めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年3月23日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
アブラハム、イサク、リベカ、ヤコブ、ヨセフ。彼らの失敗、落ち度と言われていることについての思考


★旧約聖書  イザヤ書 48:17
   あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主で
   ある。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。
 
★新約聖書(塚本虎二訳) ガラテヤ人への手紙 3:13、14
   キリストはわたし達(ユダヤ人)のために(十字架にかけられ、みずから)呪となって、わた
   し達を律法の呪から贖い出してくださった。『木にかけられる者はみな呪われている』と書
   いてある。 これは、(モーセ律法を知らぬ)異教人に、(律法を行なわずとも、)イエス・キ
   リスト(につながっているというだけの理由)によってアブラハムの祝福が臨むため、(然
   り、キリストを信ずる)信仰によって、(アブラハムに対する)約束の御霊をわたし達がいた
   だくためである。
 
「アブラハム契約」を継承し、「長子の権利」を継承したイサク、ヤコブ、ヨセフ、そして「信仰
の父」アブラハムとイサクの妻リベカ。 彼らの失敗、落ち度と言われていることについて思考
してみる。 アブラハムの場合。 (1)妻サラを妹と言ったこと。 飢饉のとき、神に求めず、自
分の考えでエジプトへ逃避。 妻サラを妹と偽った。(半分は本当だが偽りには違いない) しか
し、神からの、お咎めなし。 むしろ、多くの財産を与えられた。 (2)「神の約束のことば」を神
は、アブラハムに何回も語られたが、神がなさるのを待てず、サラの提案を受け入れ、人間的
な方法で、奴隷ハガルによって長男イシュマエルを産んだこと。 このことにより、神はアブラ
ハムに13年間、顕現されず、沈黙された。 この期間のことは聖書に記されていないが、アブ
ラハムは、神と交わりを持てない苦しみを味わい、神との交わりの必要性、神が語られる「こと
ば」を聞くことの重要性を思い知ったと思われる。 アブラハムは、それらの訓練を通して、「主
の約束のことば」に絶えず返り留まった。 「信仰」を与えられ、試され、鍛えられて、揺るぎな
「信仰の父」と呼ばれるようになった。(アブラハムについて:めんどり通信/2014年3月2日
 
イサクの場合。 (1)妻リベカを妹と偽ったこと。 しかし、アブラハム同様、神からの、お咎めな
し。 むしろ、ゲラルの王アビメレクが、すべての民に「この人と、この人の妻に触れる者は必
ず殺される」とおふれを出したことにより、イサクは身の安全の保障を得ることができた。 そ
の上、カナンの良い地に住むことができるようになった。 主がイサクに、「主が示す地(カナン
の地)に滞在すること」と語られていた「ことば」通りになった。(アブラハムについて参照:めん
どり通信/2014年3月9日 (2)「兄が弟に仕える(創世記25:23)」という「主のことば」を主はリベ
カに仰せられていた。 イサクは、その「主のことば」を妻リベカから聞いていたと推測できる
が、それなのに、エサウが獲ってくる獲物が好きだという理由で、世の順位、産まれた順番通
り、エサウに家督を継がそうとしていたことは、イサクの落ち度であると言えよう。 
 
「イサクは年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったとき」に、長男のエサウに按手して祝福し
ようとしていた。(27:1) イサクは、霊的なことを正しく判断する力が衰えていたと思われる。 
その原因が、エサウが獲ってくる獲物が好きだという、「主のことば」より、「自分の思い」「自
分の願い」を優先していたことであるかもしれない。 しかし、神からの直接の責めはなし。 ヤ
コブにだまされてしまったが、それで、イサクの目が覚め、おろそかにして忘れていた「主のこ
とば」を思い出したのではないだろうか。 ヤコブがリベカの兄ラバンのところに旅立つ時に、イ
サクはヤコブを祝福し、命じのことばを言って見送ったからだ。(創世記28:1〜5) また、イサ
クは、祝福を受けたのは、エサウではなく、ヤコブであったとわかったとき、ヤコブに対しての
怒りよりも、主なる神は生きておられ、どのような状態、状況に陥ろうが、必ずご自身のみここ
ろを行なわれることを悟って激しく身震いし、回復された「霊的な見方」「信仰」によって、エサ
ウに「おまえは、・・おまえの弟に仕えることになる(27:40)」と預言したからだ。(27:33)
 
ヤコブの場合。 ヤコブについては、主(おも)だったものだけを見てみる。(1)「長子の権利」
エサウから奪い取ったこと。 ヤコブは、猟で疲れて帰って来て、何か食べさせてくれるように
言ったエサウに、「長子の権利」をレンズ豆の煮物と引き替えにすることを提案。 「長子の権
利など、今の私に何になろう」とエサウは承諾。 このことが、相手の弱みにつけ込んで、やり
方がきたないとは言い切れない。 ずる賢いことかもしれないが、イエスは、「蛇のように賢く(マ
タイ10:16)」と言われた。 ヤコブは、父イサクたちから聞いていたであろう「アブラハム契約」
「長子の権利」「神の祝福」などの、要は「主と主のことば」にこだわっていたと思われるから
だ。 かと言って、相手の弱みにつけ込むようなことをしてもいいのか、と思わないでもないが、
聖書はエサウに対して、「こうしてエサウは長子の権利を軽んじた(創世記25:34)」「一杯の
食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者(ヘブル1
2:16)」との見方をしている。 明らかに、神の見方、神の判断と人の見方、人の判断は違うと
いうことである。 
 
さて、「長子の権利」を受け継ぐためには、父イサクから祝福を受ける必要がある。 イサク
は、家督を受け継がせるためにエサウを祝福しようとしていた。 母リベカは、この一大事に対
策を講じた。 ヤコブがエサウに変装したのは、母リベカの強い押しがあった上、行われたこと
である。 ヤコブひとりの責任とは言えない。 その後、リベカが、二度とヤコブに会えなかった
ことは、リベカが大きな落ち度を行なった結果であり、リベカへの神の罰であるように言う人も
いるが、リベカにとっては、「主のことば」通りになることの方を願っていたので、そのことは覚
悟の上だったと思われる。 「あなたののろいは私が受けます(27:13)」の言葉から伺える。 
ヤコブに再び会うことより、「主のことば」通りになることの方が優先されていたと思われる。 
だから、神は、リベカとヤコブの行動を止められなかった。 むしろ神はそのリベカの心を見ら
れ、そのことを許され、用いられたのではないだろうか。 やはり、ここでも人の判断と神の判
断は違う。 また、ヤコブはエサウを騙して神の祝福を受け取ったから、ラバンにも騙され、苦
労することになったと言われているようだが、神は、騙したことより、ヤコブが「神の祝福を受け
取ること」「アブラハム契約」「長子の権利」すなわち「主と主のことば」にこだわったことの
方を「良し」とされていると思われるのだが。
 
ヨセフの場合。 (1)17歳の時、夢を見た。 畑でまっすぐに立っていたヨセフの束に兄たちの
束がおじぎをしていた夢太陽と月と十一の星がヨセフを伏し拝んでいた夢であった。(創世記
37章) それらの夢を聞いた兄たちはヨセフを憎み、ねたんだが、父ヤコブはヨセフをしかりは
したが、その夢を心に留めていた、と書かれている。 内容が内容だけに、兄たちやヤコブに
話したことは、ヨセフが軽はずみで、無神経だったということであり、兄たちが怒るのも無理は
ないとよく言われているが、そうとも言えないのではないだろうか。 「信仰の継承」「祝福の
継承」を望んでいたヤコブは、ヨセフだけでなく、兄弟たち皆に、アブラハムに与えられた「主の
約束のことば」「アブラハム契約」「長子の権利」のこと、ヤコブが砕かれて来た経緯、すな
わち証しを語っていたはずである。 それらをどのように受け取っていたかの違いが表れている
ように思える。 
 
ヨセフのこの箇所を最近、読めば読むほど、ヨセフが軽はずみで夢の内容を話したのではな
い、むしろ、「信仰」によって話したのではないだろうかと思えるのだが。 ヨセフは、日頃、兄た
ちから憎まれていたのを感じ取っていたと思われるが、ヤコブに、シェケムで父の羊の群れを
飼うために出かけていた兄たちのところに使いに行ってもらいたい、と言われたとき、「はい、
行きます」と出かけて行った。 嫌々従う、という感じを受けない。 また、17歳にもなっていた
ので、1度、話して兄たちから「おまえは私たちを治める王になろうとするのか。」と言われ、ま
すます憎まれたのなら、通常、よほどの理由がない限り、同じような夢の話しはしないであろ
う。 しかし、ヨセフは話した。 そこには自慢しているようには感じられない。 むしろ、夢の内
容は、「主からのことば」と受け取っているヨセフが、それに関係する人たちに話しておくべきだ
という感じさえ受ける。 ヨセフの場合、失敗とか落ち度ということが見受けられない。
 
このように見ていくと、彼らは、日々の生活の中で絶えず、「主と主の約束のことば」を土台にし
ているという共通点がある。 また、一般的に彼らの失敗、落ち度、罪と言われているようなこと
に対して、神は彼らを、とがめておられない。 アブラハムに与えられた「約束のことば」神か
らの一方的、双方的な「契約」を受け継いだ者、いわば「アブラハムの信仰と祝福」を受け継い
だ者であるなら、人から見て、罪、失敗、落ち度、理不尽と思われることでさえ、神からは、何
のとがめもなく、むしろ、それらの一つ一つを神が許しておられるかのごとく、益にしてくださり、
神の良きご計画の中に入れてくださるということである。 このように、アブラハム契約を継承
する者、まして長子の権利を継承する者にとっての失敗や落ち度などは、神の見方と人の見
方では大きく違う。  だから、神が「良し」とされることを、我々人がとやかく言うべきではない。 
我々が納得いこうがいかまいが、理解できようが理解できまいが、主がなさること、主の判断
が一番正しいのである。 このことをしっかりと見て受け取っておくべきである。 
 
とにかく、大事なことは、「主と主のことば」に絶えず、返ることであり、日々の生活においても、
その「主と主のことば」を土台、足場にして生き、歩み続けるということである。 そのようにす
る者は、「アブラハムの信仰と祝福」を受け継ぎ始めたと言えるであろう。 「受け継いだ」と言
い切ることができるのは、人がこの地上を去る前、最期の時であろう。 イサクやヤコブ、ヨセ
フなどが「アブラハムの信仰と祝福」を受け継いだ者であることは、聖書に書かれているからわ
かるのである。 しかし、今、我々は、この地上で歩みの途上の者である。 我々の最期を知っ
ているのは、主なる神のみであられる。 だからこそ、日々、我々人は、主イエス・キリストによ
りすがり、「主と主のことば」に返るのである。 ガラテヤ人への手紙3章29節「もしあなたが
たがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なの
です。」とあるが、「キリストのものであれば」というのは、「キリストにつながっている者」「キリ
ストにつながり続けるために、正しい取り組みをしている者」のことである。 「しっかりと主にと
どまり続ける」ために、自分勝手な取り組みではなく、正しい取り組みをしていき、新しい聖霊
の流れに乗って、主の喜ばれる者になりたいものである。
 
★新約聖書 ペテロの手紙 第一 3:9
   悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなた
   がたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。
 
 


めんどり聖書研究会