めんどり通信/2014年3月2日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <主に選ばれた者の日々の歩み方:アブラハムから学ぶ> |
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★旧約聖書(口語訳) 詩篇 37:23,24
人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。 たといその人が倒れ
ても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。
★新約聖書 マタイによる福音書 22:14
招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。
●創世記に登場してくる「信仰の父」と言われるアブラハムの生涯からは多くを学ぶことができ
るが、その中から一つでも受け取っていきたいものだ。 簡単にアブラハムの生涯を書いてみ
る。 アブラハムはカルデヤのウルという町で生まれた。 アブラハムの父親テラは、アブラハム
と、孫のロトと、アブラハムの妻である嫁のサラとを伴い、カナンの地に行くために、ウルから
出かけた。(創世記11:31) ウルを出ることについて、神がテラに示されたのかアブラハムに
示されたのか、それとも何の示しもなく出たのかはわからないが、ウルを出たことが、11章27
節の「テラの系図は次のとおりである。」と11章32節の「テラは二百五年の生涯を終えて、ハラ
ンで死んだ。」の間に記されているので、アブラハムは、父テラに連れられてウルを出たという
ニュアンスの方が強く感じられる。 そして、彼らは途中カランまで来たが、そこに住みつき、そ
の地でテラは死んだ。
アブラハムが75歳のとき、主が彼に「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出
て、わたしが示す地へ行きなさい。(12:1)」と言われた。 主がアブラハムに直接、語られたこ
の時からアブラハムにとって神と直接、かかわる人生が始まった。 アブラハムに神がこの「こ
とば」(12:1)を語られたのは、すでに生まれ故郷のウルを出てカランの地に住み着いていたと
きであった。 しかし神は、そのように仰せられた。 15章7節でも神は、アブラハムに「わたしは
あなたをカルデヤのウルから導き出した主である。」と言われているが、アブラハムが「神のこ
とば」を聞いたのは75歳のときだが、神の中では
アブラハムが誕生した、いわば最初のときか
らアブラハムにご計画を持っておられたということである。
成人になって改心した パウロも「…生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくだ
さった方が(ガラテヤ1:15)」と言っているが、主なる神は、ご自身が選ばれた者に関して、
我々の方がまだ主を知らず、主を受け入れていなかったとしても、その選ばれた人のために
計画を定めていてくださり、じっと我々を見て、「その時」を待っておられる。 主イエスキリスト
を信じた者が、明確にキリストとの交わりが始まる時がある。 たとえ親がクリスチャンで、その
子どもも幼いときから聖書の話しを聞いたり、教会へ行ったりしていたとしても個人的にはっき
りとキリストを信じる者としての始まりの時がある。 その形は人によって様々だが、確かに主
が語られる時がある。 聖霊が明確に働かれ、導かれる時がある。
さて主はアブラハムに約束の「ことば」を語られた。 「あなたを大いなる国民とする(12:2)」「地
上のすべての民族は、あなたによって祝福される(12:3)」「あなたの子孫にこの地を与える。(1
2:7)」
カナンに到着後、激しい飢饉があり、アブラハムはエジプトへ避難した。 神との直接
の関わりの生活に入ったはずだが、アブラハムは神に求めることをせず、自らの判断で行動
した。 結果、妻サラが美しかったので自分の身を守るためサラを妹と偽った。(ふたりは異母
兄妹なので半分は本当) サラはパロの宮廷に召し入れられたが、主はエジプトの王と、その
家をひどい災害で痛めつけ、王に真実を夢で知らせた。 偽ったアブラハムではなく、サラのこ
とを知らずに召し入れたエジプト王パロに災害が下るとは、何とも不公平というか理不尽なこと
と思われるかもしれないが、サラを守るためにそうなさったのであろう。 その上、アブラハム
は、以前より多くの財産(羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだ)を得
てエジプトから送り出された。
その後、互いに持ち物が多かったので、甥のロトと羊の牧草をめぐって争い、ロトと別れること
になり、ロトに優先権を与えた。 アブラハムは、神にゆだねたのである。 ロトと別れた後、主
はアブラハムに仰せられた。 「立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、
その地を与える。(13:17)」
また、ロトが、エラムの王ゲドムラオメルと彼にくみする王たちにさ
らわれたときには、アブラハムはロトを救出に行った。 18章に記されているが、ソドムとゴモラ
が滅ぼされることを知ったときには、アブラハムはロトのためにとりなしをした。(18:16、18:33)
ロトの救出のために戦い勝利を得た後、王たちが反撃に来るのではないかとアブラハムに恐
れが生じた。 そのことをご存知の主は「恐れるな。わたしはあなたの盾である。」と仰せられ
た。 また、子どもがいないので子孫繁栄の約束について尋ねるアブラハムに「あなた自身か
ら生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない(15:14)」「あなたの子孫は空の星
のように多くなること」と主は語られた。 15章6節に「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認
められた。」と書かれている。
しかし、アブラハムは「主と主のことば」を信じたが、約束を待つことにおいて失敗した。 アブ
ラハムに神は何回も「子孫繁栄の約束」、「地上のすべての民族を祝福する者になる約束」、
「子孫に土地を与える約束」を語られた。 アブラハムはそれらの「ことば」をサラに話したと推
測できる。 しかし、高齢であるという現実を見ていたサラは、アブラハムに女奴隷ハガルに
よって子どもを与えられることを進言した。 アブラハムはサラの言うことを聞き入れた。 「善
悪を知る木」から取ってアダムに与えたのはエバだったが、アダムが「わたしの骨の骨、わたし
の肉の肉(創世記2:23)」と喜びはしたが、優先順位を神より妻に向けたことが、ずっと夫たる
者の弱さとして受け継がれているようである。 人間的な方法で、女奴隷ハガルから長男イ
シュマエルが産まれた。 この時から13年間、神はアブラハムに顕現されず、沈黙された。
13年経ってアブラハムが99歳のとき、神はアブラハムに現われ再び約束のことばを語られた。
そして、アブラムをアブラハム(多くの国民の父)、サライをサラ(国々の母)と改名を命じられた。
また、サラから子どもが産まれる約束を語られた。 この頃、ソドムとゴモラが滅亡した。
ソドムとゴモラが滅亡した後、アブラハムは天幕を移動した。 そこはゲラルの王アビメレクが
支配していた領土であった。 妻サラは美しかったので、エジプトの時と同様、アブラハムは妻
サラを妹と偽った。 案の定、アビメレクに召し入れられた。 しかし、神が介入されると、アビメ
レクは羊、牛、男女の奴隷などを取ってアブラハムに与え、また、妻サラを返して、好きな所に
住んでくださいと提示し、銀千枚をアブラハムに与えた。 そうしてサラの名誉を取り戻した。(2
0:1-18)
それにしても、当時は寿命が長いとはいえ、90歳近くで王に召し入れられるほど美し
いというのも驚きであり、エジプトでもここでも、半分は本当だといえども、やはり偽っているの
に、主はそのアブラハムを咎めるどころか、反対にその度、富ませていることも不思議で、人
には理解し難いことである。 ただ言えることは、人が理解し難いことであれ、神がなさることは
すべて正しいということ。 その理由を人が知ることが必要な時には教えてくださるであろう。
約束の子イサクが、アブラハムが百歳、サラが90歳のとき生まれた。 アブラハムが120歳頃、
アブラハムにとって最大の神からの試し、試練があった。 イサクを神にささげよということであ
る。 アブラハムは神を信頼してイサクを実際、ささげようとして、その試しに見事、合格した。
その後、137歳の頃、サラの死と埋葬があった。 それから、ケトラと再婚した。 140歳の頃、
イサクがリベカと結婚。(25:20) 175歳で長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死んだ。
こうして見ると、アブラハムの人生すべてが神のご計画のうちにあったことがわかる。 人生最
大と言える失敗をして神の顕現、主の語りかけがなかった13年間は、アブラハムにとって苦し
み砕かれた時であろうと思われる。 聖書にその期間のことについては何も書かれていない
が、アブラハムが99歳になったとき「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と仰せられ
た「主のことば」からそのような期間さえ、神のご計画のうちであり、神の方がじっと待っていて
くださったと思われる。 そういう意味では、アブラハムは聖霊の流れに乗っていた。 アブラハ
ムには、常に神の導き、神の采配があった。
この神の導きがあるかどうかは大切なことである。 日々クリスチャンとして正しく生活している
と思っていても、そこに神の導きがあるかどうかが重要である。 クリスチャンは、一人一人、
その人にとっての要所要所で神からの試し、試練訓練を受けながら成長していく。 そのとき
に、気負いも肉の真面目くさったものも、道徳的、倫理的、律法的なものも削がれていく。 そ
うして主に頼ることが自然体になっていく。 そのように日々を過ごしながら整えられていく。
アブラハムを見ていると、神に従うことが律法的になっていない。 道徳的になっていない。
ただ、素直で言動にわざとらしさや無理がないように感じられる。 要所要所で神とのかかわり
が明確にあらわれ、神からの「ことば」を多く聞いているが、それ以外は特別、突出して目立っ
ている感じはなく、普通通り人間らしい生活をしているという印象を受ける。 選民ぶっていな
い。 今のことばで言えば、クリスチャンぶっていない。 とても人間らしく感じられる。 またそ
のような生活のあり方だが、確実に神の定められた道に乗って進んでいるという印象を受け
る。 アブラハムが従うことも失敗することも普通の生活をすることも、神の大きな御手のもと
で自然に行われている印象を受ける。 クリスチャンが、クリスチャンらしくあらねばならない、
などのような気負いや極端な几帳面さは感じられない。
大切なことは、どれだけ主のために働いのたか、どれだけ教会のために仕えたのか、どれだ
けクリスチャンらしく真面目に生きたのかではなく、どれだけ神にかかわって生きたのか、どれ
だけ神に信頼して生きたのか、どれだけキリストにつながり続けたのかである。 我々クリス
チャンは道徳的、律法的にならないように気をつけるべきである。
アブラハムは「信仰の父」と呼ばれるくらいの者だから、神に選ばれているのは当然だと思うか
もしれないが、我々は過去に生きた聖書の歴史上の人物の様子を聖書で読むからそのように
わかるが、アブラハムが実際、生きていた当時、アブラハム自身もアブラハムを知っている者
たちも彼がどうなるのか、どのように進んで行くのかを明確に知ることはできなかったはずであ
る。 人生がすべて終わった時に、選ばれていたのかどうかがわかるものである。 だから、現
在の我々においては、誰がアブラハムのように、ダビデのように、ペテロ、パウロのように、明
確に選ばれているのかはわからない。 最期の時、判明するであろう。
だから今、主イエス・キリストを信じている者は選ばれた者としてへりくだって主の御心を知ろう
と取り組むべきである。 絶えず、主なる神とかかわりを持つことに真剣に取り組み、キリスト
にしっかり、つながり続けることに真に取り組むべきである。 そのような心を主は見ておら
れ、導いてくださるであろう。 ただ、それらのことにおいて、ひとりよがりにならないよう注意
すべきである。 とにかく日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりく
だって、真の「主の交わり」をしていきたいものである。 日々の生活で、絶えず祈り、主が望ま
れる祈りができるようになって、ますます深く、主と交わり、主を知っていきたいものである。
★新約聖書 ローマ人への手紙 11:5
それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。
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