めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年12月22日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「主の戦い」「霊の戦い」で我々がすべきこと>



★旧約聖書 イザヤ書 30:15
   神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あな
   たがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」…
 
★旧約聖書 イザヤ書 66:2
 これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。――主の御告
 げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。
 
旧約聖書、ヨシュア記に記されていることから、「主の戦い」「霊の戦い」で我々がすべきこと
を考えてみる。 約4百年間、、エジプトで奴隷として苦しんできたイスラエルの民を、神はモーセ
を用いてエジプトから脱出させられた。 そのモーセの後をヨシュアが引き継ぐようにと召され、
イスラエルの民は、ヨシュアを先頭にヨルダン川を渡った。 神が約束してくださった「乳と蜜の
流れるカナンの地」に入り、その約束の地を実際に獲得するため、これから戦いが始まる。 
カナンの地では、近親相姦、同性愛、自分の子どもを火の中に通して、モレクにささげること、
動物と寝る・・・など、様々な罪と汚れが頂点に達しており、悔い改めの余地もなかった。  だか
ら神はカナンの攻め取った町はすべて聖絶せよと言われた。 
 
しかしその中でも、エリコに住む遊女ラハブなどイスラエルの噂を聞き、彼らに降伏をし、悔い
改めに至った人は赦されている。 最初に占領する エリコの町は、町のまわりは頑丈な壁で
囲まれており、門は閉ざされていた。 ヨシュアがエリコの近くにいたとき、ひとりの人が抜き身
の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。 ヨシュアは警戒し思わず「見方か敵か」と言う
と、その方は「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」と言われた。 そして、「主の
軍の将」がヨシュアに命じられた戦略は、戦士はすべて、六日間、町の周囲を一度回り、七日
目には、七度町を回り、七度回り終えたら、祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その角
笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげること。 町の城壁がくずれ落ちたな
ら、民は町に突入し、この町を占領する、ということである。 また、ヨシュアは民に命じて言っ
。「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではい
けない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。(ヨ
シュア記6:10)」  この戦いは、「主の軍の将」が率いる「主の戦い」である。 イスラエル人た
ちは、命じられた通り、黙って静かに主のみ力が現われるのを待っていたということである。 
 
ある姉妹が今月、夢を見た。 姉妹は、主から「ことば」を与えられ、訓練試練が長年続いてい
る。 悪しき霊からの攻撃は年々、強くなっていたが、その過程において、姉妹の肉(生まれな
がらの性質)は切り取られ、整えれていった。 しかし、「ことば」の完了、成就が成されたなら、
主の働きを存分にさせていただけることを示されていた。 そのような中、夢を見たのである。 
明らかに主からの示しであると受け取った。 夢なので、ハチャメチャなところ、意味不明のと
ころがあり、忘れてしまったところも多いが、内容はこうである。 「家のすぐ近くまで敵の大群
が来た。 どこが出発点かはわからないが、ついにここまで来たかという感じを受けた。 あま
りにも多い群なので(姉妹は)、あたふたしていた。 すると、「あなたは、そちらに居なさい
(控えておきなさいという意味あいで)」という声が聞こえた。 (姉妹の)主人もそこの場所に一
緒にいた。 こちらの我々の方の陣営を見ると光輝く金の延べ棒(板)があった。 こちらから、
代表で8名か12名、がたいの大きな者たち、勇士が戦いに出かけようとしていた。 「10分でか
たをつける」と言った。 胸には胸当てをし、黄金の武器(盾、槍みたいな物)を持っていた。」 
 
この夢を聞いたとき、与えられている「ことば」の成就、完了の時が近いと感じた。 金の延べ
棒(板)がこちらの陣営にあるということは、今までの訓練試練の過程を通り抜けたしるしとして
与えられていると判断できる。 ポイントは、「あなたは、そちらに居なさい」「控えておきなさい」
ということである。 エリコ占領のとき、ヨシュアを通して言われた「あなたがたの声を聞かせて
はいけない。また口からことばを出してはいけない」と同じである。 主のみわざ、御力、救いを
黙って待つのは良いことである。(哀歌3:26) それが、主に信頼していることであり、へりく
だっていることである。 また、こちらの我々の方の陣営に金の延べ棒(板)があったということ
も大切なポイントであろう。 荒野の訓練を通り抜けることは必要なことであるからだ。 
 
さて、イエス・キリストを真に信じて「神の子」とされた者が、神からの試しや訓練試練を通るう
ち、自我が砕かれたり、肉が切り取られたりして、清められ整えられていく。 訓練試練の内容
は、一人一人によって皆違うが、その中には悪しき霊からの攻撃がある。 それこそ「霊の戦
い」が必要になってくる。 パウロも「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、こ
の暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:1
2)」と言っている。  「霊の戦い」「主イエス・キリスト」が、「主の軍の将」として戦ってくださる
「主の戦い」である。 だから軽々しく、「主の御名によって悪霊よ出て行け」などと騒ぎ立てるよ
うなことをすべきではない。 「主の戦い」「霊の戦い」は厳粛なことである。 「主の軍の将」
陣頭に立たれて「主の軍」「神の軍」を、率いておられるのである。 我々は、「主の軍の将」
あられる「主イエス・キリスト」の前にへりくだり、主の命令の「ことば」を聞いて、その通りに従う
のみである。 主が勝利をしてくださって、その勝利を我々に見せてくださり、体験させてくださ
るから、我々は一人一人に応じた働きができるのだ。 その働きをすることが敵陣に攻め入る
ことになる。
 
我々「神の子」とされた者たちは、祈りつつ、一人一人に応じて与えられた「主のことば」「主
のみこころ」に返ることに取り組んでいるなら、主の勝利に預かって前進することができる。  
我々がすべきことは、ヨシュアの箇所や姉妹の夢でわかるように、主が戦ってくださっているそ
の脇、陣地で祈りつつ、「控えておくこと」「静かにじっと待つこと」である。 その脇、その陣地
は、「主の軍の将」「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所で
ある。」とヨシュアに言われた「聖なる所」である。 だから、そこで「控えておくこと」「静かに
じっと待つこと」がへりくだることであり、主に従うことである。  たとえ悪しき者たちからの攻撃
が強くても、静かに主に信頼してじっと耐えるのである。 そのときの苦しみ、辛さは、決して無
駄にならない。 主が、無駄になさらない。 むしろ益にしてくださる。 主に心から感謝する! 
そうして、主の勝利が実際に現わされた時、毅然と立って、一人一人に与えられている務め、
働きをすることができる。  それが、イスラエルの民が、エリコの城壁が崩れた所から攻め入
り、敵を聖絶したことと同じである。
 
いずれにしても、荒野の過程を通って来たから、「主の軍の将」が来てくださるということであ
る。 そして「主の戦い」をしてくださるということである。 イスラエルの場合、出エジプトした者
たちは皆、ヨシュアとカレブ以外は、荒野で死んだ。 荒野の試し、訓練に耐えられなかった。 
耐えられなかったというより、神に反抗した。 自我が砕かれること、肉が切り取られることを
嫌がり、自分の願望、思いを遂げようとした結果、彼らは神が約束してくださった「乳と蜜の流
れるカナンの地」に入ることができなかった。 だから、荒野で生まれた第二の世代の子たち
が、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入った。 荒野は、いわば「神の試しの時」であり、「神の
試しの場所」である。 だから、キリストを信じて、「神の子」とされた者たちが、荒野の訓練試
練を通って初めて、「主の軍の将」が抜き身の剣を手に持って来て下さり、「主の戦い」「霊の
戦い」をして下さる。 そして、荒野を通って、そこまで来た者がすべきことは、主が戦ってくださ
るのを静かにそこに留まって待っていることである。 留まっているときルンルンな気持ちで待
つことができない場合が多々である。 その場に留まっていても悪しき霊の攻撃の矢が止まな
いことがあるからだ。 それでも、あたふたせずに祈りつつ、じっと待つ。 そのようにしている
者に主は、必ず、「主の勝利」を与えてくださる。 そして「主の勝利」が明確に現われたとき、
敵陣に攻め込むことができるようになるのである。 すでに「主と主の軍勢」が勝利してくださっ
ているからである。 これが「霊の戦い」「主の戦い」である。 
 
真のキリスト者(クリスチャン)は、まだまだ獲得すべきものが多くある。 あのパウロが、晩
年、「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようと
して、追求しているのです。(ピリピ3:12)」と言った。 キリスト・イエスにおいて上に召してくださ
る神の栄冠を得るために、ますます深く、主イエス・キリストご自身を知ることが必須である。
 
とにかく、確実に約束の地(天の御国、永遠のいのち)を獲得していくためにも、真に主に信頼
し、悪しき霊の影響から守られ、またきちんと的を得た祈りをしていきたいものである。 今、荒
野を通っている者は、決して出エジプトした第一世代のイスラエル人たちのように、神に反抗す
ることがないよう、主に寄りすがり続けることをしていくべきである。 荒野を通り、「主の軍の
将」が来てくださっている者たちは、キリストが「主の戦い」「霊の戦い」での勝利を与えてくださ
るまで、祈りつつ、静かに控えておき、じっと耐えながら待っていくことをすべきである。 また、
主イエス・キリストを真に受け入れていない者たちは、神が与えようとしておられる「神の恵
み」「永遠のいのち」を受けるため、信仰を吟味して、腹の底から「キリスト」を受け入れていく
ことをすべきである。 神は、心の底からへりくだり、神を恐れるものに目を留めてくださる。 
そしてそのような者に主は働いてくださる。 いよいよ、へりくだって「主と主のことば」に従って
いきたいものである。 聖霊の流れに乗っていきたいものである。
 
★新約聖書  ペテロの手紙 第一 5:6
   ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時
   に、あなたがたを高くしてくださるためです。



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