めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年11月9日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
主につながった上で「主のことば」を受けること、主の定められた道を歩むことの重要性について:旧約のイスラエル国の王エフーから思考


★新約聖書(口語訳) ヨハネによる福音書 15:7
   あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているなら
   ば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
 
★旧約聖書 詩篇 16:8
   私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
 
●神がご自身のご計画を遂行されるために、いろいろな人を用いられていることを聖書の中で
見ることができる。 旧約時代、イスラエルが南北に分かれ、それぞれに王が立てられた。 北
イスラエル国はアッシリヤ帝国によって滅亡されるまで、約20人の王がいたが、その中の王エ
フーが主に用いられたことから思考してみる。  
 
当時、預言者エリシャは、預言者の仲間の一人をエフーのところに遣わし、エフーに(王として
の)油を注ぐよう命じた。 また、「わたしはあなたに油をそそいでイスラエルの王とする。」とい
「主のことば」を伝えさせた。 そのことは、主が、エリヤに前もって語られていたことであっ
た。(T列王記19:16) エリヤの後継者エリシャの時にこの「主のことば」は実現した。 そし
て、エフーは、エリシャの従者によって主の油注ぎを受けた。 それは急いで行われた。 そし
て、「・・・あなたは、主君アハブの家の者を打ち殺さなければならない。・・・(U列王記9:6,7」
「主のことば」が語られたが、アハブとアハブの家は、そのような神の裁きを受けるほどの神に
対して反逆をしたのである。(T列王記16章〜22章) この「主のことば」を聞いたエフーは、す
ぐ行動に移した。 そして、イスラエルの王ヨラムとユダの王アハズヤを殺した(U列王記
9:17〜26)
 
エフーは、サマリヤのつかさたちや長老たち、および、アハブの子の養育係たちに手紙を書い
て送った。  彼らは非常に恐れたが、エフーは再び彼らに手紙を書いた。 すると、彼らは、王
子70人を捕まえて殺し、彼らの首を幾つかのかごに入れ、エフーに送り届けた。 さらにはア
ハブ家と親戚関係になったユダの王アハズヤの関係者42人まで全て殺し、エフーはアハブに
属する者で、サマリヤに残っていた者を皆殺しにし、その一族を根絶やしにした。 また、バア
ルの預言者や、その信者、および、その祭司たちをみな殺し、バアル神殿を壊し、バアルをイ
スラエルから根絶やしにした。(U列王記10章) そうして、エフーによりバアル信仰を一掃させ
た。 エフーはそのために油注がれた。 北イスラエル国では、このエフーが唯一油注ぎを受
けた王である。 特別な「神のみこころ」「神のご計画」を行なうためであった。
 
このように、主のために大いに働き、主に用いられたエフーに、「あなたはわたしの見る目にか
なったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行なった
ので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に着こう。(U列王記10:30)」と主は仰
せられた。 しかし、一方で主のエフーに対する評価は、「エフーは、心を尽くしてイスラエルの
神、主の律法に歩もうと心がけず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかっ
た。(U列王記10:31)」ということである。 エフーは、バアル信仰という偶像崇拝を一掃したに
もかかわらず、自分自身の政権維持のため別の偶像崇拝を離さなかったということである。 
「ヤロブアムの罪」とは、イスラエルの民を偶像崇拝に導き、真の神への信仰を異教的なもの
に変質させたことである。(T列王記12:28〜31) 
 
このところからわかることは、神のご計画を実現させるため、主に従い、主の喜ばれる者たち
ばかりが用いられるのではないということである。 神から見られて「悪しき者」さえ用いられる
ことがあるということだ。 モーセがイスラエル人を率いて出エジプトするとき、パロが阻止しよ
うとした。 そのことを出エジプト記7章3,4節では「わたしはパロの心をかたくなにするので、わ
たしのしるしと不思議をエジプトの国に多く行っても、パロはあなたがたの言うことを聞かない
であろう。」と書かれている。 パロが素直になる余地があったのに、神が、かたくなにされたと
いうのでは決してない。 かたくなに守ろうとする「自我」かたくなさを手放すつもりがない「思
い(本心)」が、パロの心の奥に頑としてあったということを主はご存知だったということである。 
 
それならば、何故、そのような者たちを神は用いられるのか、使われるのかは、我々人が、知
ることを、主が「良し」とされているときには教えてくださるであろうが、わからないことも多々で
ある。 「神のみぞ知る」ということが、結構多い。 それを無理して知ろうとするとき、人間的な
考え、常識的な推測の解釈となり、「神の御心」からずれることがあり得る。 少しずれるだけ
なら戻る可能性があり、戻りも早いだろうが、大幅にずれていき、無意識のうちに高ぶりに高
ぶって元に戻れなくなる可能性もないとは言えないので、気を付けたいものである。
 
さて、「主のことば」があったゆえ、主がその「ことば」を実現されたとはいえ、実際、そのことに
用いられ、そのことに取り組んでいたエフーは、なぜ、いとも簡単に主から離れたのだろうか。 
エフーは、「主のことば」が語られた人ではなかったのか。 ただ、よく見てみると、エフーに語
られた「主のことば」は、エフーが行なう働きに関しての「主のことば」である。 エフー自身につ
いてやエフー自身の今後に関することばは語られていない。 また、聖書に記されているエ
フーの言動から、彼が主を愛していたことを、うかがい知ることができない。 「主のことば」
熱心ではあるが、その熱心は主を愛するがゆえの熱心とは見受けられない。 結果から見る
なら、エフーは自分の政権に悪影響がないので、熱心だったという、肉の熱心と言えるかもし
れない。 だから、主につながり続けていない。 これらから、エフーがどうなるのか、どのよう
な道を歩むのかは、結局、彼自身の責任によると言えよう。 もちろん、エフーに限らず、人は
みな各々の自由意志を働かせての人の責任の部分はある。 主に真に従うのか自分の考え
を貫くのか、主にゆだねるのか自分の思い通りにするのかを選択していくことは、人に与えら
れている自由意志に任されている。
 
「主のことば」が語られた聖書に登場してくる人物は、ダビデ、アブラハム、イサク、ヤコブ、エ
リヤ、エリシャ、パウロ、ペテロなど多くいる。 彼らには、主から、働きだけでなく、彼ら自身に
ついて、彼ら一人一人の今後について、「主のことば」が直接、また他の人を通しても語られて
おり、彼らは、そのような「主のことば」を受けたとき、みな神の御前にへりくだっている。 彼ら
がみな、神を愛し、神に愛されており、主につながり続けているのを見ることができる。 起こっ
た出来事の中にも彼らの神に対する愛が見受けられ、主なる神もまた彼ら一人一人を愛して
いることを見ることができる(Uサムエル記7:16、U列王記2:11、13:21、2:9,10、使徒9:1
5、マタイ4:19、16:18、ルカ22:32)
 
そのように見るとき、働きのことだけではなく、その人自身のことやこれから先のことについ
て、また、神のご計画の中に自分があることについて、主がその人に直接、語られること、そ
の人のことを他の人たちを通して語られることは、その人が確実に主が定められた道を歩む
ことができることの一つの保証となるかもしれない。 そういう意味で、そのような「主のことば」
は重要なことであると思われる。 また、主に用いられても、何故、エフーのように悪から離れ
ない者がいるのか。 それは、主に、つながているかつながっていないか、主につながり続け
ているかどうかが関係しているように思える。 なぜ、主につながらないのか、つながることを止
めるのか。 それは「自分の思うとおりにしたい」という頑とした「思い」「願い」を心の奥底に潜
ませているからである。 主のあわれみによって、その「思い」「願い」が浮き彫りにされたとき、
素直に手放せばよいのだが・・。 しかし、長年それで生きてきたから、なかなか手放さない人
が多いのも事実であろう。 
 
「手放すことができない」ではなく、「手放さない」である。 だから、その人の責任である。 本
当に心から「手放そう」とする人に、主は必ず、手放すことができるチャンスをくださり、その力
もくださり、主が手放すことを助けてくださるものである。 だから、そのチャンスを逃さないこと
である。 出エジプトしたイスラエル人たちに、主はどれほど忍耐され、あわれみをかけられた
かを聖書から見ることができるが、そのように、あわれみ深い主は、たった一度のチャンスで
はなく、何度も何度もくださっているはずである。 
 
主につながり続けることは、主が定められた道を進んでいく上で必要なことである。 この「主
につながる」ことは、信仰が深くならなければ、つながることができないというわけではな
い。 主イエス・キリストを真に信じて間もない者、すなわち「信仰」が幼い者霊」が浅い者で
あっても、主はその人の心の奥を見られている。 幼い者、すなわち信仰歴の短い者であって
も、全面的に主にゆだねることはできる。 われわれ人は、自分の肉からの「思い」「願い」さえ
主にお任せして、本心から「主のみこころ」通りになることを選ぶ責任がある。 しかし、主は
「幼子のような信仰」、すなわち「主と主のことば」に対して純粋で素直になれ、と言われてい
る。(マタイ19:14) だから、全面的に主にゆだねることができるなら、それは主につながって
いることであり、とどまっていることである。 反対に、信仰歴が長い者であっても、主につな
がっていない、主にとどまっていない者も多い。 そういう者が、口では「主のみこころのまま
に」と祈りながら、自分の肉からの「思い」「願い」をしっかり握って離さないのも実情である。
 
とにかく、まずは真に「主につながること」「主にとどまること」に取り組み、更に「主につながり
続ける」「主にとどまり続ける」ことに取り組んでいきたいものである。 そして、働きのことだ
けではなく、自分自身のことや自分の今後について、また、神のご計画の中に自分があること
について、「主のことば」をいただきたいものである。 また、たとえ、そのような「ことば」がな
かったとしても、自分は、主を愛し、主に愛される道、すなわち、主が定められた道を進んでい
くことを、真から願いながら、求めつつ歩んでいきたいものである。
 
★旧約聖書(口語訳) 詩編 37:23,24
   人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。たといその人が倒れて
   も、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。
 
 




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