めんどり通信/2014年3月9日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <「妻を妹という」から学ぶ:アブラハムとイサク> |
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★旧約聖書 申命記 32:4
主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがな
く、正しい方、直ぐな方である。
★旧約聖書(口語訳) 詩篇 11:7
主は正しくいまして、正しい事を愛されるからである。直き者は主のみ顔を仰ぎ見るであ
ろう。
●創世記に「妻を妹という」場面が3回ある。 アブラハムが2回、アブラハムの子イサクが1回
である。 簡単に書いてみる。 1回目アブラハム、創世記12章11節〜15節。 神が約束された
乳と蜜の流れるカナンの地に向かう途中、父テラが、カラン(ハラン)で死んだ後、主がアブラハ
ムに3つの約束を語られた。 @あなたを大いなる国民とする(12:2)、A地上のすべての民族
は、あなたによって祝福される(12:3)、Bあなたの子孫にこの地を与える。(12:7) アブラハム
は、カランを出発してシェケムの場、モレの樫の木のところで主のための祭壇を築き、そこから
ベテルの東にある山の方に移動して天幕を張り、そこにも祭壇を築き、主の御名によって祈っ
た。 アブラハムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けたが、激しい飢饉にあった。 ア
ブラハムはエジプトへ逃避した。
アブラハムはサラが美しかったのでエジプト人が自分を殺す危険性があると思い、サラに、妻
ではなく妹だと言ってくれるように頼んだ。 思っていたとおり、サラはエジプトの王パロの宮廷
に召し入れられた。 パロはサラがアブラハムの妹ということで、アブラハムに羊の群れ、牛の
群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだを与えた。 しかし、主は激しい疫病をパロとその家
に下された。 主がどのようなかたちでパロに教えられたかはわからないが、パロはアブラハ
ムを呼び寄せて「なぜ彼女があなたの妻であることを告げなかったのか。」と非難した。 そし
て部下に命じてアブラハムを、彼の妻と、すでにパロが与えていた財産も含め、彼のすべての
所有物とともに送り出させた。
2回目もアブラハム、20章1節〜14節。 人間的な方法で、女奴隷ハガルから長男イシュマエル
が産まれてから13年間、神はアブラハムに顕現されず、沈黙されたが、13年経ってアブラハム
が99歳のとき、神は現われ再び約束のことばを語られた後のことである。 アブラハムはソド
ムとゴモラの滅びからすぐにモレの樫の木のあるところから、南のネゲブ地方へと移動し、ゲラ
ルに滞在。 そこでアブラハムは、エジプトのときと同様、サラを妹と言った。 ゲラルの王アビ
メレクはサラを召し入れた。 サラは90歳近くにもなっていたが美しかったので召し入れられた
という。 驚きである。 神は、夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ、「あなたは、召し入
れた女のゆえに死ぬ。」と言われた。 アビメレクは、「彼(アブラハム)が『これは私の妹だ』と
言い、彼女(サラ)も『これは私の兄だ』と言ったから召し入れたのであって、正しい心でしたので
す。」と主張した。 神はアビメレクが正しい心でサラを召し入れたことを認められた。
だから、アビメレクが罪を犯すことのないように、夢の中に現われたのだと仰せられた。 そし
て、「彼女をアブラハムに返していのちを得るためにアブラハムに祈ってもらいなさい。 返さな
ければ、アビメレクも彼に属するすべての者も、必ず死ぬ。」と仰せられた。 翌朝早く、アビメ
レクは彼のしもべを全部呼び寄せ、これらのことをみな語り聞かせたので、人々は非常に恐れ
た。 アビメレクは、「何ということを、してくれたのか。」と言いはしたが、アブラハムに羊の群
れや銀千枚などの財産を与えた。 その上、良いと思う所に住むようにと領地を提供した。
3回目イサク、26章1節〜11節。 飢饉がありゲラルの王アビメレクのところへ行った。 主は、
アブラハムの時には何も言われなかったが、 主はイサクに現われて仰せられた。 エジプトへ
下ってはいけないこと、示す地(カナンの地)に滞在すること、イサクと共にいて祝福すること、ア
ブラハムとの約束の再確認をイサクに語られた。 ところがイサクも妻リベカが美しかったの
で、その土地の人々にリベカのことを尋ねられると父アブラハム同様、妻リベカを妹と言い、自
分の身を守ろうとした。 かなりたったある日、イサクとリベカが夫婦である事実を、アビメレク
が知った。 アビメレクはイサクを呼び出して、「何ということをしてくれたのか。もう少しで、民
の一人がリベカに罪を犯すところだった。」と非難した。 アビメレクはすべての民に「この人
と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される。」と命じて言った。 イサクたちは引き続き、その
地に住み、種を蒔いたが、主が祝福され、妹と偽ったその年に百倍の収穫を見たという。
アブラハムの1回目は、明らかに失敗である。 神に求めることをせず、自分の考えで行動し、
自分の身を守るために妻サラを妹と言った。 ただ、このところで一番問題なのは、神に助け
を求めず、エジプトへ下ったこと、すなわちエジプトで助けを得ようとしたことである。 しかし、
神のご配慮により、結果的に、エジプトの王からの罰(殺されること)を受けず、妹と思ったから
こそ与えられた財産も没収されず、むしろエジプトに来た時より、追い出される時の方が豊か
になっていた。 また荒々しく追い出されたのではなく、丁重に扱われて出て行ったという感じ
を受ける。
聖書でエジプトとは「世」のたとえとして書かれているが、神に召された者は、世に頼ったり、世
の考え、常識、基準に留まっていてはならないということである。 アブラハムの場合、主が介
入されたので、「世」から出ることができた。 それは、神がアブラハムに「約束のことば」を語ら
れ、神ご自身がアブラハムを召し出され、彼に対してのご計画を持っておられたからである。
だから、エジプトから追い出されるというかたちで守られ、再び幸いな「神のご計画」の中に戻さ
れ、最初の「召し」に戻れたのである。 「神の賜物と召命とは変わることがありません。(ロー
マ11:29)」のことば通りである。 ちなみに「神の計画」も我々にとって幸いなものとそうでないも
のがある。
アブラハムの2回目とイサクの場合は、彼らの失敗ではあるが、神が良しとされたご計画の中
にあったことと思われる。 神も彼らが、妻を妹と言ったことを責めておられない。 むしろ、そ
のことを大いに用いておられるようでさえある。 アブラハムもイサクも放牧地を求めて放浪の
旅をしていた寄留者であった。 寄留者は、砂漠のような土地で天幕を張り、放牧しながら住
んでいた。 その土地の支配者や先住民たちの反感を買わないように、好意を得るためにと
気を使っていた。 なかなか厳しい状況下にあった。 当時としては、彼らの取った方法は止む
を得ないと考えられていたと思われる。 だから神は責められなかったのではないだろうか。
もちろん、そうであったとしても神に求めることをすべきではあった。 そのような中で、主はご
自身が約束された「ことば」を成就されるため、介入されたのであろう。
また、ゲラルの地は、神が約束してくださった「乳と蜜の流れるカナンの地」の中にある。 だか
ら、アブラハムもイサクも出て行く必要はなかった。 むしろ留まることがみこころだった。 そ
れで神はエジプトの王パロの時とは違い、ゲラルの王アビメレクには、彼の家の者たちの胎は
閉ざされたが、疫病(災害)を下すということはされなかったと思われる。 主は、アビメレクの正
しさを認められたが、これは、妹と言ったから、というだけの理由ならばエジプトの王も同じであ
る。 しかし、パロについて、聖書には「正しい心で行なった」とは書かれていない。 主がアビ
メレクを「正しい心で行なった」という表現を使われたのは、夢の中で主が語られた後、アビメ
レクはアブラハムに羊の群れや銀千枚などの財産を与えたこと。 アブラハムをゲラルの地か
ら追い出さず、住むための領地を与えたこと。 騙されたアブラハムではあるが、「主のことば」
通り、そのアブラハムにとりなしの祈りをしてもらったこと。 翌朝早く、すなわち「主のことば」を
聞いて直ちに、彼のしもべを全部呼び寄せ、これらのことをみな語り聞かせたこと。(それに
よって人々は非常に恐れた)
人の心の奥にある「思い」や「願い」また「人の道」を知っておられる主はアビメレクが、そのよ
うに行なうことを、ご存知だったのではないだろうか。(詩篇139:1,-3) アビメレクという名は王
の称号なので、イサクのときとアブラハムのときのアビメレクは同一人物ではないと思われる
が、イサクのときのアビメレク王はアブラハムのときの出来事を前任の王アビメレクから聞い
ていたと思われる。 だから、リベカがイサクの妻であることを知るとすぐに、すべての民に命じ
て「この人と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される。」と言ったのだろう。(創世記26:11)
さて、幸いな「神のご計画」に入れられている者は、試しや試練はあるが「神の恵み」に預かっ
ている者であり、主の祝福が増し加わっていく者であると言えよう。 事実、アブラハムは祝福
が増し加わった。 霊的な祝福だけでなく、実際的な物、すなわち家畜と銀と金とに非常に富ん
でいた。 そして、イサクもそれを受け継いだ。 ただ、人という者は本当に愚かな者であると
著者自身も自分を見て、つくづくそう思う。 しかし人間の弱さ、愚かさが全面に出て大きな失
敗をしたとしても、神のご恩寵を受けることができる、というアブラハム、イサクの体験は、我々
にとって大きな励ましとなる。 ならば、失敗をしても大丈夫だからと、何度も何度も同じ繰り返
しをするなら、そこが悪しき霊が入る入り口となり、働く要素となる。 また、何でもかんでもの
「失敗」というのではなく、主が定められた道を歩もうとしての失敗、主に従おうとしての失敗、
主の御心を行なおうとしての失敗というような「失敗」である。 キリストを足場にして歩んでいる
者は、日々の生活の些細なことでも上記の「失敗」に当てはまるであろう。
神はご自身が語られた「ことば」は、「神のご計画」通り行なわれる。 アブラハムやイサクの
場合も、神がアブラハムと交わした契約を、神ご自身が成就されていくにおいて、神が最善と
思われることをなさり、神が良しとされる許しをなさっただけである。 それが、我々人から見る
と突拍子もないこと、不条理だと見受けられる場合も多々ある。 しかし、我々は、最善の策を
取られた神のなさったことであることを認めて、へりくだっていくべきである。
いずれにしても、今日の我々には「神のことば」である「主イエス・キリスト」がおられる。 だか
ら、この「キリスト」、「主と主のことば」に本当に返り、そこに留まるならば、自分(自我)は砕か
れ、肉は、切り取られ、幸いな「神のご計画」の中に入れられていること、「神の采配」や「神の
ご恩寵」を体験できるであろう。 ただ、口先だけでなく、本当に真に返るならばである。 案
外、「キリスト」のところに返っている、「主と主のことば」に戻っていると言いながら、返っている
つもり、戻っているつもりの者が多いのも事実である。 主は人の心の奥にある人の「本当の
思い」、「本当の願い」すなわち神に対する「本心」、「本音」を見ておられる。 絶えず、すべて
のことにおいて自分の前に主を置き、主の主権を認めていき、主の基準を知っていくことに取
り組んでいきたいものである。
★旧約聖書 詩篇 16:8
私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
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