めんどり通信/2014年11月30日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <神のご計画の中にあって癒された人のその後は、その人の責任が大きい:38年来の病の人と生まれながらの盲人から思考> |
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★旧約聖書 申命記 30:19
私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福と
のろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。
★旧約聖書 イザヤ書 8:17
私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。
★旧約聖書 哀歌 3:25、26
主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。 主の救いを黙って待つ
のは良い。
●「神のご計画の中にあって癒された人のその後は、その人の責任が大きい」ということにつ
いて思考してみる。 ヨハネの福音書5章の38年間も病で寝たきりの人について。 この人は38
年間、歩くことができなかったということだ。 「足で歩く」ことは、「信仰の歩み」をたとえている。
この人は、38年間、「信仰の歩み」ができなかったということであろう。 しかし、その間、病で寝
たきりの状態に苦しんでいたと思われる。 その苦しみはこの人にとっては過酷なものであっ
たのかもしれない。 過酷な苦しみが長く続けば、落ち着いて人の話しを聞けず、ともすれば愚
痴ったり、直らない理由を人のせいにしたりなど、ひねくれてくる場合もある。 「よくなりたい
か。」とのイエスのことばに、彼は、素直に「よくなりたいです。」とは答えなかった。 「誰も自分
を池の中に入れてくれない。」と愚痴不平を言った。 しかし、そのことをイエスは責めておられ
ない。 イエスは、そのことを承知しておられ、むしろ、あわれんでくださった。 そして、イエス
は「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言われた。 その人はすぐに直って、床を取り上げ
て歩き出した。
ところがユダヤ人たちは、その人に、安息日だから、床を取り上げてはいけない、誰がそんな
ことを言ったのかと律法違反を指摘し、詰問した。 その人は、「私を直してくださった方が、
『床を取り上げて歩け。』と言われたのです。」とユダヤ人たちに答えた。 しかし、イエスが彼
に言われたのは、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」である。 イエスは、「人が生きる本
来の姿」、すなわち「人が信仰によって歩める本来の姿」に回復してくださったのだ。 「起きて」
が重要な「ことば」であるが、ユダヤ人たちに言うとき、「起きて」を言っていない。 この人の今
後の歩みを示唆しているようである。 「床を取り上げて歩く」という奇跡を体験することもすば
らしいことであるが、それ以上に大切なのは、「起きよ」という、信仰の回復である。 ちなみに
「復活させる」と「起き上がる」は同じことばだという。 この人は、死んだような状態から復活し
て、新しい生きた歩みをする、そのことが重要なのである。
イエスは、癒しをされた後、再びその人に会われた。 神殿の境内でイエスが見つけてくださっ
たのだ。 その人が与えられた恵み、それまで苦悩してきた時間を無駄にし、回復された命を
失う可能性があることを危惧されておられたからだ。 イエスは、「見なさい。あなたはよくなっ
た。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」と仰
せられた。(ヨハネ福5:14) しかし、その人は、「イエスのことば」を聞き入れず、自分を直してく
れた方はイエスだとユダヤ人たちに告げに行った。 ユダヤ人たちが、安息日に人をいやすと
いう律法違反を指摘していたのだが、それがイエスだったと、自分には責任がないことを告げ
たようなものである。 「このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。」と書かれている。 結
局、病気は癒されたが、その後の「信仰の歩み」は、その人に責任があるということだ。 主に
頼った生き方、「主と主のことば」を優先する生き方をしようとするのか、それとも自分を基準
にした、自分の計画通りの生き方をしようとするのかは、その人に選ぶ責任がある。 その人
に任されている。
もちろん、「主と主のことば」を優先する生き方は、自分の力ではできない。 主が、できるよう
に導いてくださり、力を与えてくださってできるものである。 だから、どれほど常々、主に依り
頼んでいるのか、主に尋ね求めているのかが鍵となる。 ただ、大切なことは、自分の都合の
いいことだけ主に求めるのではなく、尋ね求めた結果が、たとえ自分が気に入らなくても自分
の思い通りでなくても、その結果を受け入れるつもりで「主に求める」ことである。
この人の場合、イエスのことばを受け入れなかったことにより、彼の霊の目が開かれなかった
ことが問題である。 彼のイエスに対する態度(心も)が問題である。 せっかく見つけてくだ
さっても、「ことば」を与えてくださっても、それを受け入れるかどうかはその人に任されている。
これらのことからの推測ではあるが、この人は奇跡を体験したが、主の良しとされる道へは進
まなかった可能性がある。 事実こういうことがある。
さて、ヨハネの福音書9章の生まれつきの盲人について。 弟子たちは生まれつきの盲人がこ
じきをしていたのを見て、親が罪を犯したのか、この人自身なのかと惨めな現実の原因探しを
した。 するとイエスは、この人が生まれつき盲人である理由は、「神のわざがこの人に現われ
るためです。」と言われた。 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥
を作られて、その泥を盲人の目に塗って「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の
池で洗いなさい。」と言われた。 この盲人は、すぐさまイエスの言われた通りに従った。 する
と見えるようになった。
生まれながらに盲人でこじきをしていたこの人が、目が見えるようになったのを見た人々が、
不思議がり次々となぜ見えるようになったのかを質問してきた。 自分の身に起こった詳細を
そのまま話しても、やはり安息日だから、そのわざは神から出ていないとか、いや罪人にはで
きないだろうとか人々の間に分裂が起こるほどだった。 律法に固持するパリサイ人たちも両
親を呼んで話を聞いたりと混乱していたようだ。 この時点で、見えるようになった人は、「イエ
スは救い主キリスト」であることまでは理解できていなかったと思われる。 しかし、「預言者」で
あるとの認識を持ち表明したことは、律法学者やパリサイ人たちや彼らに追随する多勢の
人々の見方とは違う、すなわち「世」の見方とは違うということを宣言したことになる。(ヨハネ福
9:17) この人は、パリサイ人たちに「あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」と
言っている。 このことは、彼が「見えるようになった」ことと、彼の意思が、「世」ではなく、「永
遠の命なる真の神」の方へ向いたことが表されている。 その結果、この人は外に追い出され
た。(9:34) すなわちユダヤ社会から追い出された。 このことは、古い律法から解放された
証拠であり、この人の霊的な目が開かれたことを意味する。
そのことを聞いたイエスは、彼を見つけ出された。 この「見つける」は、原語では、「発見する」
という意味があるという。 さらにそれは「獲得する」という意味を持つという。 イエスが、この
人を獲得するために見つけ出してくださったのだ。 そして一言、「あなたは人の子を信じます
か。」と言われた。 これは「人となられた神を信じますか。」ということである。 「主よ。その方
はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」という彼に、イエスは「あなた
はその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」とご自身のことを明かされた。
彼は、「主よ。私は信じます。」と言い、彼はイエスを神として拝した。 この人の目は、肉体の
目だけでなく、霊の目も完全に開かれた。 主イエスと確かな出会いをしたからである。 イエ
スが「獲得」してくださったから、「信じます。」と心から言えたのである。 主から恵みとしての
「信仰」が与えられたのである。 この人は、その後ずっと、主イエス・キリストに従って行った
のではないだろうか。
5章の人と9章の人に共通しているのは、自分からイエスに癒しを求めたのではなかったという
こと。 主の方があわれんでくださって近づいてくださったということ。 二人とも、それぞれにお
いて過酷な苦しみを通ってきたということ。 そのことを主に知られていたということ。 そして、
その苦しみ、苦悩は無駄にならなかったということである。
しかし、神のご計画により、「癒し」という主のあわれみを受けた後は、人がどの道を歩んで行く
かにおいて、その人が選ぶべきであり、そういう意味では、その人の責任が大きい。 いやさ
れた後、主に対する態度でその後の進むべき道が示唆されることがある。 主に対する態度、
それは、主イエス・キリストに真に出会ったかどうかが大きい。 主が人の心の奥を見られて、
神の方が人に明確なキリストとの出会いをさせてくださるものである。 だから、「信仰」は神の
恵み、神の賜物である。 「信仰」は、頑張って得られるものではない。 自らの意思(意志)で
「私は主イエス・キリストを信じる」と告白して、「信仰」を表明することは大切なことである。 し
かし、それ以上に大切なことは、明確にキリストに出会って、主の恵み、賜物としての「信仰」を
与えていただくことである。 この「信仰」は、人の心の奥、「霊」に刻み込まれるものである。
軽いものではない。 たとえ、人が悪しき霊にやられたとしても、この「信仰」があるなら、必ず
解放され、引き上げてくださる「時」が来る。 「主イエス・キリストに真に出会うこと」、「霊の目
が見えるようになること」は、天の御国へと向かうまっすぐな道を進んで行くためには重要なこ
とである。
そのためには、我々人の主に対する態度が問われることになる。 外側の態度というより、心
の中、それも本音、本心、心の奥の態度が問われるのである。 この地上で苦労しているこ
と、苦悩、悲しみ、労苦・・など主は見ておられ、知っておられる。 それらの過酷な苦しみから
救い出したい、解放したいと主の方が願ってくださっている。
今日、我々多くの人はイエス・キリストのことを、何らかのかたちで知っている人が多い。 聖
書、伝道者、教会、一般の書物にも「イエス・キリスト」のことが書かれているものがある。 た
だ、これらの多くのものの中には、間違ったものが多いのも事実だが、そのようなものの中に
も「イエス・キリスト」という名が記されている。 たとえ、間違った情報、記述であったとしても、
主は人の心の奥を見ておられるから、救いや解放やいやしを正しく求めている者には、「イエ
ス・キリスト」という名によって何らかのかたちで主は働きかけておられる。 また、そのような
人は、真の神を認めるへりくだりと素直さがあると思われる。
いずれにしても、日々、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、へりくだって、誠実に主に
尋ねること、絶えず祈ること、神に依り頼むことをしていきたいものである。
★新約聖書 使徒行伝 4:12
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私
たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。
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