めんどり通信/2014年8月17日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <「へりくだり」についての思考:ダビデとメフィボシェテから> |
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★旧約聖書 サムエル記 第二
7:18-7:22-7::29
ダビデ王は行って主の前に座し、そして言った。「神、主よ。私がいったい何者であり、私
の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。…
それゆえ、神、主よ。あなたは大いなる方です。私たちの耳にはいるすべてについて、あ
なたのような方はほかになく、あなたのほかに神はありません。…
●聖書通読をしていて、いつも読む途中で立ち止まってしまう箇所がある。 メフィボシェテのと
ころである。 メフィボシェテについての見方を、どのように見たらよいのかを考えてしまうから
である。 このメフィボシェテについては、百人中百人が「謙遜」「へりくだり」「真実」だと評価し
ているからだ。
順を追って見てみる。 サムエル記第二4章4節にメフィボシェテの名まえが出てくる。 ペリシ
テ人との戦いでメフィボシェテの祖父であるサウルと父であるヨナタンは戦死した。 その時、5
歳だったメフィボシェテは乳母が抱えて逃げている時、落としてしまい、そのことが原因で両足
とも足なえになったという。 サウル王の死後、サウルの家とダビデの家の間には、長く戦いが
続いた。 サウルの家では、サウルの子イシュ・ボシェテが暗殺され、サウル家の生き残りは、
足なえのメフィボシェテと彼の一族だけになったので、メフィボシェテはエルサレムから離れた
ところに住んだ。 当時の世界では、新しい王は、前の王朝の家族の者たちを全員皆殺しにす
る慣習があったからだ。
そのような中、サウル家に仕えていたツィバが呼び出された。 ダビデは、「サウルの家の者
で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。(9:
1)」とツィバに尋ね、ダビデ王の前に連れて来られたのが、メフィボシェテである。 地にひれ伏
して礼をしたメフィボシェテに、ダビデは、「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのた
めに、あなたに恵みを施したい。 あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。 あな
たはいつも私の食卓で食事をしてよい。」と言った。 その上、ツィバとツィバの15人の息子と
20人のしもべが耕して得た作物もメフィボシェテのものになると言った。 要は、サウルのしも
べだったツィバをメフィボシェテのしもべとしたのである。 当時では異例のことだったが、ダビ
デはメフィボシェテの父ヨナタンと家を守るとの契約を結んでいたからだ。(Tサムエル20:14-
16) ダビデのことばに対してメフィボシェテは、「このしもべが何者だというので、あなたは、こ
の死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。」と答えた。
このメフィボシェテの言葉が、へりくだっていると受け取っている人がほとんどであるが、どうな
のだろうか? ダビデは、なぜ、メフィボシェテを顧みるのかという理由を、「あなたの父ヨナタ
ンのために」と明確に言っている。 しかし、メフィボシェテは、「このしもべが何者だというの
で、…顧みてくれるのか」と言っている。 ダビデのことばと噛み合わないのではないだろうか。
確かに、怯え隠れて生きてきたメフィボシェテは、ダビデを恐れていたであろう。 イスラエルの
統治が、サウル家からダビデ家に移ったので、メフィボシェテは殺されて当然の立場にいたか
らだ。 それなのにダビデが恵みを施してくれるというのである。 メフィボシェテにとっては、信
じがたい話しであっただろう。
「(自分が)何者だというので」という言い方は、ダビデもそのような言い方をしている箇所があ
る。 冒頭のみことばサムエル記第二7章である。 他に、詩篇8:4-8:9、詩篇144:3-144:15。
第一歴代誌17:16-17:27。 これらの箇所はダビデのことばであるが、「私がいったい何者で
あり」とのことばの後には、必ず、主をほめたたえることば、主への感謝のことばが書かれてい
る。 メフィボシェテのように、質問提起のような形で終わっていない。 だから、メフィボシェテ
は、これから殺されるという恐怖からくる「へりくだり」の感が強く、「へりくだり」が中途半端で
あるように思えるのだが。
さて、その後、ダビデは自分の息子のアブシャロムの反乱によってエルサレムを追われること
になった。 ダビデはオリーブ山の坂を泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。
山の頂から少し下ると、メフィボシェテのしもべツィバが、鞍を置いた一くびきのろばに、パン二
百個、干しぶどう百ふさ、夏のくだもの百個、ぶどう酒一袋を載せて、王を迎えに来ていた。
これらの物は、ダビデにとって貴重な物であり必要な物だった。 ダビデがツィバに、メフィボ
シェテについて尋ねると「きょう、イスラエルの家は、私の父の王国を私に返してくれる。(Uサ
ムエル16:3)」と嘘を言い、中傷した。 するとダビデは、ツィバに「メフィボシェテのものはみ
な、今、あなたのものだ。」と言った。 確かに、ダビデは一方の言い分を聞いて判断してしまっ
たと受け取れる。 しかし、メフィボシェテが来なかったことは事実である。 小さい子どもミカが
いたということで、メフィボシェテには、妻やツィバ以外にも、しもべがいた可能性はある。
それから後、アブシャロムの死によって、ダビデはマハナイムからエルサレムに戻ろうとした
が、ヨルダン川で橋のないところ、水かさが低くなっているところを渡る必要があった。 それを
手助けするためにユダの人々がやって来た。 ツィバも、十五人の息子、二十人のしもべを連
れて、王が渡る前にヨルダン川に駆けつけて、王の家族を渡らせるために渡しを渡って行き、
王が喜ぶことをした。(Uサムエル19:17,18)
Uサムエル19:24に「メフィボシェテは、王を迎えに下って来た。」と書かれている。 ダビデが、
エルサレムを追われるときにも、ツィバたち以外にもメフィボシェテを連れて来てくれる他の者
がいた可能性があったということである。 ダビデがエルサレムを追われたときは、ダビデが勝
利するのかアブシャロムが勝利するのか完全には決着のついていないときであり、むしろアブ
シャロムの方に勝利の可能性が強いときだった。 その時に、メフィボシェテはダビデについて
行かなかったという事実。 アブシャロムが死んで完全な勝敗の決着がつき、ダビデがエルサ
レムに帰ってくるときに、メフィボシェテは来たという事実。 一方、動機はどうであれ、ツィバは
両方ともダビデのところに来て、ダビデの必要を満たし、喜ばせたという事実。 ただし、嘘を
ついて「恵み」を横取りしようとした事実。 ダビデは、これらの事実をもって判断したのではな
いだろうか。 そして、それを主なる神が「良し」とされたから、ダビデを責めておられないと思
われる。
また、「彼は、王が出て行った日から無事に帰って来た日まで、自分の足の手入れもせず、爪
も切らず、ひげもそらず、着物も洗っていなかった。」と書かれているが、このことは、どちらが
勝利しても、どちらにでも、ついて行ける方法として実行したとは考えられないだろうか。 メフィ
ボシェテはダビデに「恵み」を与えられるまでの生き方は、ある意味「自分で自分を守る」であっ
た。 自分は「足なえ」であることを強調するのも、その彼の生き方から出ている言葉のように
思える。 「恵み」を頂いた後もメフィボシェテの思い、考えなど、すなわち生き方は変わってい
ないように思われる。 ちなみに聖書で「足なえ」とは、 信仰の歩みのない者、頼りない者、は
っきりしない者をたとえている。
ダビデに「あなたはなぜ、私といっしょに来なかったのか。」と言われて、メフィボシェテの答え
は、「王さま。私の家来が、私を欺いたのです。 このしもべは『私のろばに鞍をつけ、それに
乗って、王といっしょに行こう。』と思ったのです。 しもべは足なえですから。ところが彼は、こ
のしもべのことを、王さまに中傷しました。しかし、王さまは、神の使いのような方です。あなた
のお気に召すようにしてください。 私の父の家の者はみな、王さまから見れば、死刑に当たる
者に過ぎなかったのですが、あなたは、このしもべをあなたの食卓で食事をする者のうちに入
れてくださいました。 ですから、この私に、どうして重ねて王さまに訴える権利がありましょう。
(Uサムエル19:26-28)」
この長々した答えにダビデは、新改訳では「あなたはなぜ、自分の弁解をくり返しているの
か。」、口語訳では「あなたはどうしてなおも自分のことを言うのですか。」、新共同訳では「もう
自分のことを話す必要はない。」と書かれている。 ツィバがメフィボシェテを「中傷した」から一
緒に行けなかった、という理由もおかしいのではないだろうか。 本当にへりくだっているなら、
ダビデについて行くことによって、「中傷」は嘘だとダビデにわかるはずである。 ダビデに会っ
て弁明すればよいことである。 「ヨナタンのために」というダビデのことばを受け入れていな
かったから、ダビデと自分という関係で見ていたものと推測できる。 ダビデとヨナタンゆえの
自分という関係が正しい。 それからダビデは、地所をメフィボシェテとツィバで分けるように
言った。 このことについてもダビデが、一方的な情報だけ鵜呑みにした結果、仕方のない
判断だったと言う人も多い。 しかし、神は、この一連のことでダビデの判断を責めておられな
いことを見るべきであろう。 また、ダビデが「地所を二人で分けよ。」と命じた後で、メフィボ
シェテは、「王さまが無事に王宮に帰られて後なら、彼が全部でも取ってよいのです。」と言って
いるが、本当に、謙遜の言葉と言えるだろうか・・・? 「地所を二人で分けよ。」のことばにアー
メンではないだろうか。
本当の「へりくだり」とは、言われた「ことば」を、自分の考え、思い込み、願い、感情を混入させ
ず、「そのまま受け取る」、「ことば通り受け入れる」ということである。 言った者の真意を悟っ
たなら、自分の解釈は入る余地がないはずである。 たとえ善意であると思っても、もったいな
いことばだと思っても、言われた「ことば」に、自分の考え、思い込み、願いを混入させるという
ことは、自分の意思や感情を優先することである。 言った者の真意を悟っていない。 それは
決して「へりくだり」とは言えない。 メフィボシェテは、「殺されるかもしれない」という恐怖から、
地にひれ伏し、そのところから出る自分を守るための「へりくだり」であったように思われる。
だから「足なえ」を強調したのであろう。 しかしそれは、決して、主なる神が求めておられる
「へりくだり」ではない。
さて、それから後、3年間、イスラエルに飢饉があった。 その原因が、サウルとその一族がギ
ブオン人たちを殺したからだ、とわかった。 それで、サウルの子どもたちがギブオン人に引き
渡され殺されることになった。 その時、ダビデは、ヨナタンとの契約のゆえにメフィボシェテを
守った。(Uサムエル21章) そして、ヨナタンの系図は続いていった。 その系図が、T歴代
誌8章34節-40節に書かれている。 そこにメフィボシェテの名まえが別名のメリブ・バアルと書
かれている。 この名まえの意味は、バアル(異教の神)に愛される者、バアルの勇者である。
いずれにしても、我々は、主が望まれ喜ばれる「へりくだり」を追及すべきである。
★旧約聖書 イザヤ書 57:15
いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せら
れる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりく
だった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。
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