めんどり通信/2014年2月9日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <主により頼むことについて> |
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★旧約聖書 箴言 3:5,6
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。 あなたの行く所どこにおいても、主
を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
★旧約聖書 詩篇 27:4
私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家
に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。
★旧約聖書 イザヤ書 30:15
神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あな
たがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」・・・
●主により頼むことについて考えていた。 旧約時代、イスラエルの王ソロモン以降、国は二
分してしまった。 神に喜ばれ、知恵と富を与えられ、神に従っていたソロモンが偶像の神に従
い出したからである。 神は王国を引き裂いて、ソロモンの家来に与えることを宣言された。
(T列王記11章) 北イスラエル王国である。 しかし、神はダビデに、「彼(ソロモン)はわたし
のために一つの家を建て、わたしはその王座をとこしえまでも堅く立てる。(T歴代誌17:12)」
との約束をされていたので、ユダ族を残された。(T列王記11:13) 南ユダ王国である。 北イ
スラエル王国は、ソロモンの家来ヤロブアムから始まり、アッシリヤによって滅亡するまで20人
の王がいたが、誰一人、主のために立とうとするものはいなかった。 一方、南ユダ王国で
は、ソロモンの子レハブアムから始まり、バビロン捕囚まで20人の王がいて、その内、8人は
「善王」として記されている。
「善王」とされているのは、3代目アサ、4代目ヨシャパテ、8代目ヨアシュ、9代目アマツヤ、10代
目ウジヤ、11代目ヨタム、13代目ヒゼキヤ、16代目ヨシヤである。(めんどり通信/2012年2月
19日参照) 彼らは、「善王」と言われているが、神への「信仰」を完全に全うできたとは言えな
いかもしれない。 そもそも聖書でいう「善王」というのは、国のため、国民のために尽力を尽く
したというようなこの世の基準ではない。 王たちが、どれほど神に寄り頼んだか、どれほど主
に尋ねたか、主に求めたか、が基準である。 すなわち「ダビデの主により頼み続けた生き方」
が基準である。(T列王記15:5、15:11) それに応えるべく、「善王」と言われたそれぞれの王
が、王として即位してから、偶像礼拝を排除すべく宗教改革を断行したり、いろいろ主の目に
かなうことを行なった。 彼らが生き抜いてきた当時の厳しい状況の中で、宗教改革などを断
行するには、主により頼らなければできないことであった。 主により頼みながら、「善王」たち
は、主の御前に活気付いていた。
しかし、「善王」の彼らが、生涯の終わりまで、「信仰の勇者だった」、「主により頼み続けた
者」、すなわち「へりくだった者だった」とは言えない。 厳しい状況の中で、主により頼んで宗
教改革をしたかと思えば、敵が攻めてくると、主により頼まず、目に見える他国の王により頼
んだり、他国と縁を結んで国を守ろうとした。 また、指導者的祭司や霊的教育者の存命中
は、彼らの助言や導きによって、主の目にかなうことを行なったが、神の守りや祝福が大きくな
り、勢力が強くなってくると自己中心になったり、高ぶったりして、主により頼まなくなっていた。
アサ王の場合などは、治世41年の内、ほとんどは主により頼んでいた。
しかし、晩年の5年間
は、主に頼らなかった。 「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあ
ろうか。」とイザヤ書2章22節に書かれているが、アサ王は他国の王、しかも敵国により頼ん
だ。 その上、その過ちを指摘した預言者に対して怒り、彼に足かせをかけた。(U歴代誌1
6:10)
その後、両足とも重い病気にかかったが、その病の中でさえ、彼は主を求めることを
しないで、逆に医者を求めた。(U歴代誌16:12) 治世41年のうち36年間も主により頼んでき
たのに、なぜ、主により頼まなくなったのだろうか。
アサ王と他の「善王」といわれた王たちに共通することは、主により頼んで問題が解決したり、
奇蹟を体験していくうちに、「神の恵み」に慣れていき、傲慢になったこと。 主により頼んで、
主から与えられた勝利を、あたかも自分の力で勝ち取ったかのように思い込んだこと。 敵か
らの守りなどの問題に関係なく、「神と自分」の「一対一のつながり」、「一対一の関係」がしっか
りしていなかったことなどである。
これらのことからわかることは、人というのは、心の底から変えられていないと、イザっというと
きに「その人自身」が出るものであるということだ。 生まれながらに皆、主の御前にへりくだっ
た者ではない。 神に対する「へりくだり」は、神から与えられるものである。 この「へりくだり」
は神が人に与えようと望んでくださっている「神の恵み」のひとつである。 そして、我々が求め
て与えられる「神の恵み」ではなく、神の方から人に与えたいと望まれているこの「神の恵み」を
受け取るためには、その人の内側が、その「神の恵み」を受け取ることができる状態になって
いる必要がある。 ところが、人の内には、譲ることのできない「自分の考え」「自分の願い」
「自分の思い」「自分の計画」「自分の・・・」が、しっかりと岩のように固まっている。
それは、自分の努力、精進で砕くことはできない。 その周りの小石くらいは、払い除ける程度
のことはできる人も中にはいるかもしれないが、その岩を砕くことができるのは、神ご自身だけ
である。 これが、「自我が砕かれる」、「肉(生まれながらの神に従うことができない性質)が切
り取られる」ということである。 「自我が砕かれ」、「肉が切り取られ」た者が、主により頼み続
けることができるのである。 もちろん、これらのことは、過程において、一度に全部砕かれ
た、切り取られた、というわけにはいかないようである。 段階的にという人もいれば、徐々にと
いう人、一度は大きく砕かれ、後は徐々にという人など、一人一人によって過程はいろいろで
ある。 また、 「主により頼る」ことは、自分にとって都合が悪くなったときだけではなく、常に
頼るべきである。 それは、常に「主と共にいる」「主のもとに留まっている」ということである。
これが「信仰を全うする」ということであり、「最期まで主により頼む」ことである。 パウロが言っ
た、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」ということである。
(Uテモテ4:7)
神は、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべ
てのことを働かせて益としてくださる」方であるから、南ユダ国の「善王」たちも、敵からの攻撃
を受けているとき、守りのために主により頼むときなど、そのことだけに集中するのではなく、
自分の心の奥にあった「思い」に注意を払ってみることが必要だったかもしれない。 「思い」の
中に、「自分自身」、「本心」があらわれているものである。 我々は、日々の生活の中で大小、
様々な出来事、事があり、何もしなくても絶えず「思い」は心の中を巡っている。 その「思い」
に注目してみることが大切であろうと思われる。 旧約のヨブほどでなくても、人はやはり神か
らの訓練試練を受けて砕かれ、整えられる必要がある。
いずれにしても、日々の生活の中で、心の深層部に隠れているかもしれない主が「良し」とされ
ない「思い」「願い」に気づかせてくださるようにと願う。 主が自我を砕き、肉を切り取ってくだ
さって、聖霊が存分に働かれやすい心に変えていただきたいものである。 そして、「主なる神
と自分」の「一対一の関係」をしっかりしたもの、すなわち「キリストにしっかりつながること」に取
り組んでいきたいものである。
★旧約聖書 詩篇 40:4
幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その
人は。
★旧約聖書 イザヤ書
志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼してい
るからです。
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