めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年8月10日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<エリコの城壁が崩れたことから学べること>


★新約聖書 へブル人への手紙 10:36
   あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐
   です。
 
★旧約聖書 イザヤ書 48:10
 見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。
 
ヨシュア記にエリコの城壁が崩された出来事がある。 ここでは、信仰をもってじっと黙って
耐えながら、「主のことば」に従いつつ、神がみわざ現されるのを待つということなど他多々、
学ぶことができる。 ヨシュア記6章。 ヨルダン川を渡ったイスラエルの民は、最初に占領しな
ければならない地は、エリコという難攻不落の町だった。 戦い方は、主の指示によった。 難
攻不落のエリコだったが、「エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出
入りする者がなかった。」と記されている。(ヨシュア6:1) それは、主がそれまでにイスラエル
に成された大いなる奇跡の話しやイスラエルの敵にしたことをエリコの人々が知るようにされて
いたので、エリコはすでに戦う気力が失せていたからだ。(ヨシュア2:9〜11) ふたりの斥候が
エリコに偵察に入ったとき、主は前もってそのことを彼らに教えられた。 イスラエルには戦う
前から勝利が約束されていたのだ。 ただ、あとは彼らが、主の指示に従って、実際行うべき
ことを行うだけであった。
 
さて、イスラエル人は、主の指示通りに、1日に1周エリコの町を回ることを6日間続けた。 7日
目だけは7周回る。 回るときは、武装した者たちが先頭に立ち、角笛を持った祭司が七人、
契約の箱をかつぐ祭司、その後ろには、その他のイスラエル人たち。 しんがりに武装した者
たちがついた。 そして、7日目に7周回ったとき、ヨシュアの合図によって、祭司たちが角笛を
長く吹き鳴らすと、彼らはときの声をあげた。 すると城壁がくずれ落ち、彼らは町を攻め取っ
た。 イスラエルの民が主から言われていたことは、ヨシュアが合図するまでは、決して「叫ん
ではいけない。声を聞かせてはいけない。口からことばを出してはいけない。」ということだっ
た。 無言で回る行列に対して、エリコの町の人々の恐怖は計り知れないものがあったと思わ
れる。 無言で規則正しく回るその姿に、不気味さを感じたかもしれない。 ちなみに主の指
示」、「主のことば」通りに「回る」とは、今日、主から与えられた「主のことば」を握って「祈る」
いうようにも受け取れる。
 
また、エリコを1周するには、およそ1、2時間と言われているが、無言でただ回るだけのこと
が、イスラエル人の中には、案外、長く感じた者もいたかもしれない。 一般的に「待つ」ことに
おいて、何かをしながら待つ方が時間を短く感じたり、気が紛れたりするものである。 同様
に、「主のことば」を与えられた者が、「主のことば」が、現実にその通りになるまで「待つ」こと
において、何かをしながら待つ方がある意味、楽である。 クリスチャンであるなら、何かしら
「主の働き」と言われることをしながら待つ方が、待ちやすい。 待っている間に「苦しみ」
あったとしても、「主の働き」をしていることで緩和できるからだ。 また、よほどの悪い出来事
でなければ、いろいろな出来事が起きたりした中で対処しながら待つ方が気の紛れることもあ
る。 そして、時間の経過が早く感じられる。 
 
1日に1周エリコの町の周りを回ってもエリコの軍隊が攻めてくるわけでもなく、イスラエル人の
ことで震えおののいていたエリコの人々だから、城壁の上から罵声を浴びさせるわけでもなく、
そうかといって回った結果がすぐに見えるわけでもなかった。 聞こえるのは、回る足音と祭司
たちが吹き鳴らす角笛の音。 3日目になっても5日目になっても表面上は何の変りもなかっ
た。 表面上は、6日間同じ繰り返しで、主が何も動かれていないのか、みわざを現わされるた
めの働きを主は何もなさっておられないのかと感じる者もいたかもしれない。 同様に、「主の
ことば」を信頼して祈っても、何の変化もなく、状況は変わらず、むしろ表面上は悪くなるので、
主が働かれておられないのではないかと思う時がある。 しかし、主は手をこまねいて見ておら
れるわけではない。 「神のご計画」があり「神の時」があるのだ。 そして、その「神のご計
画」、「神の時こそ、最善である。 
 
そして7日目。 7日目は、今までの行動を総括したように、彼らは同じしかたで町を七度回っ
た。 そして、堅固な城壁が崩れ落ちるという見事な「神のみわざ」を見た。 体験した。 戦う
気力を失くしているエリコの人々に「神のみわざ」を見せつけ、ますます戦う気力が失せたエリ
コだったから勝利することができたと思われる。 すべては「神のご計画」、「神の采配」であっ
た。 主はイスラエル人が実際、エリコの町の周りを回る前に「エリコをヨシュアの手に渡した
(ヨシュア6:2)」と宣言されたが、主が「ご自身のことば」を語られたとき、それは、預言的な完了
を示すことが多い。 それは、主が語られた「ことば」は、必ず、実際となるからである。 だか
ら、その「ことば」にどれほど信頼して返るかが問われることになる。 ちなみに、この箇所では
7日目、7人の祭司たち、7つの角笛、7度回る、と「7」という数字が目立つ。 「7」聖書の中で
「完全数」を示している。 7日目に7度回ることは、1度、3度、5度と進むごとに「神の完全」すな
わち、「神のみわざ」の現れが近づいているということである。 また祈りの時間が多くなるとい
うより、祈りが深くなるということかもしれない。 
 
ところで、何もせずに、何もできずに、ただ「待つ」というのは、案外、「苦しみ」が強く押し寄せ
ることがある。 「祈り」をしながら「待つ」ことでも、忍耐がいる。 それなのに、時には、祈りさ
え取られて「苦しむ」場合もある。 また、「苦しみ」の種類、度合いによっては、「信仰」を働か
せる働かせないというように「信仰」を適応できない場合がある。 ただ、ただ「苦しみ」が襲っ
て来ても、ただただ「苦しみ」に耐えなければならないというような場合もある。 しかし、そのよ
うなところを通っていると、それまで見えていなかった心の奥底、霊の奥にある主なる神に対す
「思い」「想い」に気づく。 「自分は、本当に主を愛していたんだ」と思い知ることができる。 
そして、その「愛」は、自ら持っていたものではなく、この「苦しみ」を通ったからこそ、主が与え
てくださったものであることを痛感できる。 主は、キリストによる「苦しみ」主から与えられた
「ことば」のゆえの「苦しみ」は、何一つ無駄にはなさらない。
 
このように見てみると、今日、我々には「神のことば」である「聖書」を与えられてはいるが、個
人的に、主から「ことば」をいただいて、素直に「ことば」に返り、「ことば」に従うなら、「神のみ
わざ」を見ることができるということである。 そして、「ことば」がその通りになるのを実際、見る
までの間、ひとりひとりに応じて主が許された「苦しみ」を通ることがあるということである。 そ
して、その「苦しみ」の度合いに応じてではあるが、主が「神を愛する愛」を与えてくださっている
ことを知ることができるということである。 また、そこまで行く着くためには、回ることを6日で終
わってはならないということ。 7日目、7回回らなくてはならないということ。 すなわち、「祈るこ
と」、「従順」、「忍耐」は7日目7回まで続けるということが重要だということだ。 
 
1日、1周、1度は、どのくらいの期間をあらわすかは、人によって様々であるが、あきらめずに
失望せずに「祈ること」、「忍耐すること」、「従順であること」をやめないためにも、主によりすが
ることが大切である。 そうしているなら聖霊「神のみわざ」を見ることができるようにと導い
てくださる。 ただ、我々が、「神のみわざ」を、どのように見るか、どのように受け取るかという
見方、受け取り方は大切である。 いずれにしても「神のみわざ」を見ること、体験することは、
「信仰」、「霊」が成長するため、人が霊の深みに入っていくためには、大いに必要なことであ
る。 日々、神の御前にへりくだり、主から「ことば」を与えられるように求めていき、聖霊の導
きに従って、まっすぐな道を進んでいきたいものである。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 10:11
   聖書はこう言っています。「彼(イエス・キリスト)に信頼する者は、失望させられることがな
   い。」



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