めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年3月16日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<背後の祈りが重要:アブラハム、イサクの嫁探しから学ぶ>


★新約聖書 ローマ人への手紙 8:26、27
   御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよ
   いかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちの
   ためにとりなしてくださいます。
   人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊
   は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
 
創世記24章に約束の子イサクの嫁探しのことが書かれている。 神はアブラハムに約束の
ことばを語られた。 @あなたを大いなる国民とする(創世記12:2)、A地上のすべての民族は、
あなたによって祝福される(12:3)、Bあなたの子孫にこの地を与える(12:7)である。 主は、あら
ゆる面でアブラハムを祝福しておられたが、アブラハムは老人になっていた。 そして、妻サラ
は亡くなっていた。 イサクは40歳であった。 アブラハムは自分に与えられた祝福を次の世代
に受け継がせるために、イサクの嫁探しに取り組んだ。 イサクの結婚は、信仰と祝福を継承
するために重要なことであった。 それだけに神の導きがより必要なことでもあった。
 
さて、アブラハムは、自分の全財産を任せるほど最も信頼できる最年長のしもべに、イサクの
嫁について、カナン人の中からめとってはいけないこと、アブラハムの生まれ故郷(この場合、
ウルではなく、ナホルの町)の親族のところへ行って探すことを言った。 しもべは「もしその
女がわたしについてこの地に来ることを好まない時は、わたしはあなたの子をあなたの出身地
に連れ帰るべきでしょうか」と尋ねた。 アブラハムは、イサクを故郷の地、親族のところへ連
れ帰ってはならないこと、主は御使いをしもべの前に遣わされること、もし、その女がカナンの
地に来ようとしないなら、しもべはアブラハムとの誓いから解かれることを言って送り出した。
 
アブラハムは神の民でない者との結婚を望まなかった。 異教の神を信じる者ではなく、アブラ
ハムと同じ信仰をする者を求めた。 後に、主はモーセを通してイスラエル人たちに言われ
た。 「また、彼らと互いに縁を結んではならない。 あなたの娘を彼の息子に与えてはならな
い。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。 彼はあなたの息子を私から引き離すであ
ろう。彼らがほかの神々に仕えるなら、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主はあ
なたをたちどころに根絶やしにしてしまわれる。(申命記7:3,4)」
 
カラン(ハラン)を故郷と言っているのは、アブラハムの父テラがここで亡くなり、主なる神を信じ
ていたアブラハム一族がそこで生活をしていたからだと思われる。 また、アブラハムが75歳
のとき、主が彼に「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地
へ行きなさい。(12:1)」と言われ、この時からアブラハムにとって神と直接、かかわる人生が始
まったところでもあるからでだろう。 
 
イサクを故郷の地、カラン(ハラン)に連れ帰ってはならないというのは、主なる神がアブラハム
「あなたの子孫にこの地を与える」と約束してくださったからである(創世記24:7)  イサクが
カラン(ハラン)へ行くことは、この「主の約束のことば」に矛盾するからである。 アブラハムの
「主のことば」に対する忠実さがあらわれている。 また、もし、その女の人がカナンの地に来
ようとしないなら、しもべはアブラハムとの誓いから解かれるとアブラハムが言ったのは、主は
必ず、主が決めておられるイサクの嫁をカナンの地に連れて来られるという、主に対する信頼
の強さと確信のあらわれから出た言葉であろう。 練り清められた「アブラハムの信仰」を見る
ことができる。
 
さて、しもべは十頭のらくだを取り、あらゆる貴重な品々を持って、アラム・ナハライムのナホル
の町へ行った。 しもべはナホルの町外れの井戸のそばで祈った。 井戸に水を汲みにくる女
たちに、しもべが「水を飲ませてください」と尋ねると、しもべと十頭のらくだにも水を飲ませてく
れる人が、主がしもべイサクのために定めておられた者であるようにと祈った。 すると、その
祈りが終わらないうちに、主が定めておられたイサクの嫁となるリベカが来た。 リベカはアブ
ラハムの甥ベトエルの娘であった。 アブラハムの親族である。
 
しもべはリベカの家に行き、リベカの家族に、主人アブラハムのこと、イサクのこと、ここまで来
た経緯を話し、銀や金の品物や衣装を取り出してリベカに与えた。また、彼女の兄や母にも貴
重な品々を贈った。 そして、リベカと一緒にアブラハムとイサクが待つカナンの地に帰った。 
しもべは、忠実にこの務めを果たした。 このしもべが、自分の知恵で嫁探しをするのではな
く、神にお任せした結果である。 確かに、「しもべの信仰」がほめられるところである。 しか
し、むしろ、それ以上にこのしもべを送り出した「アブラハムの信仰」、「アブラハムの祈り」に注
目すべきであろうと思われる。 
 
このしもべの祈りが、祈り終えないうちに答えられたのは、アブラハムによるたくさんの祈りが
あったからだと思われる。 主なる神とアブラハムの信頼関係の強さ、アブラハムの主なる神
への祈りの積み上げ、アブラハムが主なる神のみこころを悟っての祈り、・・などが、しもべが
劇的にリベカと出会ったの背後にあったのではないかと思われる。 もちろん、そこには、この
「しもべの信仰」、「しもべの忠実」は不可欠である。 それでも、それ以上に、背後の「アブラハ
ムの信仰」、「アブラハムの祈り」に注目するべきではないだろうか。 このしもべとは、創世記
15章2節で、アブラハムにまだ子どもがいなかったとき、相続人として考えていた者としてアブラ
ハムが名前を挙げた「ダマスコのエリエゼル」のことであろうと言われている。 もし、そうであ
るなら、通常、この大事な場面で「エリエゼル」という名前を書くのではないだろうか。 しかし、
「家の全財産を任せていた」という大事な役割を担っている立場は書いても、「しもべ」と書かれ
ていることによって、聖書「アブラハムの信仰」、「アブラハムの祈り」を第一に注目しているこ
との裏づけの一つにならないだろうか。
 
このように見てみると、この「しもべの信仰」は、確かに見上げたものであるが、それでも、後一
歩、深みに入るべきであるかもしれない。 しもべは、アブラハムの嫁を探しに行きなさい、と
遣わしのことばを受けた時、「はい」と従っていたらよいだけだったのかもしれない。 しもべ
は、アブラハムの生涯を見てきたはずである。 また、一時は、アブラハムが、家督を継ぐの
は、このしもべと考えていたくらいであるから、「主の約束のことば」やアブラハムの体験をアブ
ラハムから、どの程度かはわからないが聞いていた可能性はある。 だから、この嫁探しは神
の契約に関する重要な事柄であることを知っていたはずである。 そして、主人である「アブラ
ハムの信仰」を目の当たりに見てきたであろうから、「その女の人が、私についてこの国へ来
ようとしない場合は、どうしたらいいですか」という尋ね方でよかったのではないだろうか。 「あ
なたの子をあなたの出身地に連れ帰るべきでしょうか。」という尋ねの言葉は、「イサクの結
婚」を最優先という見方をしているように思えるのだが? 最優先すべきは、「主の約束のこと
ば」であり「神のご計画」である。 
 
ただ、このしもべは、イサクの嫁探しを通して、神からの奇蹟の出会いを体験し、神の不思議
を見た。 それらの体験によって、「しもべの信仰」はさらに強くなり、ますます神に対してのへ
りくだりをも身についたのではないかと思われる。 今日の我々クリスチャンの多くは、この「し
もべ」にたとえることができるかもしれない。 そのように見るなら、我々の背後で我々のため
に祈っている者がおられるということである。 パウロは「キリストはいつも生きていて、彼ら(ご
自分によって神に近づく人々)の完全な救いのために、とりなしをしておられる(ヘブル7:2
5)」、「よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりな
していてくださる(ローマ8:34)」と言っている。
 
パウロのことば通り、基本的には、我々の背後でキリストが祈ってくださっているということであ
る。 真のクリスチャンであるなら、信仰生活の長い短いにかかわらず、「主のみこころに従い
たい」、「真に主を愛したい」などと思い、すべての事について、主に感謝し、絶えず主に祈って
いるものであろう。 そのようにできるのも、背後でキリストが祈ってくださっておられるからでき
るのである。 また、主は、時と場合と内容によっては、このしもべのように祈る人の背後で、
アブラハムのように祈る人を立てられることがある。 長いキリスト教会の歴史の中にも、確か
に神が「良し」とされる背後の祈りをするために立てられた者もいたと思われる。
 
「このしもべのように祈る」と言っても何でもかんでも祈って聞き入れられたというのではない。 
このしもべは御心に沿った祈りをした。 だから日々の生活で、何事でも祈ることは大切なこと
であるが、祈り(願い)をごり押しするという、わがまま、自我を押し通そうとする場合も結構あ
るから気をつけたものである。 そうならないために、より確実なのは、「主のことば」があり、
それを土台にしての祈りである。
 
3月に入ってアブラハムについて書いているが、我々「キリストに従う者」という意味を持つクリ
スチャンは、「信仰の父」と言われる、この「アブラハムの信仰」、「アブラハムの生き方」、「アブ
ラハムの祈りの心」を知っておきたいものである。 我々にとってのアブラハムであられる主イエ
ス・キリストから目を離さないで、キリストと真の交わりをしていき、何を求めたらいいのか、何
が主の御心、御旨なのかを知っていきたいものである。 そして、絶えず、背後で祈ってくだ
さっている主に感謝しつつ、聖霊の流れに乗って、主の導かれるままを進んでいきたいもので
ある。
 
★新約聖書 ヨハネの手紙 第一 5:14
   何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるというこ
   と、これこそ神に対する私たちの確信です。
 


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