めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年5月11日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<トンネル(人生における苦しみ)について>


★旧約聖書 詩篇 71:20
   あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地
   の深みから、再び私を引き上げてくださいます。
 
★新約聖書 ヘブル人への手紙 12:11
   すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものです
   が、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
 
●この地上の歩みにおいて、ほとんどの人は、その人に応じてのトンネルを通るであろう。 ト
ンネルとは、人生における「苦しみ」それもある程度の期間、続く「苦しみ」をあらわす。 真に
主を信じる者にとっては、悪しき霊からの攻撃による苦しみや様々な試練困難を通っている苦
しみ、そして与えられている「主のことば」が完了、成就していない、すなわち、現状が「主のこ
とば」とは違うゆえの苦しみをあらわしている。 キリスト者の「苦しみ」は、この世の一般的に
言われる「苦しみ」「苦労」とは違う。 違いは、いろいろあるが、その中でも「苦しみ」「苦労」
が、主の支配の御手の下にあるかないかの違いがある。 この違い結構大きいことである。 
 
主を信じているキリスト者(クリスチャン)の場合、このトンネルは、主から「ことば」を与えられ
たことによって通ることになる。 また、明確に「主のことば」を与えられていなくても、神の良き
ご計画のうちにある者も通ることになる。 いずれにしても真にキリストにつながっている者は
必ず、トンネルを通る。 トンネルを通ることは、試練訓練を受けるということであるが、神が子
として扱ってくださっているから通るのである。(ヘブル12:6、7) 
 
そして、経験するトンネルは、一人一人みな違う。 厳しさに違いがある。 主から与えられて
いる働きの違い、その人を通しての影響力の違いによる。 何らかの「ことば」を主から与えら
れている者は、みなトンネルを通るが「ことば」を与えられるということは、主がその人に目を
留めているからである。 そうであるのに、その「主のことば」を心の底に据え付けないなら、鳥
に取られてしまうか、主が他へ移されてしまう可能性がある。 だから、主から「ことば」を与え
られている者は、素直に主の「ことば」を心底に受け入れ、留めておくことが重要である。 
 
また、直接、主から語られる「ことば」だけが「主のことば」ではなく、映像霊的感覚
どの方法によって「主のことば」として与えられることがあり、牧会者や人を通して与えられるこ
とがあり、聖書を読み進めていくうちに「聖書のみことば」で与えられることがある。 ただ、与
えられた「ことば」が、本当に主が語られた「ことば」なのか、自分の思い込みや願望から来る
「ことば」なのか、悪しき霊から来る「ことば」なのか、など吟味する必要がある。 与えられたの
が、「主のことば」であることの明確な判別は、主が与えてくださった多くの体験による「主の訓
練試練」を通って、信仰が強くなってから、できるようになってくるものである。 
 
さて、高速道路の場合、トンネル内には、途中に非常出口が数百mおきに設置されているとい
う。 一般的には、災害などがあったとき、この非常出口から出ることは必要なことであるが、
訓練試練のトンネルを通っている場合には、途中の非常出口は、使ってはならないものであ
る。 トンネルを通っている間、出口が見えず、気落ちしている場合や、砕かれることが、あま
りにも苦しく、自分(の思いや願い、考え)を押し通したいという心が強い場合などは、その非常
出口は、魅力的なものに見えるかもしれない。 しかし、その非常出口は「世」に通じる出口
であり、その出口を使うこと、そこに入ることは主の訓練」を放棄することに為りかねない。 
それはすでにキリストから目を離していることである。 
 
イエスが群集に語られた種まきのたとえで、道ばたに落ちた種、土の薄い岩地に落ちた種、
ばらの中に落ちた種のことがある。 これは、みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔か
れたみことばを持ち去ってしまわれる人、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れても、みこと
ばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人、みことばを聞くが、この世の心
づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人、すなわちこれらの人は、訓
練を受けるまでもない群集のことである。 しかし、たとえ、主から訓練試練を受けたとしても、
トンネルの途中の非常出口から出る者は、群集同様であることをあらわしている。(マタイ13
章) 多くの訓練試練を通り栄光に入ったダビデは、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわ
せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)」と言った。 明らかに群集
の言葉ではない。 このトンネルを通り抜けた者は、ダビデのように言うことができるだろう。 
 
先週5月4日の「めんどり通信」で、姉妹たちに、それぞれの方法で「幻」として与えられた「ノア
の箱舟」のような箱船は、先週の時点では船の後半部分は、まだトンネルの中に差し掛かって
いた。 ところが、その後、また姉妹たちに別々に、それぞれ姉妹Aは霊的感覚、姉妹Bは
という形で「幻」が与えられ、船が光輝く大海原に出たことがわかった。 しかし、現実はま
だ、教会に関すること、個人に関することで、今までに語られていた幾つかの「主のことば」
完了した、成就した実際を見ていない。 このことは、ダニエル書10章から見ることができる。 
ダニエルが祈り求めたとき、その祈りはすぐに聞かれていた。 しかし、神からの応答がダニ
エルのもとに届くのに時間を要したと書かれている。 祈りの応答が遅れたのは、ペルシャの
国の君による三週間の妨害があったのだと説明しているが、これは、霊的な世界と現実の世
界に時間差があるからだと思われる。 だから、姉妹たちに与えられた「幻」による「主のこと
ば」の完了の実際も、今までに語られていた「主のことば」の完了の実際も、必ず見ることがで
き、聞くことができ、体験することができるものだと信じている。 どのくらいの時間差があるの
かは、神の領域であると認識している。 また、このような幻が与えられたのは、トンネルの過
程があまりにも苦しいゆえ、我々が倒れないようにとの主のあわれみである。 主に心から感
謝する。
 
さて、光輝く大海原に出たからと言って、訓練試練が完全に終わったわけではない。 このトン
ネルの期間は、永遠に続くものではなく、限りがあり、長さ、期間がある。 それでも完全に終
わったわけではない。 確かにトンネルを通っているときと同じような試練や苦しみはなくなった
としても、訓練は続く。 我々は生涯、前進するからである。 主に喜ばれる者となるための前
進である。 パウロは人生の晩年になって獄中で書いたピリピ人への手紙3章で、「自分はす
でに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもない。」 だから「うしろのものを忘れ、ひた
むきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得る
ために、目標を目ざして一心に走ることに励んでいる」と言っている。
 
トンネルを抜けた後も、主の訓練はあると思われるが、トンネル内の訓練とは明らかに違うで
あろう。 いずれにしても、真にキリストにつながっている者は必ず、通り抜けることができる。 
途中の非常口、すなわち「世」に魅せられず、助けを求めず「主と主のことば」だけに信頼す
る者は、聖霊の導き受けてトンネルを通り抜けることができる。 まだ主を受け入れていな
かったときに通ったトンネルの体験さえ、主は大いに用いてくださり、益にしてくださる。 また、
トンネルを通り抜けることにより、自我が砕かれ、肉が切り落とされ、信仰が成長し、が強く
なる。 トンネル内で「耐えていた」ことによって、主が望まれる人格が形成されることになる。 
もちろん、このことは、トンネルを通り抜けた後も続くが、トンネル内での人格形成とは違うであ
ろう。 「私たちは、・・患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練ら
れた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失
望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たち
の心に注がれているからです。」と高らかに言えるようになりたいものである。(ローマ人5:3-
5:5) 
 
★旧約聖書 詩篇 105:19
   彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。
 
 
 


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