めんどり通信/2014年7月27日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <ダビデが敵の地ペリシテに逃げ込んだことについて:第一サムエル記21章-31章> |
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★旧約聖書 詩編 56:10,11
神にあって、私はみことばをほめたたえます。主にあって、私はみことばをほめたたえま
す。 私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。
★旧約聖書 申命記 32:39
わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。
●ダビデの生涯は訓練試練の連続だったが、それらを経験すればするほど、ダビデの神に対
する愛や神への信頼は深まっていった。 ダビデはサウルから執拗に命を狙われ逃亡生活を
余儀なくされたが、その間、二度イスラエルの敵の地であるペリシテに行った。
一度目は、祭司アヒメレクのところへ行き、食料と武器を得た後のこと。 ペリシテのガテの王
アキシュのところへ行った。 ところが、アキシュの家来たちは、「サウルは千を打ち、ダビデは
万を打った」と人々が歌っているダビデだと気づいた。 ダビデはそのことのゆえにアキシュを
恐れたと書かれている。(Tサムエル21章) ダビデによって多くのペリシテ人が殺されたので
ある。 だから、ダビデは捕まれば自分は殺されると思ったのかもしれない。 サウルに命を狙
われ続け、今度はペリシテ人から今まさに命を取られるかもしれないと思ったダビデのストレス
は半端ではないことが推測できる。 咄嗟にダビデは気違いを装った。
多くの人は、イスラエルにとどまらず敵地ペリシテに逃げ込んだことがダビデの間違いだとい
う。 また、主なる神に頼らなかったから、気違いを装わなければならなかったという。 それだ
け信仰が低下していたという。 果たしてそうなのだろうか。ダビデに関するところを読めば、ダ
ビデはいつも主に祈っており、主なる神との交わりをきちんと持つことができていたと思われ
る。 確かに、その割には後にイスラエルの王として堅く立った時、ダビデは大きな罪を犯す。
(Uサムエル11章) それでも、「神を愛し神に愛される」ことが、しっかりとダビデの基本に据え
られていた。 詩篇34篇56篇を見ると、この時のダビデの主なる神への愛、信頼がよくわか
る。 ペリシテ人に捕らえられた窮地の最中に読んだものか、その窮地から救い出された後に
なって読んだものか、いずれにしても、窮地に立たされたその場にある心境で読んだものと思
われる。
ダビデが気違いを装ったことは、ダビデの心に深い傷がついたのではないだろうか。 それま
での戦いによって勝利してきた華やかな勲章は、ズタズタにされ、惨めで貧しい者であることを
嫌というほど思い知ったのではないだろうか。 神に対しても申し訳けないという思いもあった
であろう。 いずれにしても、この経験による、その傷は確実にダビデを砕いたと思われる。
傷も、ついてはならない傷すなわち、主に従って行くにおいて妨げとなり得るので、必ずいやさ
れなければならない傷があり、また、いやしに関係なく、むしろ傷つく必要のある傷がある。
箴言20:30に「愛する者が傷つけるのは、まことからであり…」と書かれている。 ダビデが気
違いを装った経験は、その後のダビデにとって神が「必要」と見なされたのではないだろうか。
結局、ダビデは捕らえられたが、アキシュに気違いの男は必要ないとばかりに追い出された。
二度目は、Tサムエル記27章に記されている。 21章で気違いを装ってから二度目にペリシテ
の地に入るまでの間には、いろいろなことがあった。 アキシュのところを去ってアドラムの洞
穴に避難したり、祭司アヒメレクたちが殺されたことを聞いたり、主に伺って、主の命令により
ケイラの町を救ったりした。 また主に伺ってサウルから逃れるために、ケイラを出て、荒野や
要害に宿ったり、あちこちをさまよったりした。 ジフの荒野にいたとき、ジフの人たちの密告に
より、サウルに捕らえられそうになったが、ペリシテ人がイスラエルの国に突入して来たこと
で、サウルはダビデを追うのをやめて帰り助かった。(22章23章)
ペリシテ人討伐から帰って来たサウルは、三千人の精鋭をえり抜き、ダビデを追った。 エエリ
ムの岩の東にあったほら穴に、用をたすためにその中に入った。 ちょうど穴の奥の方にはダ
ビデと部下がいた。 用をたすとは、原語では足をおおうということなので、サウルは休息のた
め寝ていたようだ。 ダビデの部下の「今こそ、主が与えて下さったサウルを打つ時です。」と
の言葉に動かされたのか、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。 しかし、そのことで
心を痛めた。 ダビデはサウルを殺さなかったことを言うと、サウルは、声をあげて泣き、悔い
改めたような言葉を言った。(24章)
別の時、ジフ人がまた、サウルにダビデの居所を密告したので、サウルは、エシモンの東にあ
るハキラの丘で、道のかたわらに陣を敷いた。 ダビデと部下は、夜、幕営の中で寝ていたサ
ウルとその将軍ネルの子アブネルの枕もとにあった槍と水差しとを取って行った。 主が彼ら
を深い眠りに陥れられたので、みな眠りこけていた。 部下は、今こそ神が与えてくださった時
ですから、とサウルを殺そうとしたが、今度もダビデは止めた。 そして、そのことをサウルに
話すと、「私は罪を犯した。わが子ダビデ。帰って来なさい。私はもう、おまえに害を加えな
い。」とまたもや悔い改めたかのように言った。 そして、「ダビデは自分の旅を続け、サウルは
自分の家へ帰って行った。」と記されている。
これらのいろいろな出来事があった後、ダビデが思ったことは、「私はいつか、いまに、サウル
の手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。…(Tサム
エル27:1)」である。 それでダビデは六百人を連れて、ガテの王アキシュのところへ渡って
行った。 アキシュのところに集団での亡命をアキシュが受け入れてくれるかどうか、これはダ
ビデにとって大きなかけであった。 イスラエルとペリシテは仇敵だったからである。 だからア
キシュがダビデたちを迎え入れてくれるなら、サウルは追跡を断念すると思っていたようであ
る。 アキシュはダビデたちを迎え入れたが、アキシュの方にも、ダビデが亡命することは、イ
スラエルに対する実権を掌中に収めることができると計算していたのかもしれない。 ダビデ
はイスラエルの新しい王となる力を持った人物とみなしていたと思われる。 だから、ダビデと
その部下たちと、それぞれの家族という大集団をアキシュのもとに住みつくことを許したのでは
ないだろうか。 ダビデがガテへ逃げたことがサウルに知らされると案の定、サウルは二度と
ダビデを追うとしなかった。
ダビデは、ガテの中でもアキシュが住んでいる都ではなく、都から離れたツィケラグを与えられ
住まわせてもらった。 ツィケラグはユダ族の土地だったが当時はペリシテ人が攻略していた
ようだ。 ダビデが1年4か月、ペリシテの地で行ったことは、イスラエルの敵である人々を襲
い、男も女も生かしておかず、すべてのものを奪って、いつもアキシュのもとに戻ったことであ
る。 アキシュに「今日はどこを襲ったか」と尋ねられると、ダビデはいつも、ユダのネゲブと
か、エラフメエル人のネゲブとか、ケニ人のネゲブとか答えていた。(27:10) あたかもイスラ
エルと戦っているかのように見せかけていたということだ。 ダビデは人間的と思われる攻略方
法でアキシュの信用を得ていった。 アキシュのもとでのダビデの行動は、倫理的には問題が
あるように見受けられるが、それでもダビデの王国が立っていったことを見れば、ダビデの王
権を確かなものにすることが神のご計画であったと思われる。 ペリシテ人がイスラエルと戦う
ために軍を集結させる一大事にもダビデの言動はびくびくする様子が見られない。 ペリシテ
側につくのかイスラエル側につくのか明確になるという非常事態でも、堂々としている。 それ
は、ダビデが芝居がうまいというのではなく、主なる神に自分自身を委ね神を信頼したからで
ある。(28章、29章)
これらのところをダビデの心情が表されている詩篇から見ると、ダビデがペリシテの地へ行っ
たことは間違いであったとは言えないのではないだろうか。 人から見て
しなくていい経験で
も、神があえて
させようとする経験がある。 神が見られて通るべきでない経験を通ったので
あれば、それは失敗と言えよう。 しかし、本来、通らせたくはないが、あえて通ることを神が
「良し」とされる経験がある。 神が、人を砕き整え変えるために、その経験を通ることを「良し」
とされるのだ。 その道を通ること、その経験を通ることは、神が立てられたご計画の中にあ
ることで「失敗」ではない。
ダビデは、客観的に見れば、人間的な攻略、思い、考えで行動していたように見えるが、そうで
はなく、身動きできないほどの聖霊の強い流れに乗っていたのではないだろうか。 そういうこ
とがある。 クリスチャンとして、こうすべきではない、ああすべきだ、と自分で思っていても、現
実、あまりにも聖霊の流れが強く、神に押し出されるように行動している場合がある。 そうで
あるなら、ダビデが1年4か月、ペリシテの地で行ってきたことは、「神のみこころ」だったのかと
言われれば、はっきり「そうだった」とも言いづらい。 我々クリスチャンは何でもかんでも、これ
これはこういう理由だから「神のみこころ」、しかしこれこれは、このような原因、動機、理由が
あるから「神のみこころ」ではない、と白黒はっきりさせようとしたがる。
もちろん、それは大事なことであり、重要なことである。 しかし、ダビデのように、明確に、これ
は「神のみこころ」、これは「神のみこころではない」、とその時には言い切れない場合もある。
後になれば、はっきりするということも多いが、そのような中で、今、その時に我々が見ていか
なければならないこと、受け取らなければならないことがある。 それはダビデの場合、簡潔
にいうなら、いきさつがどうであれ、ダビデに対して変わらない神のご計画があったこと、どうし
てかわからないが、神がダビデに与えておられた神への愛、神への信頼の心があったという
ことである。 「人はうわべを見るが、主は心を見る(Tサムエル16:7)」という主のことばから、
やはり「人の心の奥底にある思い、本心、本音」が重要であると思われる。 我々も主が我々
の心の奥底を見られて、神の方から「良き思い」を与えてくださるような者に変えられたいもの
である。
イエス・キリストを信じて救われた者は、「神の作品」である。(エペソ2:10) また、神が陶器師
であり、我々は陶器であるとも書かれている。(ローマ9:21) 救われて、主によりすがる者を、
主の望まれるままに、主が喜ばれる対象として、形造られ整えられていく。 我々が、すべきこ
とは、、自分自身のこと自分に関することを、主の御手の中に委ね切り、自分に望まれている
ことが何であるのかを主に尋ねつつ、聖霊の流れに乗っていくことである。 今日、我々は、
「良き思い」や「良き願い」、主なる神に対する「熱き心」が足りなかったとしても真剣に求めるな
らば与えられる恵みの時代にまだいる。 ただ、求めているのに与えられない者は、受け取る
者の心に、その神からのものを弾き飛ばすようなものがある可能性が強い。 とにかく、主イエ
ス・キリストに対してダビデのように素直でありたいものである。
★旧約聖書(口語訳) 箴言 20:30
愛する者が傷つけるのは、まことからであり、あだの口づけするのは偽りからである。
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