めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年1月25日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<主があえて仕向けられる山あり谷ありの過程がある>



★新約聖書 へブル人への手紙 12:10-12    
   なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのです
   が、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲ら
   しめるのです。 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思
   われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせま
   す。 ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。
 
●この地上で生きていくにおいて何不自由なく、悩みもそれほどなく、問題も起こらないという
人は、ほとんどいないであろう。 傍から見て、穏やかに日々の歩みをしていると見受けられる
人であっても、何らかの苦労を乗り越えてきている人が多いのではないだろうか。 主イエス・
キリストを信じた者も同様、キリストを信じたから自動的に天の御国へと進んで行けるというも
のではない。 神は、「本当にキリストを信じた者」「神の子」として取り扱われる。 我々の益
のため、我々をご自分の聖さにあずからせる目的で、一人一人に応じて、神からの「懲らしめ
(訓練試練)」「試し」が与えられる。(へブル12章) 
 
キリストを信じ受け入れた者に、神は、聖書を通して、あるいは牧会者など人を通して、夢を通
して、時には出来事などを通して、「主のことば」を与えられる。 希であると思われるが、人に
よっては、直接、主から「主のことば」が与えられることもあるようだ。 「ことば」の内容は、小さ
いものから、今後、主がその「ことば」を成就されようとする「約束のことば」というように大きい
ものまで、いろいろある。 (その期間はわからないが)将来、神が成就されるという「約束のこ
とば」の中には、具体的な内容が語られる人もあるようだ。 
 
さて、どのような形にしろ、「主のことば」を与えられ、それを受け取った者は、成就される時を
待つ。 「ことば」の内容によっては、心待ちに待つこともあろう。 しかし、なかなか、成就され
ず、ときには、成就される方向に進むどころか、ますます現状、状況が悪くなっている、むしろ
反対方向に向かっているのではないのかと見受けられることもある。 そのようなとき、本当に
「主のことば」が自分に語られたのか、間違いではなかったのか、自分の思いや願望のゆえの
思い過ごしではなかったのか、自分に語られたと思った「聖書のことば」は、実は自分に都合
のいいように解釈して受け取っていただけではなかったのか、などという「思い」が浮上してき
て、与えられた「主のことば」を握れなくなる者も多い。 しかし、多くの者は、主に尋ね祈って
奮い立ち、その現状、状況に左右されず、「主のことば」に返ろうとする。 しかし、中には、 
あっさり間違いだったと、「主のことば」を手離す者もいる。 まさか「主のことば」を離したとは
気づかず、せっかく前進していた主の定められた道を引き返す者もいる。 
 
いずれにしても、与えられた「主のことば」が成就されるまでの過程は、平坦ではない。 人に
よっては、「山あり谷あり」と起伏が激しい者もいる。 神がその人を鍛えるために、あえて山の
時、谷の時がくるように仕向けられるからである。 神に鍛えられることにより、「神である主を
知るようになる。」 すなわち、神を知識によって知るのではない。 主を 表面的に知るのでも
ない。 人の心の深いところ、霊でしっかりと「主を知る。」 「主を知る」ことは、本当に深いこと
なのである。 ただ、鍛えられたからと言って、「主のすべてを知る」ことはできない。 我々人
は、主なる神の一部分しか知ることができないのではないだろうか。 たとえ、一部分であって
「主を知る」ことは、とても大きなこと、すごいことである。 一部分であっても、深みから「主を
知る」ことは、神からの「恵み」が与えられたから「知る」ことができるのである。 そして真に、
「主を知る」者が、「主を愛する」ことができるのである。  
 
旧約時代のヤコブの子ヨセフについて。 ヨセフは17歳のとき、「将来、兄弟や両親がヨセフを
拝むようになる」というを見た。 それは神からのビジョンであった。 ヨセフは、その「神
のことば」として捉えていた。 兄たちや父ヤコブに話して自慢しているように思われたようだ
が、ヨセフは、神からの「主のことば」を彼らに話さずにはおられなかったと思われる。 後に、
兄弟や父ヤコブが、その「主のことば」において、かかわってくるからだ。 夢を話したことに
よって、ますます兄たちの反感をかうようになり、彼らによってエジプトへ売られてしまった。 
奴隷として売られ、苦労する。 しかし、主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人とな
り、その後も幾度となく苦境に陥ったが、その都度、ヨセフは「主のことば」に返ったようで、主
もヨセフを引き上げ、エジプトの大臣にまでなった。(創世記37章〜44章) そして、「夢」の通
り、両親や兄弟が、ヨセフを伏し拝んだ。 詩編105:19に書かれている「彼のことばがそのとお
りになる時まで、主のことばは彼をためした。」という「ことば」通りである。 ヨセフは、与えられ
た夢による「主のことば」がその通りになるまで、激しい「山あり谷あり」の歩みであった。 しか
し、そこを通ることにより、深みで「主を知った。」 「主を愛する」ことが深くなった。 
 
さて、「神があえて山の時、谷の時がくるように仕向けられる」ことについても、聖書から学ぶこ
とができる。 旧約時代、エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエルの民を解放するため
に、モーセが立てられた。 「出エジプト」である。 その中で、エジプトから民を脱出させるため
に、神が行なわれた10の災いの箇所から思考してみる。 まず、神の方が、彼らの嘆きを聞か
れ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。 そして、民を救い出すため、モー
セに民をエジプトから連れ出すという「ことば」を語られた。(出2:24、25、3:7〜10) 
 
モーセとアロンが、イスラエルの民をエジプトから出て行かせるように、パロに言いに行った。 
しかし、パロは「行かせない。」と言った。 再度、主はエジプトの王パロに、エジプトから去らせ
るように告げよ、とモーセに仰せられた。(出6:11) それから、10の災いが始まる。 @血の
災い。Aカエルの災い。Bぶよ。Cあぶ。D疫病。E腫物。F雹(ひょう)。Gいなご。H暗闇。
I初子の死(最後の災い)である。(出エジプト記7章〜11章) このところで、10の災いを起こさ
れる前、神は前もってモーセに言われたことは、「神がパロの心をかたくなにするので、王は民
を去らせない」ということである。(出4:21)
 
主がパロの心を「かたくなにする」また「かたくなにした」と言われた箇所は、出エジプト記4:2
1、7:3、9:12、10:20、10:27、11:10、14:4、14:8、14:17である。 一つ一つ災いが起きるた
び、パロは、イスラエルの民を出て行かすと言うが、災いがおさまるとかたくなになって「行かせ
ない」と言った。 聖書には、パロの心が、かたくなになるのは、「神が、かたくなにさせた」から
であると書かれている。 また、パロの心を「かたくなにする」理由は、エジプトとイスラエルの民
に、「神が主であることを知らせる」ためであると書かれている。(出10:2、14:4、14:17) 
 
こうしてみると、10の災いは、エジプトにとって「災い」であるが、イスラエルの民にとっては脱
出、解放に向かっての「奇跡」である。 民は「奇跡」が現われたとき、これで脱出できると思っ
たかもしれない。 しかし、パロが何度も心変わりして「行かせない」と言うたび、気落ちしたとも
推測できる。 それでも、出エジプトすることを願っていたのであろう。 最後の災いのとき、
モーセはイスラエルの長老をみな呼び寄せて、家族ごとに行なうべき事がら、すなわち、鉢の
血を、かもいと入口の二つの柱につけること、朝まで、ひとりも家の戸の外に出はならない
となどを言った。 民はその「ことば」に従ったようである。(出12:28) それから、主の全集団
はエジプトの国を出た。(出12:41) 
 
ただ、後に「約束のカナンの地」に入ることができたのは、このとき脱出した民の中ではヨシュ
アとカレブだった。 ヨシュアとカレブにとっては、この10の災い、彼らにとっての「奇跡」すな
わち「山あり谷あり」は、深く「主を知る」ことになったと思われる。 本当の意味で「主を知った」
から、「主に信頼」することができ、「主を愛する」ことができるようになった。 だから、モーセが
カナンの地を探らせて帰ってきた12人のうち10人は、カナンに上っていくことに民を巻き込んで
反対したが、ヨシュアとカレブは「主が我々と共におられるのだから恐れてはならない。」と信仰
に立つことができたのだと思われる。(民数記13章〜14:10) しかし、荒野で神の裁きにあい
死んでしまった多くのイスラエルの民にとっては、出エジプトの時の「山あり谷あり」の経験は、
「主を知る」ことにつながらなかったようである。 それでも、その後に来る荒野での神の訓練を
素直に受け留めていたなら、主を知り、主に信頼できたであろうに。
 
いずれにしても、神は我々には前もって完全に知ることができない「神のご計画」を持っておら
れる。 主を信じ、主に喜ばれる者になりたいと願う者、主に従っていきたいと望む者一人一
人にも、神は「主のご計画」を持ってくださっておられる。 そのご計画の中には、一人一人に
応じてではあるが、必ず、「山あり谷あり」の過程を通ることを計画されている。 神はサタンさ
え使うことがおできになる。 神は、悪しきものを使ってでも、主のご計画の中にある者を訓練
なさるときもあるということを覚えておきたいものである。 「山の時」より、「谷の時」の経験は、
人を鍛え強くする。 「山の時」以上に「谷の時」に、いかに主に信頼できるか、主に頼り切れる
かが問われる。 往々にして、「主に信頼する」「主に頼りきる」のに、妨げるのが「自我」であ
り、「肉(生まれながらの性質)」である。 
 
それらが、砕かれ切り取られて変えられていく者が、様々な状況、状態に影響されず、真に
「主を知る」ことができ、「主を愛する」ことができるのである。 一人一人のレベルの深さに違
いはあるかもしれないが、一人一人に応じて神が定められている深さに達することを主は望ま
れている。 ひと言でいうなら、やはり「主を知る」ことは深いことである。 簡単なことではない
ということだ。 
 
主イエス・キリストを信じた者たちが、前進して行く途中、「谷の時」の経験を通るとき、その時
こそ、「主と主のことば」に返ること、神の御許しのもとで「谷の時」を通っていることを覚えてお
くこと、「山あり谷あり」を繰り返して、外側に現われる状況、状態が悪くなってきたように思えて
も、「主と主のことば」に返り続けているのなら、前進していることを知っておきたいものである。 
そのことは励みとなるであろう。 前進しているなら、与えられた「ことば」「到達」「成就
「完了」が待っている。 そして、「到達」「成就」「完了」したときに、まだ先があるなら、新た
に主が語ってくださることを期待して、祈り求めていきたいものである。 日々絶えず、主イエ
ス・キリストから目を離さず、祈り続けて、主との交わりを深くしていきたいものである。 聖霊
の流れに乗り続けていきたいものである。
 
★旧約聖書 エレミヤ書 24:7
   また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民とな
   り、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。
 





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