めんどり通信/2014年10月19日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <神がどう見られているかを足場とすることが重要!:エリヤから思考> |
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★新約聖書 テサロニケの人への手紙 第一 5:17-5:23
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、
キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。 御霊を消してはなり
ません。 預言をないがしろにしてはいけません。 すべてのことを見分けて、ほんとうに
良いものを堅く守りなさい。 悪はどんな悪でも避けなさい。 平和の神ご自身が、あなた
がたを全く聖なるものとしてくださいますように。 主イエス・キリストの来臨のとき、責めら
れるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
●列王記上17章に突如、預言者エリヤが登場する。 この17章からエリヤの後継者エリシャ
が登場するまでを簡単に見ていく。 この間のあらすじはこうであ。 エリヤはイスラエルが堕
落しているとき、主に立ち返るようにと主から遣わされた人物である。 エリヤという名前には
「主こそ神である」という意味がある。 そのエリヤが、当時の北イスラエルのアハブ王に「私の
仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の
間は露も雨も降らないであろう。」と言った。 イスラエルに対する懲らしめとして3年間の干ば
つが与えられるというのである。 エリヤがアハブ王にこのように語った後、「ここを去って東へ
向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。 そして、その川の水を飲め。わ
たしは烏(からす)に、そこであなたを養うように命じた。」という主のことばがあった。 エリヤ
は主のことばのとおりに直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。
朝と夕に、烏が肉とパンを運んで来た。 主のことば通りであった。
しばらくすると、「シドンのツァレファテに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そ
こであなたを養わせる。」と主のことばがあり、エリヤはすぐさま従った。 その町の門に着く
と、ちょうどそこに、最後の食事を息子と取った後、死のうと薪(たきぎ)を拾っていたひとりの
やもめと会った。 エリヤは彼女に声をかけ、「主が地の上に雨を降らせる日までは、そのか
めの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。」という主のことばを伝えた。 やもめはその
ことばを信じた。 そして、そのエリヤを通して言われた主のことばのとおりになった。 しかし、
その後、彼女の息子が病気になり、息を引き取った。 彼女は、愛する息子の死をエリヤに訴
えた。 エリヤに訴えるということは神に訴えていることでもあった。 突然の奇跡を体験すると
いう受け身で神を信じ、神を見るのではなく、自らが神を見上げて訴える彼女の言葉を受け、
エリヤは3度、その子の上に身を伏せて、主に祈った。 エリヤの祈りは聞かれ、息子は生き
返った。
それから、かなりたって、三年目に、「アハブに会いに行け。」との主のことばがあった。 エリ
ヤはいつも通り、すぐさま主のことばに従いアハブに会いに出かけた。 そこでアハブの家の
宮廷長オバデヤに会った。 このオバデヤは、アハブの妻イゼベルが主の預言者たちを殺し
たとき、百人の預言者をほら穴にかくまって救い出した者である。 アハブはエリヤに会うため
にやって来た。 そして、カルメル山でバアルの預言者四百五十人とエリヤ一人で、どちらが
真の神であるかの対決をすることになった。 エリヤは民に「あなたがたは、いつまでどっちつ
かずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、
それに従え。」と言ったが、民は一言も彼に答えなかった。 そこで、エリヤは民に向かって
言った。「私ひとりが主の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人
だ。・・・」(T列王記18:21、22)
その対決方法は、一頭の雄牛を選び、それを切り裂いて祭壇の上に載せ、バアル自らがそれ
に火をつけるかどうかを確かめるというもの。 彼らはバアルに叫び求め、祭壇の周りを踊り
回るが、何の応答もない。 そして、今度はエリヤが主の祭壇に一頭の雄牛を乗せ、祭壇にも
その周囲にも四つのかめの水を注いで祈った。 すると、主の火が降って来て、全焼のいけに
えと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。 民はみな、これを
見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った、ということである。(18章39節まで)
さて、17章1節の「私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らない」は、口語
訳では、「わたしの言葉のないうちは、数年」、新共同訳では、「わたしが告げるまで、数年の
間」という言い方になっているが、エリヤの自信にあふれて、エリヤが主語、すなわち「自分が」
「わたし」を前面に打ち出しているように受け取れるかもしれない。 また、ヤコブの手紙5章17
節に、「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の
間、地に雨が降りませんでした。」と書かれている。 ここでも、まずエリヤが雨が降らないよう
に祈ったら、その通りになったと受け取れるかもしれない。
しかし、エリヤが表舞台に登場するまでの間のことは聖書には書かれていないが、エリヤは神
との信頼関係を築くまでに、また絶えず主と一つになるために厳しい訓練試練の過程を通った
と推測できる。 だから、エリヤは、主の御心を悟ったことを足場にした上で「ことば」をアハブ
に語っていると思われる。 もしくは、エリヤが登場するやいきなり、「主は生きておられる」と
言ったことから、「ここ二、三年の間は露も雨も降らない」ということばも、エリヤに先に臨んで
いたのかもしれない。 いずれにしても、この箇所からわかることは、人には、まず何らかのか
たちで「主のことば」「主のみこころ」が先にあるべきだということ。 その「主のことば」「主のみ
こころ」を深く受け入れた上で、主に求めるということをすべきだということだ。 ただ、そのよう
にできるためには、やはり訓練試練の過程を通ることが必要である。
エリヤの特徴は、エリヤには絶えず、「主のことばがあった」ということである。 そして、エリヤ
は絶えず祈ったということであり、直ちに「主のことば」通りに従ったということである。 祈るこ
とは大切なことではあるが、自分の都合だけを考えて祈ることは、ともすればご利益信仰にな
りかねない。 主なる神との信頼関係を築いた上で「・・・してください。」「聞いてください。」と祈
ることが重要である。 また、エリヤはいつも「主のことばがあった」上で、祈っているが、この
ように、人に「主のことばがある」ことは重要である。 「主のことばがある」ことは、主が基準で
あることを祈る者が、具体的に知ることができるからだ。
さて、もう一か所、見てみる。 カルメル山にバアルの預言者四百五十人やイスラエルの民が
集まって来たとき、エリヤは民に向かって「私ひとりが主の預言者として残っている。」と言っ
た。(T列王記18:22) この少し前、エリヤはオバデヤが救った主の預言者が百人いるという
ことを聞いていた。 しかし、エリヤは自分ひとりしか主の預言者は残っていないと言っている。
オバデヤが救った主の預言者百人をエリヤと同じ仲間として数えていない。 そのことを主は
責めておられず、エリヤの言葉に反対もしておられない。 むしろ、エリヤの言葉を認めておら
れるようにさえ思える。 これは、主の預言者と言ってもレベルの違い、働きの大きさの違いが
あるからだと思われる。 バアルの預言者四百五十人との対決は、いわば「霊の戦い」であ
る。 「霊の戦い」にも大きさの違いはあるが、通常、主に遣わされて「霊の戦い」をする者は、
神によって直接的な訓練試練を受けた者でなければ、神の望まれるレベルの戦いができない
ものである。
ここでの「霊の戦い」による勝利は、主なる神を礼拝しながら、なおかつバアルも礼拝して、よ
ろめいていたイスラエルの民の目を覚まさせ、主なる神だけに従わせる決心を持たせた。 そ
して、民はエリヤの命令通りバアルの預言者たちを捕え、エリヤは、偽預言者たちを「主のこと
ば」「主の命令」通りに彼らを殺した。(申命記18:20)
イゼベルは、エリヤがしたすべての事を残らずアハブから聞いた。 イゼベルは、すぐさま使者
をエリヤのところに遣わし、報復を宣言した。 あれほどの勇敢だったエリヤだったが、イゼベ
ルを恐れて逃げた。 ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者を残し、ひとり荒野を歩き続
け、「もう十分です。私のいのちを取ってください」と死を願った。 四十日四十夜、歩いて神の
山ホレブに着いた。 この逃亡を、エリヤが燃え尽き症候群になったからだと言うことを聞いた
ことがあるが、いずれにしても、今日でいう、何らかの精神的なショック、心配ごと、悩み、スト
レスなどからくる病、例えば神経症、自律神経失調症、パニック障害、強迫神経症、・・・・な
ど、そういう「神経の病」「心の病」を体験していたように思われる。 このことに関しては、めん
どり通信/2014年8月24日を参照してほしい。
エリヤが、燃え尽き症候群、ストレスなどからくる「神経の病」「心の病」になっていたとしても、
それほど、この「霊の戦い」はすさまじいものであったということだ。 外側に現われている出来
事、戦いの多くには、「見えない霊の戦い」がある。 そして、その戦いにも様々なレベルがあ
る。 この戦いを百人の主の預言者と協力したり、分担したりして、エリヤが一人で背負うべき
ではなかったという意見も多いが、主が望まれていたことは、エリヤが一人でこの戦いをすると
いう、この体験を通ることであったと思われる。 エリヤが責任感が強すぎたという意見もある
が、人間的に見れば、その通りであろう。 しかし、このときは、エリヤが一人で、この道を通る
ことを主は「良し」とされていたと思われる。 これが「神のご計画」だったのではないだろうか。
事実、ホレブの山で主の「かすかな細い声」を聞くようになったエリヤは更に変えられ、ます
ます神との信頼関係が深く強くなったからである。 そして、さらなる務めが与えられている。
(T列王記19章)
このように我々一人一人においても、人から見れば、ああではないか、こうではないか、という
ようなことがあったとしても大事なことは、主なる神がどう見ておられるのか、主は何を望んで
おられるのか、ということである。 この見方が違えば、聖書の解釈もいろいろな出来事による
判断なども主の見方とは違ってくる。 我々は、常に、「主がどう見ておられるのか」「神はどう
なさろうとしておられるのか」「キリストは何をのぞまれているのか」を常に足場としていることが
重要かつ必須である。 そのためにも、ますます、主と深くつながるために取り組んでいきたい
ものである。
★旧約聖書 詩編 143:10
あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。
あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。
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