めんどり通信/2014年8月24日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <ストレスからくる神経の病、心の病の者でも主によって回復される時が来る:エリヤから見る> |
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★新約聖書(新共同訳) マタイによる福音書 18:3
はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ること
はできない。
★旧約聖書 イザヤ書 51:4
わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわ
たしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする。
●聖書を今まで通読した中で、ふと疑問に思ったことがある。 エリヤとヨブが、「私のいのちを
取ってください。(T列王記19:4)」とか「私は自分のいのちをいとう。(ヨブ記10:1)」などと、な
ぜ大きな神の顕現のために用いられた後、毅然と堅い信仰に立った後に、自分の命を捨てる
ようなことを言ったのだろうかと。 キリスト教会の歴史の中で多くの「殉教者」たちは、「いの
ち」を取られることさえ厭(いと)わなかったのだが、と考えたりしていた。 もちろん、エリヤとヨ
ブが置かれた状況が、あまりにも過酷、かつ悲惨であったから、自分にはとうてい、わかり得
ないことなのかもしれないと漠然と思っていたところがあった。 しかし、今日、多くの人たちが
「ストレス」で悩み、「ストレス」からくる病で苦しんでいることを聞くとき、その「ストレス」による影
響は、主イエス・キリストを信じる者であっても、あり得ることではないかと思うようになった。
その「ストレス」のせいで、すなわち「ストレス」があまりにもきつく、落ち込んで悲観的な思いば
かりが湧き出て「信仰」を働かせることができない状態になる場合もあり得るのではないかと思
うようになった。 エリヤとヨブは、そのような体験を通ったのではないだろうか。
今回はエリヤの場合を見てみる。 名まえは「主こそ神である」という意味がある。 エリヤはイ
スラエルの王アハブの治世下に生きた。 アハブ王の妻イゼベルは、異教の神バアルを崇拝し
ていたので、エリヤは彼女から身を隠して暮らしていた。 あるとき、主の命令でシドンのツァレ
ファテに行き、その地の一人のやもめに養われた。 そこで、2つの奇跡があった。 「かめの
粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった(T列王記17:16)」ことと、病気で死んだやもめの女
主人の息子を生き返らせたことである。(T列王記17:8-17:24) その後、数年経って、バア
ルの預言者四百五十人とエリヤ一人によって、どちらの神が真実な神であるか、という対決を
した。 全焼のいけにえに、火をもって答える神、その方が神である、とした。
まず、バアルの預言者たちが、朝から真昼までバアルの名を呼びながら、踊り回り、剣や槍で
血を流すまで自分たちの身を傷つけた。 しかし、何の応答もなかった。 次に、エリヤは、全
焼のいけにえとたきぎの上に水を注ぎ、祈ると、エリヤの祈りに対して主は、空から火を降し、
いけにえを焼き尽くすことによって応えられた。(T列王記18章) エリヤは、このことを民に見
せて、どちらの神に仕えるかと迷っていた民に、イスラエルの神、主こそが真の神であることを
認めさせた。 「バアルの預言者たちを捕えよ。ひとりものがすな。」とエリヤが命じると、イスラ
エルの民はバアルの預言者をすべて、キション川の辺で殺した。
そのあと、これら一連のすべてをアハブから聞いたイゼベルは使者をエリヤのところに遣わし
た。 その使者の言葉により、イゼベルの報復を恐れてユダのベエル・シェバに逃げた。(T列
王記19:2) そして、そこで「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。」と死を願って
いる。 そのときのエリヤは、精根疲れ果て、絶望で憔悴して、「信仰」を働かすことなどできな
かったと思われる。 エリヤに大群が襲ってきたわけではなかった。 たった一人の無名の使
者による脅かしであった。 しかし、フェニキアの王家出身であり、イスラエルの王妃であり、恐
ろしいほどの執念と度胸のあるイゼベルの存在を背後に感じて、自分が置かれている状況に
エリヤの心は憔悴しきって、心を正常に保つことなどできなかったようである。 あれほどの神
の顕現があり、明確な神の存在を証明する啓示があった上、雨を降らせ、地に豊作をもたら
すのが、主であるという明らかな証明がなされたにもかかわらず、そのイゼベルはなんらびくと
もせず、むしろ毅然とした態度でエリヤの命を狙っているという現実を見て、エリヤは愕然と
し、深い絶望感に圧倒された。 このように、「信仰」を働かすことが到底できない場合があり
得る。
大きな奇跡を体験し、主の大きなみわざの現われに用いられ、主のことばに従ってきたエリヤ
だったが、体の命を狙われたということがきっかけで、生きる意欲が失われて、自分ではコント
ロールできない、「信仰」すら働かせることができない状態に「心」が陥っていた可能性がある。
今日でいう、何らかの精神的なショック、心配ごと、悩み、ストレスなどからくる病、例えば神経
症、自律神経失調症、パニック障害、過換気症候群、解離性障害、強迫神経症、・・・・など、さ
まざまな種類があるが、そういう「神経の病」「心の病」を体験していたように思われる。 だか
ら、相当な苦しみ、「死」をも望むほどの苦しみだったのであろう。 エリヤは、「神経の病」「心
の病」の症状がなければ、当然、「私のいのちを取ってください。」などという言葉は言わず、毅
然と主によりすがる堅い「信仰」に立てたであろうと思われる。 だから、この場合、単に「信
仰」の問題だと判断すべきではないように思われる。
バアル預言者との対決は、信仰生涯における大きな出来事であった。 相当のストレスがあっ
たと推測できる。 エリヤの生涯はバアル信仰との戦いだったが、戦い、対決には大きなストレ
スがつきものであろう。 長い戦いの中で、「ストレス」が知らず知らずに蓄積されていったので
はないかと思われる。 それが戦いのクライマックスともいえる対決が終わって、命まで狙われ
ているとなると、その心の圧迫は想像を絶するものがある。 ユダのベエル・シェバに来たと
き、若い者をそこに残し、自分は荒野へ向かったのは、大きな虚無感に襲われ、一人になりた
かったからであろう。 しかし、ダビデのように長い戦いの中でも「ストレス」が蓄積されていった
とは思われず、エレミヤのような体験をしていない者の方が多いと思われる。
ただ、エリヤは体験したのであって、体験し続けたわけではない。 聖書を見るなら、エリヤは
明らかに回復している。 主の方がエレミヤをあわれんでくださったのである。 だから完治し
て、「主のみこころ」を優先できるようになっている。 今日、休養と栄養を取ることは、体や心
を元気にするために必要なことであると言われているが、主もそのことを勧めておられるよう
だ。 主は、荒野の中で憔悴しきっているエリヤに焼け石で焼いたパン菓子一つを食べさせ、
水を飲ませられた。 エリヤは寝て、また主の使いに起こされ、食べ、飲みを何度かしている。
回復に向かって主が導いておられる。 回復の大きなきっかけとなったのは、やはり、「主から
の語りかけ」、「主のことば」である。 主はそれまでの劇的な奇跡やみわざによってエリヤに
働きかけることより、「かすかな細い声」にエリヤが聞き従うことを望まれているようである。(T
列王記19:14) それは、今日の我々に対しても同じであろう。
エリヤは、今日でいう「心の病」「神経からくる病」を体験した後、主のかすかな細い声を聞い
た。 聞くとすぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。(T列王記19:13,14)
自分の次の務めを確信したのであろう。 「主のことば」は、必ず、その人を立たせることがで
きる。 必ず、その人の与えられている新たな務めを確信させることができる。
さて、あの奇跡的ともいえる神の顕現の後に、イザベルに命を狙われていると恐怖を抱き、命
を取ってくれるよう神に祈る心境は、一般的に言う正常な心持ちではない。 しかし、神に訴え
ているところは、まるで幼子のようである。 痛い時には痛い。 悲しい時には悲しい。 欲しい
ときには欲しい。 肉からくる罪的な欲望ではなく、大人のような考えも常識も入らず、言いか
えれば素直に純粋に求めている「幼子のような信仰」である。 もちろん、「信仰」は成長すべき
であるので、この「幼子のような」とは、主なる神に対しての心持ちを見るべきである。 「幼子
のような信仰」とは、一切の人の考え、企み、思いが入らず、そこから解放されるため、その時
点から救われるための「純粋な求め」である。
エリヤのようなここまでの体験を通る通らないにかかわらず、必要なことは、主に対して「純粋
な思い」を持つことができるようになっているかどうかである。 いざという時、もしくは心の圧迫
が最強に達した時に心の奥から出てくる「思い」は、自分でも気づくものである。 普段の生活
の中で、どれほど「主を中心」に、「主を基準」にしているかがあらわれる。 普段の生活の中
で、主が砕こうとしてくださっているときに、自分は痛くても自分にとって嫌であっても自分の思
い、考えを押し通すことができず苦しくても、どれだけ主なる神、イエス・キリストに対して素直
になっているかが問われる。 普段の生活を「主を中心」「主を基準」になるために、どのような
形にしろ、「主の語りかけ」を受ける、「主のことば」を頂くことは重要なことであると思われる。
いずれにしても、我々は日々の生活において、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、「主
の御心」を知るために、「主と主のことば」の御前にへりくだり、聖霊の流れに乗っていきたいも
のである。 聖霊の流れに乗っているなら、主がその人に応じて自我を砕き、肉を切り取って、
正しい(霊の)耳で「主のことば」を聞き、正しく受け取ることが出来るようにしてくださるであろ
う。 また、いろいろなかたちで語られる「主のことば」を素直に受け入れることができるように
なるであろう。 日々、主の御前にへりくだって祈り、キリストとの交わりを深くしていきたいもの
である。
★旧約聖書 箴言20:11
幼子でさえ、何かするとき、その行ないが純粋なのかどうか、正しいのかどうかを明らか
にする。
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