めんどり通信/2014年5月25日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <ヨシュアの失敗から思考したことの一つ> |
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★新約聖書 コリント人への手紙 第二 12:18
・・私たちは同じ心で、同じ歩調で歩いたのではありませんか。(新改訳)
わたし達は同じ御霊で歩かなかったろうか。同じ足跡を踏んで歩かなかったろうか。(塚本訳)
我らは同じ御靈によりて歩み、同じ足跡を蹈みしにあらずや。(文語訳)
★新約聖書 エペソ人への手紙 4:3
平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
●旧約聖書のヨシュア記を読んでいて思考したこと。 乳と蜜の流れる約束の地カナンにイス
ラエルの民を導き入れるための指導者として召されたヨシュア。 約束の地カナンには、イスラ
エルの民にとって妨げとなる先住民族がいたが、主は彼らを滅ぼすことをご計画されていた。
彼らが滅ぼされた理由は、偶像礼拝、偶像にささげるために自分たちの子どもさえ、火で焼い
てささげるという恐ろしい罪、霊媒、口寄せ、占い、卜者、まじない、呪術、呪文などの罪、様々
な性的な罪でカナンにある国々が汚れており、その地も汚れており、それゆえ、主がその地の
咎を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになるからである。(レビ記18将、申命記12:3
1、18:9-14) そして、主はカナン攻略のためヨシュアを指導者として大いに用いられた。
さて、ヨシュアは、モーセの死後、主から「ことば」(ヨシュア記1:1-9)を頂いた。「あなたの神、
主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」という「主のことば」に励ま
され、最初の攻略に取り掛かった。 ヨシュアは、ひそかにふたりの者を斥候として遣わして、
エリコの町を偵察させた。 モーセがカナンに入る前、主の命令で12人の族長たちにカナンを
偵察させたのと同じようにである。(民数記13章) 2人の斥候は、主を恐れ(畏れ)ていた遊女
ラハブの家に入り、この地の住民はみな、主とイスラエルの民を恐れているという有力な情報
を得た。(ヨシュア記2:8-13) その後、主のことばに従って、ヨシュアとイスラエルの民は、ヨル
ダン川を渡り、出エジプトした時の戦士たちは死んだが、その息子たちに割礼を施し、過ぎ越
しのいけにえをささげた。
それからエリコの近くにいたとき、「主の軍の将」があらわれ、この戦いが「主の戦い」であるこ
との確証を得た。 主はヨシュアに詳細に「ことば」を語られ、ヨシュアは祭司たちや民に告げ、
「主のことば」の通り、七人の祭司たちが七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行き、角
笛を吹き鳴らした。 武装した者たちは彼らの先頭に立って行き、しんがりは主の箱のうしろを
進んだ。 彼らは進みながら角笛を吹き鳴らした。 このように六日間町の周囲を一回まわっ
た。 七日目は七度まわり、七度目に祭司たちが角笛を吹き鳴らし、ヨシュアの号令で、民が
ときの声をあげると、城壁が崩れ落ちたので、ラハブとその家族、親戚の命は助け、他は聖絶
した。(ヨシュア記6章) ただ、あとで判明したが、主の「あなたがたは、聖絶のものに手を出す
な。(6:18)」のことばに背いたユダ部族のカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取り、
その罪により、イスラエル全体の歯車が狂い出す。
エリコの次に人口約1万2千人ほどのアイの町を攻略しようとした。 ヨシュアはエリコのときと
同じようにアイを偵察させた。 偵察から帰ってきた人々は、「二、三千人ぐらいを上らせて、ア
イを打たせるといいでしょう。」と言った。 エリコ攻略のときには、主が詳細に導かれた。 しか
し、アイ攻略のとき、ヨシュアは主が語られるのを待たず、主に尋ねず、偵察に行った人々の
言葉を取り入れている。 ヨシュアは、モーセの従者のとき、偵察に行った12人の中の一人
だった。 人の常識的判断が、「神のことば」に覆いをかけること、約束の地に入る大きな妨げ
になることを体験していたはずだったが、アカンの罪は、イスラエル全体、指導者のヨシュアま
でも飲み込んでいた。
人間的な視点からすると、ほんの出来心なのに・・・と思われるようなことであっても、主は、
「聖絶のものを取るなら、イスラエルの宿営が聖絶のものになる(6:18)」と言われた「ことば」
通りになさる方である。 主は、「主ご自身」に対して、「主のことば」に対して忠実であられる。
主の語られた「ことば」は、必ずその通りになる。 このようなことからでも「主のことば」の重さ
深さを思い知ることができる。 また、「主のことば」に逆らうことの恐ろしさを痛感する。 結
局、イスラエルが、アイ攻略に犠牲者を出して敗走した原因は、アカンが「主のことば」に背き、
イスラエルに罪を持ち込んだことであると判明され、アカンとアカンに属する者、物すべてが主
の裁きを受けることになった。(ヨシュア7章) そうして、イスラエルが回復されると、主は、アイ
攻略についての詳細をヨシュアに語られた。 そして、主の命令通り、アイを聖絶した。(8章)
その後、イスラエルのうわさを聞いた国々は相集まり、一つになってヨシュアおよびイスラエル
と戦おうとしたが、ギブオンの住民たちは、主が相続地として与えておられる国々の町の民は
ことごとく滅ぼされることを知っていたので計略をめぐらし、変装を企てた。 また、ギブオンの
住民たちは、主が遠い国々を攻略するときには、その町が降伏するなら、そこの住民を苦役
に服して働かせるということも知っていたようである。(申命記20:10-15) 繕った古いはきも
の、古びた着物を身に着け、古びて継ぎを当てたぶどう酒の皮袋を持った彼らの「非常に遠い
国からまいりました。ですから、今、私たちと盟約を結んでください。」という言葉を聞いたヨシュ
アとイスラエルの人は、主に指示を仰がなかったので、まんまとだまされた。(9章)
ヨシュアが主に指導者として召され、カナンの地の攻略において、出だしは良かったが、アイ攻
略で失敗し、ギブオンの住民たちのことでも失敗した。 しかし、それ以降、ヨシュア記10章か
らヨシュアは聖書に記述されるような失敗はしていない。 聖書をよく見てみると、エリコ攻略の
ときには、主がヨシュアに語られ、ヨシュアが民のつかさたちや民に命じたり、イスラエル人を
遣わしたりと、ヨシュアが主語になっている。 すなわちヨシュアが主に立てられた指導者として
の正しい位置にいるということである。 しかし、アイ攻略の時には主に尋ねず、人々の言うこ
とを受け入れた。 これは、ヨシュアが正しい指導者の位置にとどまっていないということであ
る。 しかし、この場合は、アカンの罪の影響であることがわかる。
ところがギブオンの住民たちが偽って来たときは、アカンの罪はイスラエルから取り除かれた
後のことである。 ヨシュア記9章を見ると、ギブオンの住民たちとのやりとりで、ヨシュアとイス
ラエルの族長たちが同じ位置にいるように感じられる。 むしろ、族長たちの方が上の位置に
立っていると感じられるところもある。 主が立てられた指導者は、常に主が定められた位置
にとどまっているべきであり、それぞれに主が定められた位置があるゆえ、一人一人は、主が
定められた位置にとどまるべきである。(ローマ12:3-8)
モーセのとき、カナンの地に入る直前に起きた出来事(民数記13章14章)とヨシュアのとき、カ
ナンの地に入った後のところで比べてみると、12人を偵察に遣わしたときには、モーセと「信
仰」と「霊」が「一致」したカレブとヨシュアがモーセのもとにいた。 しかし、ヨシュアのもとには、
モーセのときのカレブとヨシュアのような者がいなかった。 「乳と蜜の流れるカナンの地」は、
いわば、神が王として支配する「神の国」「御国」である。 イエスは、「御国の実現」「御国の完
成」のために、約2千年前に来られた。 そして今も尚、働いておられる。
マルコによる福音書9章2-10節、マタイ17章1-9節に、イエスの御姿が御衣は、非常に白く光
り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さになったという「山上の変貌」のことが記され
ている。 ここでは、父なる神から遣わされたイエスを中心に、すなわちイエスのもとにモーセと
エリヤがいた。 その様子を見ていたのは、ペテロとヤコブとヨハネだけだった。 この三人は、
重要な場面のとき、いつもイエスのそばにいた。 そして、ペテロは「あなたはペテロです。わた
しはこの岩の上にわたしの教会を建てます。(マタイ16:18)」とイエスに「ことば」をいただいた
者である。 ペテロという名前は石であり岩である。
このように見てみると、「御国の実現」「御国の完成」、すなわち教会の建て上げに関すること、
それも基礎の建て上げや重要な場面のとき、キリスト者(クリスチャン)が一人ではなく、「信
仰」と「霊」の一致した者が必要であるということではないだろうか。 「人がもし、そのひとりを
攻め撃ったなら、ふたりで、それに当るであろう。三つよりの綱はたやすくは切れない(伝道者
の書4:12)」とあるように、「二人」ということも大切である。 イエスは「ふたりでも三人でも、わ
たしの名において集まる所には、わたしもその中にいる(マタイ18:20)」と言われ、聖書の各所
で「ふたりか三人」ということが書かれている。 しかし、「御国の実現」「御国の完成」、すなわ
ち「教会の建て上げ」に関しては、特に「三人」というのが重要なのではないかと思われる。 た
だ、必須なのは、「二人」にしても「三人」にしても、一人一人の「信仰」と「霊」の一致である。
これに尽きる。
そして、この「信仰」と「霊」の一致は、本当に成されるためには、一人一人がキリストとしっか
り、つながっていなければできないことである。 「二人」「三人」だけでなく、キリストにあって集
まる者たち、教会において、一人一人のレベルの違いはあったとしても、やはり「信仰」と「霊」
の一致は必要である。(ピリピ2:1,2) 一人一人が、思うべき限度を越えて思いあがることな
く、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思っているなら、一
人一人がそれぞれ神が定められた位置にとどまることができるであろう。(ローマ12:3) た
だ、ともすれば表面上だけ見て、 イエス・キリストのもとでの皆との一致ができている、キリスト
と固くつながっている、・・と思っていても案外、そうではないという事実を多く見る。 安堵せ
ず、自分自身、吟味が必要であろう。 日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主に
尋ねること、いつも祈ること、神に依り頼むことをして主キリストと親しく交わりをしながら、主が
定められた位置にとどまり続けたいものである。
★新約聖書 コリント人への手紙 第一 5:6,7
…あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知ら
ないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。…
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