めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年1月19日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<人が死ぬことについて:「世」に「異常に執着」するな>



★新約聖書  ヘブル人への手紙 9:27
   そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている
 
★新約聖書  ヨハネの手紙 第一 2:15
       世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その
   人のうちに御父を愛する愛はありません。
 
★新約聖書   マタイによる福音書
       からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものよ
       り、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
 
●この世に生まれ出た人が必ず経験すること。 それは「死ぬ」ことである。 今までも多くの人
が死んで行った。 今後も多くの人が死ぬであろう。 病死、事故死、老衰、自殺、…と死に方
は様々であるが、一人一人にとって、その時が寿命の時であろう。 幸せな死に方、不幸な死
に方、苦しんで死ぬ、楽に死ぬ、どのようであっても「死ぬ」ことにかわりはない。 同じである。
 
そして、「死ぬ」が終わったら、「死後の行き先」がある。 死んだら何もわからなくなる、死後は
無である、死後の行き先はみな天国、…など一般的によく言われている。  死後の行き先に
ついて、仏教など他いろいろな宗教によって「教え」があるようだが、約20年以上前、人間が死
ぬことについて、世界中の臨死体験をした人をリポートしてNHKスペシャルとしてテレビで放映
されたことがあった。 出版物も出され読んだことがある。 臨死体験者の共通していたこと
は、文化や宗教の違いはあっても、その人の人生が走馬灯のように映し出されたことだとい
う。 誰も皆、「忘れていた」、「そんなこと言った覚えはない」、「そんなことした?」、「そんなこと
を思ったことなどないはずだ」などとの言い逃れができないという。 そして、更に共通していた
ことは、霊魂は、肉体が終わっても存続すること。 肉体がなくなる(死ぬ)ことは、無になるの
でも、何もわからなくなるのでもないということ。 肉眼で見えるものではない、何か偉大な存在
する者がおられるということなどであったという。 
 
そもそも「死」は、聖書には、神によって造られた最初の人アダムの不従順によって入ってきた
ものであると記されている。 「罪の支払う報酬は死である」と書かれている。(ローマ6:23) そ
「死」は、人間の肉体的なものだけでなく、霊的なものもある。 神は霊である。(ヨハネ福
4:24) その神との交わりが「死」によって絶たれた。 その後の人間に対して神の見方は、
「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。(エレミヤ書17:9)」、「義
人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。(ローマ3:10)」
であり、だから「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」ということ
である。 
 
神との交わりが絶たれ、神の栄光を受けられなくなった人間は、自分たちの力で栄誉を得よう
とし、自分たちの力で自分たちを守ろうとした。 天にまで届かそうとバベルの塔を建てた人
間。(創世記11章)   人間は傲慢になってしまった。 罪のゆえである。 アダムとエバ以来の生
まれながらの人を聖書では「肉」と呼んでいる。 「肉の人」=「罪の人」は、世に執着する。 
「この世の君」がサタンであるから無理もない。 「肉の人」「罪の人」は、「世と世のもの」すな
わち、「世と世の欲」「世」に惹かれて行く。
 
また、人が死ぬことを「異常に」恐れたり、世に「異常に執着する」のは、ある意味、「罪人」
姿である。 もちろん、幼い我が子を世に置いて先に死ぬのは忍びないというようなことは、当
然の感情である。  「異常に」というのがポイントである。 マタイによる福音書10章29節には
「…そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」
書かれているように、本来、人の寿命は、神が定めておられる。 しかし、我々人は前もってそ
の寿命の長さを知ることはできない。 ただ、人の「その時」が来た時には、潔くそれを認める
ことが大切であろう。 潔(いさぎよ)く認める間もないままの人もあるだろうが、それでも、普
「世」にどれだけ執着しているかしていないかで潔(いさぎよ)さがわかるというものである。 
 
「世」「異常に執着」している者は、土壇場になったとき、何がなんでも生きたい、どのような
者であろうが、悪魔であろうが、 悪霊であろうが、助けて生かしてくれるなら、それにすがりつ
く。  その姿は、例えば、しわくちゃの年老いた者が崖っぷちで物凄い形相で上半身を使って
何としても這い上がってやるぞといった凄まじく醜い姿、いわば「世と世のもの」「異常に執
着」している姿である。 それでも誰かが助けに来てくれると余裕を持つが、一向に助けが来
ず、そうかと言って、真の神、主イエス・キリストに頼ることもせず、更に体が谷底へ落ちそうに
なり、かろうじて指先2、3本だけでしがみついて命を必死につなごうとする姿。 そして、一時の
ような余裕は全くなくなり、汗だくになって、谷底に落ちまいと、とにかく焦って必死なときに、サ
タンか悪霊が来て助けてくれると言えば、喜んですがるという、そのようなイメージである。 そ
れは悪しき霊と結託した姿とも言える。
 
だから、「世」「異常に執着」しているそのような者は、表面は穏やかであっても、心は崖から
落ちそうになったとき、「異常に執着」していた形相と同じである。  この地上生活の中で、「サ
タンも光の天使に擬装する」のと同様、善人、悲劇の主人公を演じて生きていく可能性があ
る。 当時のパリサイ人や律法学者たちと同様である。 このことに案外、当人は気づいてい
ない場合があり厄介である。 しかし、イエスは、善人に擬装している彼らに「あなた方の父は
悪魔である」「あなたがたは父(悪魔)の欲望どおりを行おうと思っている」と言われた。  「死
後どこへ行くのか」を明確に悟っていないこと、「死後の行き先」「死について」書かれている
「聖書のことば」やそれらを語られた「主なる神イエス・キリスト」に背を向けることが、余計に
「世」に、「異常に執着」させることになっているのかもしれない。 主が良しとされたパウロやペ
テロたち聖書の登場人物は、明確に「死について」と「死後の行き先」などについて悟っていた
と思われる。 そして、何よりも「主なる神を愛し」「主と主のことば」通りに従うことができるよ
うに整えられていた。 
 
人には一人一人、神が定められた寿命がある。 その寿命の間、とにかく「世」「異常に執
着」することがないように、絶えず、自分の思い、願いなどを吟味していきたいものである。 キ
リスト者(クリスチャン)というならば尚更である。 ただ、キリスト者(クリスチャン)の場合、決し
て律法的になってはいけない。 律法的になることは、キリストに背を向けることになり得るか
らだ。 この地上の歩みの足を、主と共に進めて行くならば、主が教え導いてくださるであろう。 
「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。…」という生き方、
死に方こそが、神が我々人に望んでおられることである。(ローマ14:8) いずれにしても、
我々は日々の生活において、絶えず、主のみこころは何であるかを悟ために、主イエス・キ
リストから目を離さず、聖書を読み、祈っていきたいものである。(エペソ5:17)
 
★新約聖書  コリント人への手紙 第二 13:5
   あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。
 
★新約聖書 ヨハネの手紙 第一 2:17
 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。



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