悔いる」であって、「悔い改める」とは若干違うとい
う。 とにかく、神も、ヨブの正しさを宣言された。(42:7,8) 神はヨブの質問に直接には答えら
れなかったが、創造と摂理の中で、偉大な知恵と力を示す神を認識せよ、神なしには何ものも
存在することができないことを認識せよとヨブに迫られた。 
 
ヨブが知ったこと、悟ったことは、「あなた(神)には、すべてができること」「 あなた(神)は、ど
んな計画も成し遂げられること」である。  今までもヨブは、知識で神を知っていた。 しかし、神
の語りかけを聞くことによって、ヨブは「この目で神を見た」と言っている。(42:5) いわば、そ
れほど、「神のことば」を聞くこと、「神の語りかけ」を聞くことは重要なのである。 また、ヨブ
は、あきらめずに神に尋ね求め、神に訴えて神を求め続けた。 それほど、正しい しつこさ
必要だということである。 イエスが語られたたとえでも、しつように頼み続けることの重要性を
言っておられる。(ルカ11:5-10)
 
神は、三人の友人たちも叱責した。  「あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしの
しもべヨブのようではなかったから」と二度も繰り返し言われた。 同じ叱責でもヨブに対するも
のとは違う。 神はヨブには断罪していないが、友人たちにば捧げ物をささげて、ヨブに執り成
しの祈りをしてもらえと命じられた。 神は苦しむ者の訴えを聞いてくださる方である。 創造主
だからである。 また、苦しむ者にとって、本当に必要なことは、この苦しみを受け入れてくれる
方の存在である。 ヨブは、友人たちに共に、この苦しみを分かってほしいと訴えていた。 し
かし、友人たちはヨブを責めた。 人は、他の人の苦しみを、完全に受け入れることは できな
いかもしれないが、固執した「自分の考え」を捨てるなら、少しだけでも、わかってあげる、聞い
てあげることは可能であろう。 苦しむ者にとって、それは、救いや解放にならなくても、一呼吸
置くことになるものである。 それが、少しだが苦しむ者への慰めとなる。 いずれにしても、完
全に人の苦しみを受け入れることができるのは、我々人を造られた神であり、救い主イエス・
キリストである。 本来、この方の存在は、人間にとって必要なのである。
 
ヨブ記を見ると、不条理な苦しみの中に置かれた一人の人間が、神に訴えるも、神は答えてく
ださらず、その神になぜ答えてくださらないのか、と神に訴えて、神は本当に正しい方なのかと
問いかけることを、神が「良し」とされていることが伺える。 ただ、一方的に不満をぶつけると
いうのではなく、「神のなさることは正しい」「神がなさることは、確かに、すべて良い」というこ
とを心の底にしっかり持って、それを足場にしていることが必須である。 そうでなければ、
「こんなことが何故、起きるのか」「こんなことを許される神はどうなのか」などと神を攻めて、罪
となってしまう。 
 
とにかく、ヨブは、神は本当に正しい方なのか、と問うことによって神を求め続けた。 結果、ヨ
ブが信じ続けた神は、確かに正しい方であったという事実を知ることができ、この方を深く信
じることができ、この方を信じることに間違いはないと確信した。 そのことでヨブは救われた。 
苦しみが取り除かれたならな「救い」「解放」になるというのではない。 確かに、苦しみが去る
ことで、ある意味、「救い」「解放」ではあるが、その後の人生にまた何が起きるかわからない。 
そのときに「苦しみ」が取り除かれることだけに焦点を合わせているなら、またぞろ、同じことを
繰り返す可能性がある。 ヨブは、確かに、苦しみが取り除かれたこと、祝福を受けたこと、い
やされたことを喜んだ。 しかし、それ以上に「神を知る」ことができたことを喜んでいる。 ヨブ
救い、解放の焦点「苦しみ」ではなく、「神」「神を知る」「神に会う」ことだったからである。 
そのことを、神の方もご存知だったから、神を知ったヨブに、神は祝福を回復された。 二倍の
所有物、苦難のためにヨブから離れて行った人々との交わりの回復、新たに7人の息子と3人
の娘を与えられた。 そして、その後の半生は、前の半生より、更にさらに祝福された。
 
さて、「苦難」「苦しみ」について、まとめてみると、@罪があるから苦難にあう。 A罪ほどでは
なくても自業自得(自分の責任)によって苦難にあう。 B罪、自業自得に関係なく苦難にあう。 
以上である。 @AとBは、苦しみの度合いも質も違うと思われる。 我々が、「苦難」「苦しみ」
にあったとき、@〜Bのどれであるかは、真剣に神に求める者に教えてくださるであろう。 @
Aの場合は、へりくだって祈っているなら、真の悔い改めへと導かれるであろう。 Bの場合、
ヨブのときのように天(霊)の世界で、神とサタンとの何らかの対話があったというようなことも
あるかもしれない。 しかし、そうであっても、全面的に神の方が責任を持たれる。 すべては
神のご計画の中で動いているのである。 ただ、Bの場合は、神から閉ざされた感覚になり、
言葉で言い表せないほどの苦しみを体験する者もいる。 ヨブのように、そのことが一番苦しい
と思われるが、必ず神の采配がある。 
 
こうしてみると、我々がこの地上で生きるにおいて、深く々「神を知る」ことは、解放された歩み
をして、人生を神の御手の中で有意義に過ごし、確実に天の御国への道を進むにおいて重要
であると言えよう。 我々は、ヨブほど神の御前に潔白ではない。 しかし、自分の罪に関係な
「苦難」にあい「苦しむ」ことがあるかもしれない。 人生には程度の差こそあれど、人は「苦し
む」ことも多い。 そういうとき、とにかく「神を知る」「神に出会う」ために、正しいしつこさで「神
を求めて」いきたいものである。 そして、深く々「神を知り続けて」いきたいものである。
 
★新約聖書 エペソ人への手紙 1:17
   どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓
   示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。





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