めんどり通信/2013年11月24日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <みこころ> |
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★新約聖書 マタイによる福音書 6:10
御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
★旧約聖書 箴言19:21
人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。
●主イエス・キリストを信じて、クリスチャンになり、神の恵み、神の愛を体験すればするほど、
生活の中で神のみこころを知って、生活の基準にしたいと願うようになるものである。 クリス
チャンがよく口癖のように「神のみこころのままに」「主のみこころのままに」と言うのをよく聞く。
聖書に「愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。(エペソ5:17)」と書
かれているからだ。
さて、この「みこころ」は原語では「ト・セレーマ」といい、「御父の意志、御旨」だという。 すなわ
ち、「みこころ」とは、人間に向けられた「神のご意志」と言えよう。 「神のみこころ」とは、「神
のご計画」である 「神の計画」は、我々には想像もできないほど、壮大なものであり、緻密(ち
みつ)なものである。 聖書には、「神の計画」が書かれているが、それでも、隠されているとこ
ろも多いと思われる。 ただ、すべてを見ることはできないと思われるが、この地上で時が経っ
ていき、そのつど、「神の計画」の実際を見ることができる。 中には、前もって「主のことば」が
預言として与えられたり、ビジョンとして与えられたりする者もいるようである。
いずれにしても、「神の計画」は、宇宙的なもの、世界的なもの、個人的なものと我々人から見
るなら、大きな計画、小さな計画とあるが、どの計画においても、あらゆる分野、すべてのこと
において詳細に、且つ綿密に立てられている。 この「神の計画」、すなわち「神のみこころ」
は、あらかじめ、神が定められたものである。 一旦、神が定められたものは、誰も変えること
はできない。 また、どのような妨害も効き目がない。 人やサタン、悪霊どもが、どんなに働い
たとしても、「神の計画」を変えるための妨害にはなり得ない。 「神の計画」は、何ものも寄せ
付けず、神ご自身の思うまま行なわれる。 だから、必ず、成就される、実現される。 それ
は、我々人にとって、最大、最良、最善・・・なことである。 「イエスの十字架の死」は、父なる
神が、あらかじめ定められていたことであった。 ヘロデやポンテオ・ピラト、祭司長、パリサイ
人、異邦人、イスラエルの民の主とキリストへの反抗さえ、「神はご自身の計画」を実行される
ために使われた。(使徒4:27,28) 「3日目のよみがえり」は、闇の帝王サタンや悪霊どもも手
出しできなかった。 すべて、あらかじめ神が定められていた「神の計画」だったからである。
また、「みこころ」には、「神の望まれるみこころ」がある。 この「みこころ」が行なわれるため
に、神は人の自由意志による「選択」を人に任されている。 だから、人の「みこころ」に対する
応答によっては、「神のみこころ」「主のみこころ」が成就されない、実現されないということがあ
り得る。 しかし、主なる神は、主イエス・キリストを信じた者たちが、「神の子ども」として、人が
願っている「恵み」というより、神が与えようとされている「恵み」を存分に素直に受け取り、神
の国にふさわしい者となることを望まれている。 ある意味、自我が砕かれることも肉が切り取
られることも「神の愛」からであり、「神の恵み」である。 主を信じた者たちが、「主のみこころ」
を知り、「すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者とな」って、「みこころを行
なう者」になることは、「神のみこころ」「主のみこころ」である。 イエスは仰せられた。 「わたし
に向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたし
の父のみこころを行なう者がはいるのです。(マタイ7:21)」
2年半ほど前、「主のことば」「神のみこころ」について教えられたことがある。 ある姉妹に直接
「主のことば」が語られた。 具体的な「ことば」で、ほんの小さな「ことば」であったが、姉妹に
とっては重要な「ことば」であった。 「毎日・・・ことは、主のみこころ」という「ことば」が、主から
のものであるのか、主からの「語りかけ」「ことば」なのかについての吟味は、姉妹が祈りに祈
り、牧会者も早天祈祷で何度も祈って確認した。 姉妹は、日々その「主のことば」に返ってい
たが、その「ことば」の通りにならない日が来た。 「ことば」通りにならないので、「主のことば」
ではなく、自分の思い込みだったのだろうか? 他からの間違った「ことば」を受け入れてし
まったのだろうか? この「ことば」以外にも「主のことば」が与えられていたので、それらの「こ
とば」も間違っているのではないだろうか?と体の健康に関する「ことば」のゆえ、体の苦しみ
以上に、心が真底、苦しんだ。
そうして、牧会者と一緒に祈りつつ、交わっているとき、姉妹に語られた「主のことば」は、「主
のお気持ち」であることがわかった。 だから、「主のみこころ」ならば、必ず成就するが、「みこ
ころ」の中でも「主のお気持ち」の場合は、その通りにならない場合がある。 しかし、その「こと
ば」は無効になったわけではなく、主は「ことば」通りにしてくださるが、時には、毎日、その「こ
とば」通りにならないときもある。 どうしてかは、わからないが、その理由は、主が必要なら教
えてくださるであろう。 もし、主から見られて、その理由が姉妹にとって必要でないと思われる
なら、知ることはないであろう。 そして、今後も、その「ことば」に日々、返るべきである、という
ことなどが教えられた。 そのことがわかると、姉妹の苦しみは去った。 こいうことがある。
そして、他、教えられたこと。 永遠の昔から永遠の未来があり、その間に時間があること。
神の計画、その下で行われることは すべて父なる神の御ゆるしの下であること。 時代は
たとえるならば一本のCDに収録された長編の物語。 それが再生されているようなものである
と考えられること。
旧約時代は主が共に居ようと思われる人と共にいてくださったり、御使い
や人になって来てくださったりしていたこと。 キリストは十字架で死んでくださった後、復活さ
れ、聖霊がクリスチャン(キリストに従う者)の内に来てくださり、共に歩み導いてくださっている
こと。 そのキリストに頼り続けること、それが主と共に歩むということ。
すべてのことは神の御ゆるしの下にあることだが、一番高いその御ゆるし(神の計画)のところ
から語られた「神のみこころ」、「主のことば」は、必ず成就されること、必ず完了されること。
しかし、一段低い(絵で書いて表した場合の表現であり、みこころの高低、重要性を表すもので
はない)、再生されている(時代が進んでいる)この地上の歩みにおいても、「神の計画」「神の
みこころ」ではあるが、「主の御思い」や「お気持ち」の部分があること。 「主の御思い」や「主
のお気持ち」は、その通りにならない場合もあること。 人の意志による応答の結果による場
合と人の意志に関係ない場合があること。 それは、「主のことば」の内容によること。 二つ、
すなわち「神の定められたみこころ(神の意志、神の計画)」と「神の望まれるみこころ(主のお
気持ち、主の御思い)」は区別されるべきときがあること、・・・などを教えられた。
とにかく、「神のみこころ」とは、「神の計画」であり「神の意志」である。 「神のことば」「主のこ
とば」こそが、「神のみこころ」「主のみこころ」である。 「みこころ」には、神の意志、意思、お
気持ち、御思い、・・すなわち「神ご自身」が介入されておられるから、我々は、「神のことば」
「主のことば」に意識して返ることが重要である。 もし個人的に与えられた「神のことば」「主の
ことば」があるなら、尚々、絶えず「ことば」に返り、「ことば」を尊ぶことが大切である。 それ
が、「神のみこころのままに」「主のみこころのままに」とへりくだることである。 ますますキリス
トとの交わりを深くしっかりとしていき、いろいろなかたちで主が語って下さろうとしているか細
い御声を聞こうと(霊)の耳、心を絶えず主イエス・キリストに向けていきたいものである。
★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 1:4
キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身を
お捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。
★新約聖書 エペソ人への手紙 1:5
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛
をもってあらかじめ定めておられたのです。
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