めんどり通信/2014年5月18日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <イエスが言われる「良い物」「悪い物」について、神のあわれみを受けることについての思考:金持ちと貧乏人ラザロから学ぶ> |
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★旧約聖書 申命記30:19、20
私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福と
のろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生
き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたの
いのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓
われた地で、長く生きて住む。
●キリスト教会では、死後について、教会や教団などによって聖書の解釈の違いがいろいろあ
るが、死後については、神の領域であると著者は思っている。 この地上のことにおいても、神
の領域はあると思うが、死後については尚更、神の領域であると考えている。 そして、いろい
ろ違った解釈があったとしても、キリスト教会みなが一致していることは、「人間には死後に行く
べきところがある」ということである。 天国か地獄であり、それは作り話でもなく、想像でもなく
事実である。 そして、死後は永遠に続く。 この地上の歩みなど、ほんの一瞬にすぎない。
しかし、その一瞬の時であるこの地上での生き方が、永遠に続く「死後の行き先」を決めること
になる。 厳粛なことである。
さて、死後についてルカによる福音書16章19〜35節から見てみる。 イエスが語られたたとえ
である。 ある金持ちが毎日ぜいたくに遊びくらしていた。 一方、ラザロという全身おできの貧
乏人は、金持ちの門前で横たわっていた。 犬におできをなめられるという惨めな姿だった。
やがて、二人とも死んだ。 貧乏人ラザロは御使いたちによって「神の友」であり、「信仰の父」
であるアブラハムのもとに連れてゆかれ、大いなる慰めを受けた。 一方、金持ちは、灼熱の
炎の中に連れて行かれ、もだえ苦しんだ。 ふと目を上げると、宴席でアブラハムとすぐそばに
いるラザロとが、はるかかなたに見えた。 そこで、彼はアブラハムに、ラザロをそこから遣わ
して、自分の舌を水で冷やさせてください、と頼んだ。 しかし、「おまえは生きている間、良い
物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、
おまえは苦しみもだえているのです。」と言われ、そればかりか、両者がいるところの間には、
互いに渡ることができない大きな淵があり不可能なのだと断られた。
この金持ちは、せめて地上で生きている自分の5人の兄弟が、こんな苦しみの場所に来ること
のないように、ラザロを生き返らせて彼らのところに送って厳しく警告してほしいと頼んだ。 し
かし、答えは、地上にはモーセと預言者の教えがある。 その教えに真剣に耳を傾けないな
ら、たとえ死人から生き返った者が語っても聞き入れないだろうというものだった。
この箇所から、教えられることが多々あるが、アブラハムが言った「良い物」「悪い物」につい
て、「神のあわれみをどこで受けるか」について思考してみる。 金持ちとは、単にお金を多く
持っているということだけでなく、才能や賜物を持っているということもあらわしている。 いずれ
にしても実際にお金を多く持っていること、才能や賜物を持っていることが、イエスが言われる
お金持ちではない。 金銭を愛して、お金にこだわり、神に頼らずお金に頼る者、賜物や才能
を自慢し、それらに頼る者、そのような者が、この箇所の金持ちである。(Tテモテ6:10)
貧乏というのは実際にお金がないというだけでなく、才能も賜物もないということである。 その
上、ラザロは全身おできだったが、それは自分では何もできない弱さがあるということである。
金持ちの名前は書かれていないが、ラザロという名前には、「神が助ける人」、「神により頼む
もの、神を助けとする者」という意味がある。 すなわち、貧乏人とは、幼子に通じるところがあ
り、自分ひとりでは進むこともできず、親(主)に頼らなければ何もできない者すなわち、真に主
に頼る者であり、主に心から感謝す者である。 本気で神を信じている者である。(ルカ18:16)
ここで言わんとしていることは、現実にお金や才能や賜物を持っていたとしてもイエスが言われ
る「貧乏人ラザロ」ならアブラハムのふところへ行けるということである。 反対に、現実にお金
や才能や賜物も持っていなかったとしても「金持ち」はいるということだ。 主の喜ばれる人の
中には、お金を多く持っている者もいる。 主が、ご自身のために才能や賜物を与えておられ
る人もいる。 要は、「主なる神」にどれほど頼っているのか、本当に本気で主を信じているの
かである。 真に信じている者であるなら、真剣に「主と主のことば」に従おうと取り組み、主に
喜ばれる者になりたいと願い求めるであろうし、事実、確かな「聖霊の導き」があり、前進して
いるはずである。
この箇所でアブラハムが金持ちに言われたことば、「おまえは生きている間、良い物を受け、ラ
ザロは生きている間、悪い物を受けた。」の「良い物」とは、この地上で完全にではなくても、ほ
ぼ自分の思い通り、計画通り生きたということである。 自分の思い、考えを押し通し、自分の
願い、望みを叶えるために「主のことば」に耳を塞ぎ、感情の赴くままに生きたということであ
る。 肉の者にとって、これほど「良い物」はない。 もちろん、悲劇の主人公や善人を装った
り、偽りを軽い演技で押し通したりして、この世に非難されないよう、あからさまな自己主張を
することはないかもしれないが、アブラハムのいう「良い物」を受けている。 また、ラザロが受
けた「悪い物」とは、この地上で犬におできをなめられるような惨めな姿の自分を知らされ、愕
然として、主に助けを求める者、神と交わるにおいて、妨げていたのが「自分自身」、すなわち
「自我」であり、肉(生まれながらの神に従い得ない性質)であることを明確に知らされ、苦しむ
者である。 人にとって、自分の心髄とも言える「自我」に触られることは嫌なことである。 まし
て、砕かれるとなれば、自分が無くなってしまうのではないかなどと痛みを伴う苦しみを味わう
であろう。 まさに人にとって人から見て「悪い物」である。 言うなれば、神から見た「良い物」
は人から見ると「悪い物」であり、神から見た「悪い物」は、人から見ると「良い物」である。
まさしく、「神の見方」と「人の見方」は違うものである。
永遠から比べるならば一瞬であるこの地上での生涯に、神が与えようとしておられる「神のあ
われみ」を受け、それに「応える」必要がある。 クリスチャンは人生における困窮のとき、苦難
のとき、また、日々の生活の中での困ったとき、問題があるとき、…など主なる神に求める。
主は、求める者の祈りに応えてくださる。 そうして、神のあわれみをいただく。 こういうことを
繰り返しながら、クリスチャンとしてある面、成長していく。 しかし、神が人に望まれていること
は、救われた人が神と本当の深い交わりをすることである。 困ったときだけ真剣に、熱心に
主に求めるのではなく、「キリストとの明確な交わり」をすることである。 そのために、神は人
にラザロに与えた「悪い物」を与えようとされる。 この「悪い物」は、神からの訓練試練であり、
トンネルを通ることであるが、それは「神のあわれみ」である。(トンネルについて/めんどり通
信/2014年5月11日。参照) 人がラザロのように、この「神のあわれみ」を受けてほしいと神の
方が望んでくださっている。 ただ、この「神のあわれみ」を受けるのも受けないのも人が決め
ることである。 心の表面上ではなく、心の奥底に受け入れることをするのかどうか、本音によ
る人の意思表示が必要である。
いずれにしても天国か地獄か行くべき道を見誤らないようにしなくてはならない。 外側の出来
事や状況だけで安易に自分は、「良い物」を受けている、「悪い物」を受けていると判断しない
ように気をつけなければならない。 とにかく最初は軽い次元で祈っていても、心から祈ってい
るなら日々の生活の中で些細なことを通して、主は「試し」を与えられる。 祈り求めた者がす
ぐに乗り越えることができるほど、正しい応答ができるほど簡単なことである。 それを見逃さ
ず、素直に受け取り、主に介入していただき、主に求めていくなら、更に祈りが深くなっていくは
ずである。 ただし、簡単なことだと言っても、案外それを見逃している人が多い。 主に試され
ていることがわからずにいる人が案外多い。 しかし、たとえ、わからなくても見逃してでも、そ
れを見破ることのできる牧会者や人(キリスト者)を通して、そのことを指摘されることがある。
そのような者は幸いである。 「主のあわれみ」が、その人にあるからだ。 「主のあわれみ」を
蔑(ないがし)ろにしないように気をつけたいものである。 「主のあわれみ」を蔑(ないがし)ろ、
すなわち軽んじることは、主ご自身を軽んじることであるからだ。
この一瞬の時であるこの地上での歩み方、主に対してのその人の態度、特に心の奥底にある
主に対しての「愛」「感謝」「想い」・・・は、どれほど重要かを、このたとえによって思い知ること
ができる。 神は、人にご自身だけでなく、「神のあわれみ」をいろいろな形で示しておられる。
(ローマ1章) 特に、クリスチャンに対しては、ご自身と深く交わりを持たせるため、キリストと
しっかりつながることができるために、その人に応じての「神のあわれみ」を明確に示しておら
れる。 この地上にいる間にその「神のあわれみ」を無駄にしないことが、アブラハムのふとこ
ろにいるラザロ、「神により頼むもの、神を助けとする者」になり得ることができる。 我々は、
生きている今の時を真剣に主イエス・キリストに目を向けて、素直に神が与えようとしている
「悪い物」を受け、確かに「天の御国」に入る者になりたいものである。
★新約聖書 ルカによる福音書 9:23
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨
て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
★新約聖書 ヘブル人への手紙 9:27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている
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