めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年6月29日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<ルツ記:ルツとオルパから思考>


★旧約聖書 ルツ記 1:16
   ルツは言った。「あなたを捨て、あなたlから別れて帰るように、私にしむけないでください。
   あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私
   の民、あなたの神は私の神です。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:13,14
   人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていませ
   ん。 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの
   友です。
 
旧約聖書ルツ記に登場する二人の嫁、ルツとオルパから思考してみる。 まず、ルツ記
のあらすじを簡単に書いてみる。 イスラエルのベツレヘムに住んでいたエリメレクという人
が、妻のナオミと二人の息子を連れて飢饉の難を逃れて隣国モアブに移住し滞在した。 しか
し、エリメレクが死んでしまった。 その後、二人の息子はモアブの女を妻に迎えた。 ひとりの
名はオルパで、もうひとりの名はルツ。 約十年後、二人の息子も子どもを授かる前に死ん
だ。 その頃、主がご自分の民を顧みてくださったので、故郷ベツレヘムの飢饉が終って暮ら
しやすくなったことを聞き、ナオミは、未亡人になった二人の嫁たちとともにユダの地へ戻るた
め帰途についた。 その途中、ナオミは、嫁たちの今後のことを考えたのか、「自分の母の家」
へ帰るように勧めた。 彼女たちは声をあげて泣き、ナオミと一緒にベツレヘムへ帰ると言っ
た。 ついに姑ナオミの説得を受け入れた弟の嫁オルパはしゅうとめに別れの口づけをして、
「自分の母の家」、モアブへ帰って行った。 
 
しかし、ルツはなんとしても同行を願い、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」
と告白し、涙を流して哀願した。 ナオミは、ルツの堅い決心を見て、それ以上、何も言わず一
緒にベツレヘムにやって来た。 ルツはナオミとの生活のために、落ち穂拾いをして働き、ナ
オミの夫エリメレクの遠縁に当たるボアズと知り合った。 ナオミの後押しを受け、ボアズに求
婚したルツ。 それに応えてボアズは、必要な手続きを整えてルツと結婚した。 そして、主は
彼女をみごもらせたので、男の子(オベデ)を生んだ。 オベデはダビデの父エッサイの父。 
すなわち、ナオミの孫の三代目は、ダビデであり、それから一千年余を経て、その家系からイ
エス・キリストが誕生した。
 
さて、聖書の登場人物や地名など名まえには意味がある。 ルツは、良い友、友情。  オルパ
は、首の後ろ、うなじ、小鹿、未熟な、若々しい。 ナオミは、喜び、快い。 ボアズは、力ある
である。 二人の息子の名は、マフロン(病める者の意味)とキルヨン(消えうせる者の意
味)。 まるでその人生を象徴しているかのようだ。 また、モアブは、アブラハムの甥のロトの
子孫であり、アブラハムの子孫であるイスラエルとは血縁関係ということになるが、後にイスラ
エルに対して敵対するようになった。(民数記22章〜24章) モアブは異教の神々を礼拝する
偶像礼拝の国。 ルツもオルパもその異教の地で生まれ育った異邦人である。 
 
さて、ユダの地に帰る途中、オルパはモアブに帰り、ルツは、ナオミと一緒にベツレヘムに帰っ
たことから思考してみる。 ルツもオルパも、それぞれ夫が死に、子どももいないのに姑ナオミ
について行こうとしたのは何故だろうか。 今日、同じような立場、状況になるなら、嫁は迷いな
く姑と分かれる人が多いのではないだろうか。 しかし、ふたりの嫁は、泣いて姑のナオミにつ
いて行こうとした。 おそらく、ナオミは姑として人間的、人格的に良い人であったのだろう。 だ
から、ふたりの嫁は、ナオミについて行こうとしたと思われる。 しかし、実際、モアブ人の嫁が
イスラエルの地に住み、生計を立てていくのは困難である(申命23:3) オルパは、自分がつ
いて行くことは、ナオミにとって重荷になることを思ったのか、モアブへ帰って行った。 
 
ところが、ルツは、イスラエルの地に住むことが困難であっても、「あなたの民は私の民、あな
たの神は私の神です。」と自分と自分の故郷の宗教、風習などすべてを捨ててナオミについて
行った。 ルツは、ナオミの人間性、人格以上に、イスラエルの神全能の神を信仰することを
選んだ。 異邦の地モアブでルツもオルパも姑ナオミたちからイスラエルの神について話しを
聞いていただろうし、彼らは皆イスラエルの神に従っていたと思われる。 ルツが、どれほど、
イスラエルの神のことを悟っていたかは、わからないが、ルツにとって、姑のナオミから離れる
ことは、イスラエルの神との関わりから離れることを意味していた。 だから、しゅうとめと離れ
ることをしなかった。 ルツとオルパはそれぞれ自分たちが行くべき道を選択した。 
 
一方は、人間性、人格、人情に惹かれ、一方は、イスラエルの神、真の神に惹かれた。 仕方
のない事情があり、この世的に見て正常な選択であったとしても、それが神から見られて「良
し」とは言えないことがある。 この世的には、自分の考えを押し通して譲らないと思われ、一
緒に行くことはナオミの心が痛い、苦しむと言っているのだから、相手のことを考えてやめるべ
きだというのが正当でまともな意見だとしても、それが神に喜ばれるものではないことがある。 
やはり、神の見方人の見方は違う。 だから、何かを選択したり思考するとき、世的な基準を
持ち込まないようにしなければならない。 我々がすべきことは、「主と主のことば」、「主と主の
みこころ」が基準となっていることを確認することである。
 
 オルパの名まえ、強情、小鹿、若々しい、未熟という意味から、その意味の通り、信仰も霊的
にも浅かったこと、すなわち成長していなかったことが推測できる。 姑のナオミに対して、やさ
しい気持ちは間違っていないが、気持ちや感情だけでは、主なる神が与えようとしてくださる
「神の恵み」を受け取ることができない。 神が祝福された大いなる神の計画の中に入ることが
できない。 信仰や霊的なことが成長していないということは、未熟であるということであり、自
我が砕かれていないから、強情であると神から見なされる可能性があるということである。 結
局のところ、我々は自我が砕かれ、肉が切り落とされることはいかに重要であるかということに
なろう。
 
ルツの場合、良い友、友情という名まえの意味の通り、ルツの神に対しての心の姿勢があらわ
れている。 イエスは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれ
も持っていません。(ヨハネ福15:13)」と言われた。 「その友」とは、我々から言うなれば「イエ
ス」のことである。 イエスのために命を惜しまず、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、イ
エスに従って行く。(ルカ9:23) これが、主にすべてをささげているということである。 そのよう
な者を、主は「わたしの友」、「神の友」と呼んでくださる。 イエスは、ご自身の友のために、い
のちを捨ててくださったのである。(ヨハネ福15:14)   
 
ちなみに、オルパは、モアブへ戻ったからと言って滅んだとは言い切れない。 確かにオルパ
「信仰」は、名まえの通り、未熟だった。 モアブは「世」をたとえているが、世の真っ只中で
も、神に喜ばれる者となり得ることができるからだ。 創世記に登場してくるヨセフは、兄たちに
売られた後、エジプトという「世」で、様々な試練にあいながらも彼自身は砕かれて整えられて
いった。 そして、エジプトの宰相になり、オンの祭司(エジプトの偶像・太陽神の祭司)ポテペラ
の娘アセナテを妻として、異教の地で苦難に耐えながらも黙々と主が喜ばれる「信仰」を全うし
た。 そして、長子の権利をヤコブから受け継いだ。
 
また、列王記 第二 5章に登場するアラムの王の将軍で異邦人のナアマンは、らい病をいや
され、イスラエルの神こそが、真の神であることを知った。 今後は、自国に帰ってもイスラエ
ルのまことの神を礼拝すると宣言したものの、主君の介添え役で、王がリモンの神殿に入っ
て、そこで拝む場合、王と一緒にリモンの神殿で身をかがめることになる。 そのことを、許し
てくださるようにとエリシャに二度、繰り返し願った。(U列王記5:18) エリシャの答えは、「安
心して行きなさい」だった。 このエリシャの言葉から、ナアマンは異教の地で、主が「良し」とさ
れる「信仰」を全うできたと推測される。
 
ただ、オルパの場合、ヨセフのように訓練試練により砕かれ変えられたと聖書に書かれておら
ず、ナアマンのように、「安心して行きなさい。」のような確信的な「ことば」もいただいていない。 
イスラエルの神に対する明確な信仰告白も記されておらず、むしろ、「自分の民とその神のとこ
ろへ帰って行きました。」と書かれているのは気になるところではある。 だから、真の神への
「信仰」を全うできたかどうかは定かではない。 しかし、滅びに入ったとも言い切れない。 こ
れは神のみぞ知るということであるが、今日の我々は、自我が砕かれなくても、肉が切り取ら
れなくても何とかなるさ、大丈夫などと、高をくくっていてはならない。
 
オルパも、ナオミと一緒に暮らしていたとき、「イスラエルの神」すなわち、「全知全能の神」、
「真実な神」のことを聞いていたが、その聞き方が未熟だったとも言えよう。 「神のことば」、
「主のことば」を聞いたり、読んだりするとき、我々はイエスが言われたように、「どう聞くべきか
に注意する」べきである。(ルカ8:18) 「神のことば」、「主のことば」を聞いたり、読んだりした
とき、「ことば」を自分の思い込みで軽く納得したり、自分の基準に引き下げて解釈したりしない
ことである。 ルツは、姑ナオミたちからイスラエルの神のこと、伝えられてきた神の契約のこ
と、神の律法のことなどを聞いたとき、ただ聞いただけでなく、「主なる神のみこころ」を、「神の
真意」をナオミに問い続けたのではないだろうか。 時には、直接、神に尋ね求めて祈っていた
のではないだろうか。 その熱心さは、イエスが言われた「どう聞くべきかに注意しなさい。」
通じるところがある。 
 
日々の生活では、意識するしないにかかわらず、何かにつけて「選択」をしながら過ごしている
ことが多い。 人生には、ルツやオルパのように重大な「選択」をしなければならな時もある。 
その時に、幸いな神のご計画の中に入ることができるような「選択」ができるようになっておき
たいものである。(申命記30:19) そのためにも、日々、自分に対する「主の御心」、「神のご
計画」を知ろうと熱心に主に尋ねもとめ続けていきたいものである。 そして「主ご自身」を尚々
深く知るために、主に問い続けていきたいものである。 主イエスから「わたしの友よ」と言われ
るように、また言われるにふさわしい者に変えられていきたいものである。
 
★旧約聖書 箴言 28:5
   悪人は公義を悟らない。主を尋ね求める者はすべての事を悟る。






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