めんどり通信/2014年11月2日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <最後の女エバが主に用いられるということはあり得るか?:エリシャとシュネムの女から思考> |
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★新約聖書 コリント人への手紙 第一 2:7
私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄
光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
★旧約聖書 創世記 3:6
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその
木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与え
たので、夫も食べた。
★新約聖書 ローマ人への手紙 5:19
すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひと
りの従順によって多くの人が義人とされるのです。
●聖書のはじめの巻の創世記1章26節に「われわれに似るように、われわれのかたちに、人
を造ろう。(創世記1:26)」と書かれ、創世記3章6節には「
神はこのように、人をご自身のかた
ちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」と書かれている。
神が、ご自身のかたちに人を造られたのは、神と人が永遠に愛の交わりをするためである。
聖書の中では常に「わたし」と単数形で語っておられる神が、「われわれ」と複数形で語ってお
られるのは、このことで「交わり」ということを示しておられるようである。 だから、人(アダム)
についても、「人が、ひとりでいるのは良くない。」と男のふさわしい助け手として女を造られた
のは、やはり、「交わり」を持たせるためであると思われる。
「ふさわしい助け手」とは、原語では、「顔と顔を向け合っている相手」、「彼と向き合う者として
の助け手」といった意味だという。 また、「助け手」というのは、原語のヘブル語では、何ら従
属の意味は含まれず、むしろ神を形容する高貴な言葉であるという。 男アダムと女エバは、
共に語り合い、共に助け合う「対等に向き合えるパートナー」であったということだ。
ところが、人祖アダムとエバは罪を犯し、神との交わりが絶たれてしまった。 アダムとエバが
置かれたエデンの園には、「善悪の知識の木」があった。 「善悪の知識の木からは取って食
べてはならない。必ず死ぬから。(創世記2:17)」という「神のことば」は、エバが造られる前、ア
ダムに直接、語られた。 アダムは、エバが造られた後、その「神のことば」をエバに伝えてい
たであろう。 しかし、エバは、蛇の誘惑にのってしまった。
ここで思うのは、アダムはエバに正しく「神のことば」を伝えていたのであろうか?ということで
ある。 このことについては、たぶん正しく伝えていたと考えていいのではないかと思われる
が、そのように受け取るとき、主なる神から直接、「神のことば」を聞くのと又聞きでは、正確性
に重大な違いが出てくる可能性が大いにあり得るということだ。 今日、アダムとエバのように
直接、「神のことば」を聞くことは希かもしれないが、それでも我々は「神のことば」「主のこと
ば」を聞くことができる。 牧会者など人を通して、聖書のみことばを通して、映像、幻を通し
て、出来事などを通して「主のことば」を、又聞きではなく、(霊の)耳で聞くことは可能であるし、
主を信じる者は(霊の)耳で聞くべきである。 「悟る」という言い方の方がふさわしいかもしれな
いが、いずれにしても「主のことば」を聞くことは大切である。
エバは又聞きだった可能性がある。 「それに触れてもいけない」と「神のことば」に付け加えた
り、「あなたがたが死ぬといけないからだ」と「食べると必ず死ぬ」と仰せられた「神のことば」を
オブラートに包んだ言い方をしているからだ。(創世記3:3) そして、エバは「善悪を知る木」か
ら実を取って食べた。 一緒にいた夫アダムにも与えたのでアダムも食べた。 ここで厳密に
言うなら、エバが先に罪を犯した。 たとえアダムがエバと一緒に蛇のことばを聞いていたとは
いえ、アダムが止めなかったとはいえ、蛇はエバに直接、語りかけ、エバは先に誘惑され、先
に食べたことは事実である。 だから、本来、「エバにあってすべての人が死んでいる」と言え
なくもないはずだが、聖書では、男性中心の表現法が取られている。 制度としても、男中心
の家父長制の社会なので、男性中心の系図となっている。
それで、「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになった(新共同訳ローマ人
5:17 )」、「アダムにあってすべての人が死んでいるように(Tコリント15:22)」と書かれてい
る。 そして、最初の人アダムは生きた者となり、罪を犯して、霊的にも肉体的にも死ぬべき者
となったが、最後のアダム、イエス・キリストは、我々の罪のために十字架で死んでくださって、
神との交わりを阻止していた「罪」を処分してくださった。 そして3日目に復活してくださり、そ
の復活の中で「命を与える霊」となってくださった。 我々、キリストを信じる者に、神との交わり
を回復させてくださったのである。
それでは、厳密な言い方だが、最初の女エバの違反、罪の行為についてはどうなのか。 もち
ろん、イエス・キリストの十字架と復活によって解決されている。 ただ、聖書が男性中心の表
現法が取られていることを考慮するとき、人類最初に犯したエバの罪のことがひっかかる。
当然ながら神の救いのご計画は、イエス・キリストによって完全ではあるが、最初にエバが犯し
た罪を最後の女の従順によって完結されるということはあり得ないだろうか? このようなこと
は、突拍子もない推測だろうか? このことについての聖書の裏付けはないだろうか?
エリシャはイエスの型であると言われているが、エリシャによってシュネムの女の子どもが生き
返ったことが列王記第二4章に書かれている。 また、8章1節では、「エリシャは、かつて子ども
を生き返らせてやったあの女」と書かれている。 この箇所を見てみる。 また、聖書の中に何
ヶ所か、死人が生き返る場面が書かれている。 どの場面にも証人がいる。 例えば、列王記
第一17:17-24(エリヤ:シドンのツァレファテのやもめの息子)、列王第二
4:32-37(エリシャ:
シュネムの女の男の子)、列王第二13:20,
21(エリシャの死んだ骨に触れて生き返った人)、
ルカ7:11-17(イエス:ナインのやもめの息子)、ルカ8:40-56(イエス:ヤイロの娘)、ヨハネ福1
1:38-44(イエス:ラザロの4日経っていた墓の中からの生き返り)、使徒9:36-42(ペテロ:タビ
タ(ドルカス)、病死の女の生き返り)、使徒20:7-12(パウロ:ユテコがパウロの話しを聞いてい
て眠って3階から落ちて死んだが生き返り)、そしてイエスのよみがえり(生き返り)である。
さて、エリシャとシュネムの女について。 ある日エリシャがシュネムを通りかかると、そこにひ
とりの裕福な女がいて、しきりに彼に食事をすすめたので、彼はそこを通るごとに、寄って食事
をした。 当時、エリシャはカルメル山を拠点にしてシュネムをよく通っていたようだ。 シュネム
は、ガリラヤ湖とサマリヤの中間に有る町で、カルメル山から約50キロのところにある。 女は
エリシャが立ち寄るたびに神についての話しを聞いていたと思われる。 女は信仰によってエ
リシャが普通の預言者ではなく、神の聖なる人であることを悟った。(U列王記4:9) それで彼
女は夫の許可を得てエリシャがゆっくりできるための特別な部屋を屋上に設け提供した。
エリシャはシュネムの女に、「よくしてくれたから、あなたのために何をしたらよいか。」と問いか
けた。 女は「私は私の民の中で、しあわせに暮らしております。」と答え、要望を口にしなかっ
た。 エリシャに仕えるゲハジから、女には子どもがなく、女の夫も年をとっていることを聞いた
エリシャは、女に、「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになろう。」と言った。 そして、そ
の通りになった。 「来年の今ごろ」ということばは、「しかしわたしは、来年の今ごろサラがあな
たに産むイサクと、わたしの契約を立てる。(創世記17:21)」とアブラハムに神が約束を語られ
たのと同じである。 シュネムの女の子どももイサクのように約束の子、契約の子であると言え
よう。
旧約時代、イスラエルでは、子どもが与えられるのは神からの祝福と考えられていた。 シュ
ネムの女に子どもが与えられ、その子が、大きくなって、ある日、「頭が、頭が」と訴えその日
のうちに死んだ。 女は屋上に上がって行って、神の人の寝台にその子を寝かし、戸をしめて
出て来た。 彼女は、夫の許可を得て、カルメル山の神の人のところへ行った。 エリシャに仕
えるゲハジに、「お子さんは無事ですか。」と尋ねられると、女はゲハジに「無事です。」と言った
が、山の上の神の人のところに来て、彼の足にすがりつき、憤りをぶつけた。 それから、エリ
シャは家に戻った女と子どものもとに赴き、その子どもを生き返らせた。
このところで、「女」についてまとめてみる。 シュネムの女はイスラエル人である。 すなわち、
今日でいうクリスチャンである。 結婚した女である。 エリシャを神の聖なる人と信仰によって
悟った。 その神の聖なる人によくした。 約束の子どもを与えられた。 その子どもが死んだ
とき、エリシャに憤っているだけなら、エリシャの部屋の寝台に死んだ子どもを寝かせたりしな
いであろう。 表面は憤っていたとしても、「約束の子が死ぬことは神の御心ではない」との信
仰があったから、神の人の寝台にその子を寝かし、そこに誰も入って来ないように戸をしめ
た。(ルカ8:51) そして、信仰によってエリシャのもとにやって来た。 「お子さんは無事です
か。」と尋ねられて、「無事です。」と答えている。 ここにも女の信仰があらわれている。 約束
の子、契約の子は死んだが、生き返るためにシュネムの「女」が用いられたということである。
このようにしてみると、「善悪の知識の木」から実を食べるという不信仰、不従順によって(霊
が)死んだ最初の女であるエバが、最後の女であるシュネムの女の「約束の子が死ぬことは
神の御心ではない」という信仰、従順によって回復されるというように思えるのだが。 最初の
エバは、不信仰、不従順 。 最後のエバ、すなわちシュネムの女は信仰、従順。 それゆえの
回復があると、受け取ることができないだろうか。 もちろん、それをなさるのは、エリシャで予
表されているイエス・キリストであられる。 すでに最後のアダム、イエス・キリストによって神
と人が交わることは回復されているが、最後に、主イエス・キリストが最後のエバ、すなわちシ
ュネムの女を用いられて、この最初の女エバのことが解決する、それがある意味、主がご計
画された完結ではないかと思うのだが、どうだろうか?
もし、このように受け取るなら、女は男に従え、女牧師が聖書的だ、いや聖書的ではない、こ
の聖書の箇所の解釈はああだ、いや違うこうだ、などとキリスト教会で分かれている聖書解釈
に対する意見に主の光が差し込んで、本当に主が望まれていることが知らされてくるようにな
ると思われるのだが・・・。 また、聖書の解釈について、知らず知らずのうちに長年キリスト教
会で語り継がれ、教え継がれてきた解釈が固く土台としてあったものが崩れていき、主なる神
の深い御心を知ることができるようになる可能性があるのではないかと思われるのだが・・・。
聖書は我々は思っている以上に奥深さがある。 神の奥義が隠されている。 しかし、隠され
ているものが現われてくる時代に入ったのかもしれない。
いずれにしても、ぶれてはならないことは、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目
を離さない」こと、「全能の主」の前にへりくだること、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主
を愛し」ていくことである。 Tコリント人への手紙8章6節のことば、「私たちには、父なる唯一
の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在し
ているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主
によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。」をしっかり心のうちに基礎として据
えておくことが重要である。
★新約聖書 ルカによる福音書 8:17
隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また
現われないものはありません。
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