めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年11月23日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
神への愛を持てるかどうかを主は見ておられる:南北イスラエル国王たちとダビデから思考


★新約聖書 コリント人への手紙 第一 13:13
   それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるもの
   は、愛である。
 
★新約聖書(新共同訳) ヨハネによる福音書 14:23
   イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父は
   その人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
 
●旧約時代、イスラエルに王制の時代があった。 当時の王たち、特に南ユダ国の王の評価
の基準は「ダビデのように歩んだ」かどうかであった。 「ダビデのように」と言っても、ダビデが
完璧な歩みをしたわけではない。 ダビデは、姦淫と殺人の罪を犯し、他にも人口調査の罪を
犯した。 それでも主は、「ダビデのように歩む」を基準に、王たちを評価された。 また、「ダビ
デに免じて」と、ダビデを高く上げている。 なぜなのか。 それは、ダビデは、罪を犯したとき、
深く深く悔い改めたからである。 また、「生まれながらの性質」「自我」に真正面から向き合
い、自分の愚かさ、弱さ、卑怯さ、惨めさを嘆き、苦しみ、悩み、傷ついたからである。 そうし
て、ダビデの神に対する信頼は揺るぎないものになったからである。 詩編には、そのよう
なダビデの心境、心情が書かれている。 ダビデの特徴は「神に愛され、神を愛した」こと、何
事も絶えず「主に尋ね求めた」ことである。
 
さて、イスラエルの南北の王たちの中で北のイスラエル国には「善王」と呼ばれる王はいなかっ
た。 19人の王のうち、在位1ヶ月間だった15代シャルムと アッシリアに滅ぼされたときの 19代
ホセアの二人を除いてすべて 「ネバテの子ヤロブアムの道」を歩んだ。 南のユダ国には20人
の王のうち8人が「善王」と言われているが、彼らは最後まで「善王」であったとは言えない。
 
3代目アサ王は、王に即位したときからずっと主によりすがり、主の目に良しと見え、また正しと
見えることを行った。(U歴代誌14:2) しかし、アサ王の治世の36年、当時の北王国イスラエ
ルの王バシャがユダを攻めてきたとき、 アサ王は、「アラムの王に拠り頼み」、主に拠り頼ま
なかった。(U歴代誌16:7) そのことを指摘した予見者ハナニを獄屋に入れた。 その後、病
気になったが、その病の中でさえ、医者を求めて、主に求めなかった。 結局、「神への愛」
らというより持ち前の(肉の)真面目さから、主の目に良しと見えることを行っていたということで
ある。 だから、神に対しての恩を忘れ、感謝「神への愛」が失せた。 「神への愛」より「自分
優先」が強かったと言えよう。
 
4代目ヨシャパテ王は、北イスラエル国の最悪王と言われるアハブ王とその妻イゼベルの強い
偶像礼拝に全く影響されず、ダビデの道に従い、父の神に求めて、その戒めに歩んだ。(U歴
代誌17:6) しかし、息子ヨラムと北王国イスラエルのアハブ王の娘、アタルヤとを政略結婚さ
せた。 そして、アハブ王の死後、神が「悪であり、罪だ」といわれること、すなわち「アハブの子
アハズヤとも同盟」を結んだ。(U歴代誌20:35) ヨシャパテは自分の考え、計画を押し通し
た。 結局、「神への愛」からというより持ち前の(肉の)正義感から主の道に励んだということ
である。 「神への愛」より「自分優先」が強かったと言えよう。
 
8代目ヨアシュ王は、祭司エホヤダが生きている間は、主の目にかなうことを行なった。 エホ
ヤダが死んだ後、ユダのつかさたちの中で、偶像礼拝をしたいと願っていた人たちが王を伏し
拝んでお願いすると、ヨアシュはそれを聞き入れた。(U歴代誌24:17 ) 結局、ヨアシュは、「神
への愛」からというより、祭司エホヤダがいたから主の目にかなうことを行なえたということであ
り、「神への愛」は見られず、人の機嫌を取り、人からの目を気にしていたということである。
      
9代目アマツヤは主の目にかなうことを行なったが全き心をもってではなかったという。(U歴代
誌25:2) 「異教の神々を、自分の神々として立て、その前に伏し拝み、これに香をたいた」
ある。(U歴代誌25:14 ) 「神への愛」より「自分優先」が強かったと言えよう。 10代目ウジヤ
は、霊的教育者ゼカリヤの存命中は、主に従っていたという。 「神への愛」からというより、霊
的教育者ゼカリヤがいたから主に従うことができたということである。 祭司がすべきことであ
る務めを自らがしようとして祭司アザルヤたちに注意されても、激しく怒って香をたこうとした。 
結局、「神への愛」より「自分優先」「自分を押し通す」である。 
 
11代目ヨタムは、暑くもなく冷たくもなく、生温かったので、ユダの人々に良い影響を与えず、41
歳で若死にした。 「神への愛」は見られない。 13代目ヒデキヤは、宗教改革をして偶像を徹
底的に除き去り、主の神殿を聖別し、神の命令を心を尽くして行なった。 アッシリアの王セン
ナケリブが攻めてきたときも、主に信頼して神の奇蹟を体験したが、イザヤによって語られた
「あなたの家を整理せよ。 あなたは死ぬ。直らない。」に素直に従えず、15年寿命が延長され
たものの、その間のことは聖書に記録がない。 極悪王と言われるマナセが生まれたことだけ
が書かれている。 結局、ヒゼキヤも「神への愛」より「自分優先」が強かったと言えよう。
                          
16代目ヨシヤは、宗教改革をし、イスラエルの国中で異教の祭壇やアシュラ像を取り壊した
が、神の主権と召しに基づかないところの正義感(高ぶり)によって、戦死した。(U歴代誌
35:23,24) 彼もまた、「神への愛」より「自分優先」が強かったと言わざるを得ない。 このよう
にして見ると、「善王」といわれる王たちでも、ダビデの特徴である何事も絶えず「主に尋ね求
める」ことを全うできず、「神を愛する」ことを全うできなかったということである。 
 
さて、「神への愛」「主を愛すること」について、聖書にいろいろ書かれている。 「だれでもわ
たしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて
来なさい。(ルカ9:23)」とイエスは言われたが、自分を捨て、自分の十字架を負うということ
は、「自分優先」をやめるということであり、「神への愛」が優先であるということだ。 言い替え
れば、「神への愛」があるからこそ、「自分を捨てる」「自分の十字架を負う」ことができるという
ものである。 
 
また、イエスは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っ
ていません。(ヨハネ福15:13)」と言われた。 我々、主イエス・キリストを信じる者が、本当に
真から「キリストのことば」「主のことば」に従い行うなら、そのような者を、主は「キリストの友」、
「主の友」と呼んでくださる。(ヨハネ福15:14) 「自分優先」より「神への愛」を優先する者、「神
への愛」を持っている者が、「キリストのことば」「主のことば」を行なうことができるというもので
ある。 「主の御心」「主のことば」を行っていると言っても、神が「行っている」と見て認められた
者が、「自分優先」より「神への愛」を優先していると言えよう。 また、「キリストの友」、「主の
友」である者は、キリストのために「いのち」を捨てる、すなわち身体の命だけでなく、自分の思
い、願い、考え、計画、・・など自分から出てくるもの「自分自身」を捨てることができる。 
 
「捨てる」とは原語では「置く」という意味だというので、「捨てる」ことは「主にゆだね切る」ことで
ある。 「主にゆだね切る」とは、願い祈った結果が、たとえ自分の想像、願望、期待と違って
いたとしても、苦しみが伴ったとしても、「すべて主のみ心のままになさってください。 それをわ
たしは受け入れます。」ということである。 その人にとって、その結果が一番、良いのである。 
人のことをご存知の主が応えられた結果だからである。 「主にゆだね切る」ことも全うすること
が重要である。 人がキリストのために「自分」を捨てること、捨て続けること、すなわち、「自分
自身」「主に委ね切る」ことを続けることは、神を愛している「神への愛」を何よりも優先して
いるということになる。 
 
また、神がダビデをイスラエルの王として選ばれたとき、預言者サムエルに「人はうわべを見る
が、主は心を見る。」と仰せられた。(Tサムエル16:7) その「心」とは、神を愛する心、もしく
は神を愛することができる心かどうかである。 主なる神は、すべての人の心を知っておられ
る。(使徒1:24) 人の心の奥を見ておられ、そこに「神を愛する愛」があるのかどうか、もし、
たとえその時にはなかったとしても、「神を愛する愛を受け取る」ことができる「心」かどうかを見
ておられる。
 
マルコによる福音書5章ルカ8章に記されているゲラサ人の地で墓場に住んでいた悪霊につ
かれた男は、自分から悪霊を追い出してくれるようイエスに願ったのではなかった。 自分の
意思や感情、思考(知能)まで悪霊にとりつかれていたようだから、願い求め信仰を持つ
ことさえできなかったようだ。 また、周囲の者が彼に代わって、イエスに求めたとも記されてい
ない。 しかし、イエスは、この男の人から汚れた霊を追い出され、この人を解放し正気にされ
た。 イエスは、偶然、墓場の人と会ったのではなく、この男の人を救うためにゲラサ人の地に
行かれたのかもしれない。(ルカ19:10) 主は、この墓場の人の心の奥底に、「神への愛」
あることを知っておられたのではないだろうか。 もしくは、汚れた霊が出て行ったなら、この人
「神への愛を受け取る」ことができる素直な者であることを知っておられたのだろう。 
 
ダビデと北イスラエル国の王たち、南ユダ国の王たちの違いは、神に対して「愛」があるかどう
かであった。 主を愛しているから、主に尋ね求めるのである。 「主のみこころ」を行うことは
大切だが、それ以上に大切なのは、「主を愛している」かどうかである。 自分を押し通そうとす
る者が、「主を愛している」と言っても、それは口先だけである。 「自分自身」を捨てる気がな
い者、「主にゆだねます」と口では言いながら、自分の「思い」「考え」を押し通そうとする者
は、「神への愛」より「自分優先」の者である。 自分を愛して、神を愛さない者である。
 
本当に主を愛しているなら 自分を捨てる。 自分には、そこまでの愛がない、もしかしたら「神
への愛」「キリストへの愛」がないかもしれない、と思うなら、真剣に主に求めるはずである。 
真剣に求めているなら 「自分自身」を捨てるチャンスが与えられる。 そのとき、「主の御心」
選ぶか「自分自身」を選ぶかはその人に任されている。 「自分自身」を捨てることを選んだ者
には、主なる神が、「主を愛する愛」、「神への愛」を心の奥底に与えてくださる。 そういうこと
を繰り返していくうちに、心の中に、「神への愛」が増し加わってくる。 そうして主なる神をより
知っていくことになる。 「信仰」を全うするということは「神への愛」を全うするということである。 
 
「イエス・キリストを信じる」ということは、「主を愛する」ことを始めるということである。 「神を愛
する」ことができる者が、本当に「人を愛する」ことができるのである。 自分の都合のいいとき
だけ愛するとか、いいところだけ愛するというのは、愛ではない。 「愛は寛容であり、愛は情
深い。 また、ねたむことをしない。 愛は高ぶらない、誇らない。 不作法をしない、自分の利
益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。(Tコリント13:4〜7)」と書かれ
ている。 最も大いなるものであり、重要なものは、「神への愛」である。 ここに焦点を定め
て、自分の心を吟味していきたいものである。
 
★旧約聖書 箴言 8:17
   わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。
 




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