| めんどり通信/2014年9月28日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <「ダビデに免じて」ということばから思考> | |
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 ★旧約聖書 歴代誌 第一 29:17    私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。 ★旧約聖書  詩篇 51:6        
ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてく        ださい。  ●「ダビデに免じて」という表現が、新改訳聖書では5か所ほどある。 口語訳では「ダビデのた めに」、新共同訳では「ダビデのゆえに」と書かれている。 いずれも主なる神が語られている ことばである。 「ダビデに免じて」とは、ダビデの人柄や功労などを考慮して「許す」の意味で 使われる。 いわば、ダビデの主に対する態度が、子孫を守ったということである。 「ダビデに 免じて」の恩恵を受けた最初の人は、ダビデの子ソロモンである。 ソロモンは、神から知恵の 心と判断する心を与えられた。 その上、富と誉れも与えられた。(T列王記3:12,13) それら によってソロモンはイスラエルに繁栄をもたらせた。 ソロモンは神殿を建設し、旧約聖書の雅 歌や伝道者の書、箴言を書いた。  しかし、多くの業績を残したソロモンも、晩年、偶像礼拝に走った。 それゆえに、神はイスラエ ル王国を引き裂いて、ソロモンの家来に与えることを宣告された。 ただし、「あなたの父ダビ デに免じて、あなたの存命中は、そうしないが、あなたの子の手からそれを引き裂こう。(T列 王記11:11,12)」と言われた。 主のことば通り、ソロモンの死後、イスラエルはソロモンの家来 のヤロブアムに与えられたが、「ダビデに免じて」、一部族(ユダ族)だけソロモンの子レハブア ムに与えられた。 北イスラエル国と南のユダ国に分裂したのである。 その後、ユダ国の王ヨ シャパテの子ヨラムが、アハブの家の者がしたように、イスラエルの王たちの道に歩むという、 主の目の前に悪を行ったときも、 主は、そのしもべ「ダビデに免じて」、ユダを滅ぼすことを望 まれなかった。(U列王記8:19) 南のユダ国は、ダビデの家の正当な継承者だったからであ る。 神は、ダビデとの約束を守られたのである。(Uサムエル7:11,16) 「ダビデに免じて」と主に言われたダビデは、姦淫の罪と殺人の罪、他にも人口調査の罪を犯 した者である。 しかし、ダビデは、罪を指摘されたとき、その罪の重さだけでなく、罪を犯して しまう「生まれながらの性質」「自我」に向き合い、自分の愚かさを認め、自分自身を嘆き、苦し み、悩み、そうして明確な深い悔い改めをした。 子どもたちの不幸な事件に際しても「親ゆず りの性質」を受け継がせてしまった苦しみで、更に「(罪を犯してしまう)生まれながらの罪の性 質」と戦い、苦悩し、傷ついた。 そうして、主なる神をますます深く愛する者に整えられていっ た。 神もそのようなダビデを愛された。  ダビデは、キリストの型、もしくは予表と言われる。 簡単にダビデとイエスの生涯を比べてみ る。 ダビデは、ベツレヘムで生まれ 
育った。 王となったのは30歳であった。 いろいろな人 に裏切られたが、最大の裏切りは、ダビデの信頼する助言者だったアヒトフェルがアブシャロ ムの謀反に荷担したという裏切りだった。(Uサムエル15:31) そのアヒトフェルは、首をつっ て死んだ。 ダビデは、40年間王位についたが、エルサレムで生涯を閉じ葬られた 一方、イエスはベツレヘムで生まれられ、キリスト(油を注がれた者、救い主)として公生涯に 立たれたのは30歳であった。 キリストは、弟子のイスカリオテのユダに裏切られ、裏切ったイ スカリオテのユダは、首をつって死んだ。 そしてエルサレムで十字架にかけられ、葬られた。  ただ、キリストの場合は、3日目によみがえられて今も生きておられる。 公生涯から十字架ま で、約3年半。 月数にすれば約40か月。 だからダビデの書いた「詩編」の多くのことばは、 「ダビデの子」として後に生まれられたイエス・キリストによって成就したと言われている。 そし て、基本であり、重要なことは、キリストを信じ受け入れ、心から悔い改める者は、イエスキリス トの十字架に免じて赦されるということである。 さて、ダビデの生涯を見るとき、神がダビデを責められているのは、罪を犯したときだけであ ることがわかる。(T列王記15:5) 神は、キリストを予表する者としてダビデを立てられていた から、人の側から見ると子どものしつけも甘いし間違っている、理不尽なことが起きても何も対 処しない、潔さがないと思えることも、神は責めておられない。 むしろ、ダビデがすることを、 すべて「良し」とまではいかなくても、敢えて赦されて(許されて)いたのだということが、よくわか る。 明らかに神のご計画がダビデにあったということである。 また、キリストとのかかわりで ダビデの生涯を見ると、ダビデには神の選びがあったということもわかる。  なぜ神はダビデを選ばれ、「ダビデに免じて」と言われたのか。 その答えはT列王記15章5節 に書かれている。 「それはダビデが主の目にかなうことを行ない、ヘテ人ウリヤのことのほか は、一生の間、主が命じられたすべてのことにそむかなかったからである。」ということだ。 ダ ビデは主の訓練試練に、いわば合格したから、このように言われたのである。 また、神が最 初、ダビデを見い出されたとき、預言者サムエルに「人はうわべを見るが、主は心を見る。(T サムエル16:7)」と仰せられた。 主は、どういう「心」を見られるのだろうか。 それは、神を愛 することができるかどうかの「心」である。 主と一つになれるかどうかの「心」である。 また、この「愛」について、イエスは「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大 きな愛はない。(ヨハネ福15:13)」と言われた。 この「友」とは、一般的には、対等の人間関係 を持つ友のことと言われているが、ヨハネによる福音書15章14節によるならば、この「友」とは イエス・キリストのことである。 そのキリストのために自分の命を捨てることができる者が、神 を愛する者であるということだ。 そして、この「いのち」というとき、身体の命だけでなく、世の 基準、価値観、肉から出てくる自分の考え、自分の思いなど、いわば「自分自身」のことであ り、それを捨てるということだ。 ただ「捨てる」とは原語では「置く」という意味だというので、「捨 てる」ことは「主にゆだねる」「主にゆだね切る」ことである。 人がキリストのために「自分」を捨 てること、すなわち、自分を主に委ね切ることは、神を愛していると言えるということである。 ダビデは、神に見い出された後、主からの訓練試練にあった。 主は愛する者を訓練し、受け いれるすべての子を、むち打たれるからだ。(へブル12:6) また、主からの訓練試練を受ける 者も、神を愛するから、耐えることができ乗り越えることができるのである。 ダビデも主なる神 を愛していたから、「自分」を捨て、訓練試練に耐えることができたのである。 そして、神に対 して裏表なく素直に自分をあらわしていった。 契約の箱がエルサレムに運ばれるときも、王で あっても傍目を気にせず、主の前で、とびはねるように力の限り踊った。 たとえ主の前で喜び 踊ることで人に卑しく見えてもかまわないと、その姿を軽蔑していた妻ミカルに言った。 本当 に、ダビデは素直に純粋に主を愛していたのである。(Uサムエル6章) 詩編の多くはダビデが書いたものと言われているが、神への感謝、祈り、悔い改め、信頼、賛 美、へりくだりなどの心情が書かれている。 それらを見れば、ダビデが絶えず主に尋ね祈っ ていたことがよくわかる。 ダビデが、そのような心持ちになることを神は、すでに知っておられ たから、選ばれたのだと思われる。 神は、人が神に出会ったとき、どういう心の態度を取るの か。 一人一人がキリストを知ってから後、どのように主なる神に従うのか。 すなわち表面上 で従うのか、自分を捨て、すべてを主にゆだね切ったところで従うのか、いずれの態度を取る のかを知っておられるかのようだ。(使徒1:24)  また、神の選びというとき、我々にもあり得ることである。 口語訳聖書 詩編 37篇23,24に「人 の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。たといその人が倒れても、全く 打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。」と書かれている。 こ の中で「人」というのは、英語の聖書(KJV訳)では「a good 
man」=(善人)となっている。 だか ら、どんな人にも、この詩編のことばが成就されるわけではないが、神から見られて「善人」と 見なされた者が、主に信頼するなら、その通りになるということである。 また、イエスは弟子た ちに、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたが たを任命したのです。(ヨハネ福15:16)」と言われた。 主によって定められた道を歩むこと、 キリストの弟子になることは、幸いな神のご計画の中に入れられているということであり、神を 愛し神に愛される歩みに導かれるということである。  このことが、神を愛し神に愛されることであり、主と心が一つになることである。 そのように整 えられるなら、ダビデほどではなくても、「・・・に免じて」と主から言われる者になる可能性はあ る。 他の人、例えば家族などが、「・・・に免じて」守られることがあり得るとういうことだ。 とに かく、我々は、神から「善人」と見なされるように、キリストの真の弟子として歩めるようになりた いものである。 そのためにも、ダビデのように、主の前に正直になって、真実な者、主に喜ば れる者に変えていただきたいものである。 そして、主を愛し主に愛される者として、神が定め られたまっすぐな道を歩んで行きたいものである。 ★旧約聖書  詩篇 140:13    まことに、正しい者はあなたの御名に感謝し、直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう。 | |