めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年8月30日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<ストレスからくる神経の病、心の病の者でも主によって回復される時が来る:ヨブから見る>


 
★旧約聖書 詩編 15:1、2
   主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むので
   しょうか。 正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。
 
★旧約聖書(口語訳) 箴言 18:14
   人の心(spirit、霊)は病苦をも忍ぶ、しかし心の痛むときは、だれがそれに耐えようか。
 
★旧約聖書 エレミヤ書 12:3
   主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます。・・・
 
●主イエス・キリストを信じる者であっても「ストレス」のせいで、すなわち「ストレス」があまりに
もきつく、落ち込んで悲観的な思いばかりが湧き出て「信仰」を働かせることができない状態に
なる場合もあり得ることについて。 ヨブの場合。 ヨブは異邦人であった。 聖書では、ユダヤ
人は、神が選ばれた民(選民)であり、神の特別な約束を受けている。 しかし、ヨブは、そのよ
うな特別の民の中にいたわけではなかったにもかかわらず、真の神を信じて、潔白で正しく、
神を恐れ、悪から遠ざかっていたとい。 新共同訳では「無垢な正しい人」となっているが、い
わば、幼子のように「素直で純粋な人」ということである。 ヨブは大変な資産家であり、東の
人々の中で一番の富豪であった。
 
ヨブには、七人の息子と三人の娘がいたが、彼らが、豊かさのゆえに、神を忘れてしまうことが
ないようにと、常に祈り、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげたとい
う。 異邦人の彼が、そこまで徹底して神の御心に従おうとしたのは、推測ではあるが、それま
でにヨブは、何らかの形で神の顕現を受けていたか、もしくは、列王記第二5章で登場してくる
アラムの王の将軍ナアマンのように、「主のことば」に従った上での奇跡の体験をしていたのか
もしれない。 人は、神の奇跡を見たり体験したとしても、真の神から離れていく可能性があ
る。 福音書に記されている群衆はイエスを裏切り、弟子と呼ばれる人たちの中にもイエスか
ら離れて行った者もいる。(ヨハネ福6:66) だから異邦人ナアマンのように、自我が砕かれた
上で、自分の意思(意志)で「主のことば」に従うということは大切なことである。
 
ところがサタンの挑戦によって、神の許された試練に会った。 ある日、悪魔(サタン)が神の
許可を得た。 するとサタンは、ヨブの全財産を奪い、十人の子どもたちを奪った。 シェバ人
が襲いかかり、天から神の火(雷)が降り、カルデア人が襲ってきて、荒野のほうから大風が吹
いて来て、ヨブの全財産は奪われ、子どもたちは殺された。 突如、ヨブの上に不幸が雪崩を
打って襲いかかった。 それでもヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ
伏して礼拝し、「私は裸で母の胎から出て来た。 また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、
主は取られる。主の御名はほむべきかな。」罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。(ヨブ
記1:20-22) 主なる神に対しての堅い信仰の表われである。 
 
しかし、ヨブにかかったストレスは半端なものではなく、心の奥、は深く傷ついたと思われる。 
それから、尚もサタンが神に申し出てヨブを打つことの許しを受けると、サタンは、ヨブの足の
裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。 サタンは「彼のいのちには触れるな。( ヨブ記
2:6)」との神のことば通り、命こそ取らなかったが、ヨブが体中を掻きむしって苦しむほど攻撃
した。 この後、ヨブは口を開き、生まれた日を呪い、死を願うようなことを口走っている。 も
う、この時点で、あれほどの堅い信仰もガラガラと崩れ去ったかのようだった。 あまりにも積
もり積もったストレスと心の奥、にまで傷ついた深い傷により、ヨブの心は限界を超えていた
のではないだろうか。 
 
しかし、もし、十人の子どもたちや全財産を失ったことだけとか、自分の体に悪性の腫物があ
る、いわば自分のことだけだったなら、ヨブは、信仰を働かせることができたのかもしれない。 
相当な悲痛、悲惨な出来事が重なったこと、その悲惨な出来事がサタンによって引き起こさ
れたこと、そのことを明らかに神が許されていたこと、すなわち、ある意味、神が直接的に介入
されていたことは、ヨブに尋常ではないストレスがのしかかることになったのではないだろうか。 
神が働かれるところにサタンは必ずと言っていいほど働く。 そこには、妨害、攻撃がある。 
 
世の中に、希ではあるが、サタンからの妨害、攻撃に関係なく、ヨブほど、もしくはそれ以上の
苦難を受けている者もいる。 そして、その人たちの中には、「神経の病」、「心の病」の状態
経験しない者も多くいる。 神の直接的な介入がなくても、いろいろな方法で賢く立ち回り、苦
難を回避できている者もいる。 努力によって、そのような苦しみの中から立ち上がった者たち
もいる。 彼らは、確かにすばらしい。 起き上がれるに越したことはない。 
 
しかし、「神の介入」がないということは、神が「ご自身のみこころ」を行われる上での幸いな「神
のご計画」の中に確実に入っているとは限らない。 むしろ入っていない可能性が強いというこ
とでもある。 ヨブの場合は、明らかに幸いな「神のご計画」の中にいた。 サタンによる攻撃、
苦難は通るが、神の直接的な介入。 そこには、人の常識や知恵ではわかり得ない、すさまじ
霊の世界での動きがある。 そのようなところからヨブにかかるストレスがある。 そのような
ストレスから来る、心の圧迫による「神経の病」、「心の病」の状態にヨブは、なったのではない
かと考えられる。  
 
著者は、24時間だけではあるが、痛みと嘔吐、だるさ、しんどさで七転八倒の苦しみを体験し
たことがある。 24時間ほとんど一息つく間もないほどであり、いつこの苦しみが終わるのだろ
うかとあまりの苦しさに、布団の上を転がりまわっていた。 しかし、ほんの一瞬、息つく間がで
きたとき、「自分は、このようなところを通らなければならなかったんだ(それが主の御心だった
んだ)」と自分の思いから来る声か主の御声かわからなかったが、そういう声があった。 その
ときは、24時間で終わることなどわかっておらず、いつまで続くのだろうかと痛みとしんどさでウ
ンウンうなっていた。 しかし、神経からくる病の状態には陥らなかったから、ほんの一瞬、一
息つく間があったときには、「主はいやしてくださる。ここで自分が死ぬことは御心ではない。」
との信仰を持てた。 しかし、次の瞬間、痛みとしんどさで、「主の御名」を呼ぶことも「主のこ
と」を考えること、想うことなどできなかった。 しかし、その体験には明らかに神が直接的に介
されていたと思う。 
 
さて、そのような状態だと思われるヨブのところに3人の友がヨブのうわさを聞いて遠くからはる
ばる見舞いに来た。 しかし、ヨブは「罪を犯したから罰を受けている」と非難された。 悶絶の
苦しみの中、ヨブは自分は潔白であると、いろいろ弁明するも苦しさは、ますます増すばかり。 
途中、エリフという若者も加わった。 また何故、苦しみの連続なのかと神へ疑問を抱き叫んで
も答えがなかった。 そのことが更にヨブに悶絶するような苦しみを味わわせた。 ただ、死を
願うような言葉も発したが、ヨブは自殺をしなかった。 神への信仰の中に踏みとどまっていた
ということもあろうが、それ以上に、神が直接的に介入されているゆえ、神がヨブに自殺などさ
せなかったと思われる。 
 
最後に、神ご自身があらしの中からヨブに答えて仰せられたが、彼の苦難の理由はいっさい
説明されなかった。 創造と摂理、神の権威を示された。 一言で言えば「お前(ヨブ)は被造物
である」ということである。 ヨブは そのことを悟り、自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改め
た。 ヨブは「 今、この目で神を見た」(ヨブ記42:5)と言った。  これらの体験、特に神の顕現
は、ヨブの信仰を更に強くし、ヨブのを更に深くした。 ヨブは、神ともっと深いところで交わ
り、神の御心を知る者に変えられた。 エリヤの時と同様、ヨブの回復のきっかけは、やはり、
「主からの語りかけ」、「主のことば」であった。 エリヤ同様、やはり「神経の病」、「心の病」の
状態を体験したのであって、体験し続けたわけではなかった。 
 
主は、三人の友がヨブに犯した罪をとりなすように命じられた。 ヨブは主のことば通り、友人
たちのために祈った。 ヨブのとりなしの祈りを、主が責任を持たれ、聞いてくださって、友人た
ち三人は許された。 そして、ヨブはいやされた。 一瞬にして、すべての子どもたちを失い、全
財産を失い、自分の身も悶絶するほど苦しみ、友から責められて、半端でないストレスと心の
奥についた深い深い傷によって、「神経の病」、「心の病」の状態を体験した後のヨブの「とりな
しの祈り」には、確かな神の保障がある。 
 
ヨブは、所有物をすべて二倍に増された。 親戚や旧友たちが戻って来て、またつきあいが再
会され、子どもも最初と同様十人与えられるなど、祝福が回復された。 そして、長寿を全うし
た。 ただ、ヨブにとって最大の幸福は、「神を見た」ということである。 そのためには、「神経
の病」、「心の病」の状態を体験するという凄まじい「このようなところを通らなければならなかっ
た」のであろう。 艱難による忍耐が生み出されることが必要だったのである。(ローマ5:3) 
 
神はただご自身の栄光のため、考え無しにサタンの賭けのことばに乗るということはありえな
い。 常に、神ご自身の中には、人のすべての考えにまさる神の御考えがある。 神は、すべ
てを支配されているからである。 神は、ヨブのゆえに殺された子どもたちひとりひとりをも、ヨ
ブに関わる人たちをも神のあわれみのご計画の中に入れてくださっていたものと考えられる。 
それは、ヨブが神に対して畏敬の念をもって、心から従おうとしていたからであり、何よりも神
に対して「純粋」「素直」であったからであり、幸いな神のご計画の中に入っていたからである。
 
神は、人に、「主なる神に対してどうなのか」、「主イエス・キリストに対してどうなのか」を問われ
る。 純粋素直従順な応答を望まれている。 ヨブのように「無垢で正しい者」になりたいも
のである。 そして、自分の人生に神が直接的に介入してくださり、「幸いな神のご計画」の中
に入れていただきたいものである。 そのためにも我々は日々絶えず、主イエス・キリストから
目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、キリストとの交わり深くしていきたいものである。 
そして心の奥底にある主の喜ばれないものを教えていただき、主の前に正直、素直になって、
変えていただきたいものである。 
 
★旧約聖書 歴代誌 第一 29:17
   私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。 私
   は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。 今、ここにいるあなたの民
   が、みずから進んであなたにささげるのを、私は喜びのうちに見ました。



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