めんどり通信/2013年9月8日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <偶像礼拝にどう対応するか:ナアマンに学ぶ> |
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★旧約聖書 列王記 下 5:17-5:19
そこでナアマンは言った。「だめでしたら、どうか二頭の騾馬に載せるだけの土をしもべに
与えてください。しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のい
けにえをささげず、ただ主にのみささげますから。 主が次のことをしもべにお許しくださ
いますように。私の主君がリモンの神殿にはいって、そこで拝む場合、私の腕に寄りかか
ります。それで私もリモンの神殿で身をかがめます。私がリモンの神殿で身をかがめると
き、どうか、主がこのことをしもべにお許しくださいますように。」 エリシャは彼に言った。
「安心して行きなさい。」
●列王記 第二 5章に登場するアラムの王の将軍ナアマンは大勇士であった。 ところが、彼
は当時、不治の病と言われていたらい病を患っていた。 ナアマンは、自分の妻に仕えていた
イスラエルの少女から、イスラエルの預言者エリシャのところに行けば直ると聞き、アラムの王
の許可を得て、主君のイスラエルの王宛ての手紙を持参して行き、馬と戦車をもって来て、エ
リシャの家の入口に立った。 そこでエリシャから遣わされた使者に、ヨルダン川で七度身を洗
うよう言われたことに憤慨するも家来に説得されて、エリシャの「ことば」通りにすると、幼子の
からだのようになり、きよくなった。 「いやされた」「直った」という以上に、「清められた。」
異邦人ナアマンは、預言者を通して聖なる神が生きて働かれるのを見て、まことの神を知っ
た。 今まで仕えていた神や他の神々に仕えるべきではないことを知った。 「しもべはこれか
らはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ主にのみささ
げますから。(U列王記5:17)」と宣言したことから伺える。 ただし、主君がリモンの神殿に
入って、そこで拝む場合、介添えする自分も同時に身をかがめることがあるので、それを許し
て下さるようにとエリシャに許可を求めた。 エリシャの答えは、「安心して行きなさい」だった。
このところの解釈は、多くの教会、クリスチャンは、ダニエルや彼の3人の友人たちは、イスラ
エル人である上、信仰が成長していたので、内心も外見も偶像礼拝をきっぱりと拒否できた
が、ナアマンの場合は、異教の地で信仰を守っていかねばならないし、信仰を持って間もない
成長していない者なので、仕方ないところがある。(ダニエル3章6章) エリシャは、ナアマンの
ことを主にゆだねたのである、と解釈している。 ある意味、その通りだと思う。
ただ、信仰が成長しているから偶像礼拝を明確に拒否できるとは一概に言えないかもしれな
い。 偶像礼拝を明確に拒否するということは、「キリストは主である」と告白することである。
1870年、津和野の乙女峠で殉教したモリちゃんの場合。 明治維新後のキリシタン禁止令に
より改宗を迫られた長崎浦上のキリシタン(キリスト者)たち153名が幽閉収容された。 説得と
飢餓の始まりだった。 その中に5歳の女の子モリちゃんがいた。 飢えに苦しんでいるとき、
役人はおいしいお菓子を見せて、「食べていいから、キリストを嫌いと言いなさい。」と言った。
役人とモリちゃん二人だけのときである。 しかし、モリちゃんは、「天国にはもっとおいしい物
が何でもあるよ。」と言って口にしなかった。 そして殉教した。 キリストを信じて、徐々に信仰
が成長して・・・というのではない。 また、決して
モリちゃんは、知識においてキリストを知って
いたわけではない。 通常、キリストへの信仰が成長するというとき、聖書の知識や神に対して
のいろいろな知識を知ることも踏まえて言われるが、モリちゃんは、そのような知識はなかっ
た。 しかし、幼子でも、真に、キリストを知っていた。 体験していた。 こういうケースもある。
また、パウロの場合。 彼はユダヤ教の中で生まれ育ち、旧約聖書に書かれている「神のこと
ば」をエルサレムで高名なラビ ガマリエルのもとで学び、その「神のことば」を生きた人であ
る。 ユダヤ教、律法に長けていた人である。 しかし、キリストへの信仰については、劇的な
主の顕現で救われ、生まれて間もない者であったが、ただちに、諸会堂で、イエスは神の子で
あると宣べ伝え始めた。(使徒9:20) 信仰が成長しているから偶像礼拝を明確に拒否し、キリ
ストが主であることを明確に打ち出せたわけではない。 パウロほどでなくても、このように、生
まれて間もないときにでも、偶像礼拝を明確に拒否できる人もいる。
要は、主とその人の関係、つながりの程度と、主がその人に何を望まれているかである。 主
がその人にどのようなご計画を持っておられるかである。 そして、
その人が主のところに留
まり続けることができるかどうかが重要な鍵である。 「偶像を造ってはならない。 偶像を拝ん
ではならない。(出20:4、5)」という「みことば」は、主が一人一人に応じて、その人がその「みこ
とば」を行うことができるように、その人に応じての過程がある。 自分の力量で、「みことば」を
行なうのではない。 クリスチャンだからという理由でその「みことば」を行なうのでも、従うので
もない。 主が今、自分には、そのように望まれているから、という「主のみこころ」を知って、聖
霊の導きによって「みことば」を行なう、というのでなければ、自力や自分の考え、解釈が入っ
た「みことば」の行ない、従いになる可能性がある。 他の「みことば」も同様であろう。
他の「みことば」とは違い、「偶像を拝まない」という「みことば」だから、結果オーライではない
のか?と思われそうだが、結果的に、偶像を拝まなかったとしても、表面的なこと、かたちだけ
に終わってしまっている場合がある。 律法学者、パリサイ人たちは、律法(レピ記27:30)の中
にある収穫の十分の一を神に納めることを実行していたが、イエスは、彼らを「偽善者」と言っ
た。 彼らが、かたちだけ行なって、正義もあわれみも誠実をおろそかにしていたからである。
また、長年、教会、クリスチャンたちは、「偶像を造ってはならない。 偶像を拝んではならな
い。(出20:4、5)」のみことばを徹底的に守り行なって来た。 そうして、キリスト教以外はすべ
て間違っていると、嫌悪感を抱き、蔑んだ挙句、キリスト教の名の下に宗教戦争で偶像を排除
しようとした。 しかし、それらのことを、神は、「みことば」を行なっている、守っているとは見ら
れていない。 「主のみこころ」とは大きくかけ離れているからである。 「みことば」を聖霊の導
きによって行なっていないからである。 「神の愛」であるはずのキリスト教、キリスト教会が多く
の犠牲者を出してきたこの事実に、クリスチャンは目を伏せるべきではない。 それらのことか
らもキリスト者は、「みことば」から、真に「主のみこころ」を知ろうと取り組むべきである。
このように、「かたちだけ」行なっていると、重要なもの、本当の「主のみこころ」から逸れていっ
てしまう可能性がある。 自力や自分の考え、解釈が入った「みことば」の行ない、従いは「か
たちだけ」になる可能性がある。 ただ、主に尋ねて、「みこころ」を行なったからと言って、す
べてが「主のみこころ」通りに行なうことができているわけでもない。 しかし、それでもよい。
自分の判断より、主にゆだねることが先決であるからだ。 もし、祈り尋ねて行なった結果が、
主が見られて大いに「みこころ」から離れているなら、主はそのこと、つまり何が問題なのか
を、その人にわかるように教えてくださるであろう。
「私がリモンの神殿で身をかがめるとき、どうか、主がこのことをしもべにお許しくださいますよ
うに。」とエリシャに許しを求めたが、そのことの許しは、主なる神が与えられるものである。
こういう許可はある意味、神の領域ではないだろうか。 そのことを知っていたと思われるエリ
シャは、ナアマンが、主にしっかりつながっているという事実を見て、今後も主につながり続け、
へりくだり続けるならば、「安心して行きなさい」、ということではないだろうか。 そのときの
ナアマンは、救われて間もない時であっても、しっかり主につながっており、今後も主なる神だ
けにつながる決心を宣言していた。 厳格なクリスチャンなら、ナアマンは偶像礼拝を避けるた
めに、すぐにでも将軍の職務を辞退すべきだ、と言うかもしれない。 しかし、そうすることを主
なる神が望んでおられるなら、主がナアマンにわかるよう、その「みこころ」を知らせてくださる
だろう。 また、そうすることが「みこころ」ならば、「みこころの時」がある。 ナアマンが主につ
ながり続けているなら、それも知らせてくださるだろう。 ナアマンについては、列王記第二の5
章にだけしか記されていないので推測になるが、まことの神を知ったナアマンは、自分だけ救
われて良かった、とは思っていなかったのではないだろうか。 まことの神の救いを体験した者
は皆、そう思うであろう。 異教の地で知らないとはいえ、偶像礼拝をしている家族、親族、知
人ほか、同郷の人々の救いのことを考えたのかもしれない。
いずれにしても、「偶像を造ってはならない。 偶像を拝んではならない。(出20:4、5)」という
「神のことば」は、その通りであるし、自分は偶像礼拝をしないということがキリスト者の原則で
はあるが、この「みことば」を神が望まれている通りにできるまでの過程にも、「神のみこころ」
がある。 いわば、過程も、結果もすべて一人一人に応じて、「主のみこころ」「主の計画」があ
る。 確かに、クリスチャン(キリスト者)は、偶像礼拝をしない。 それは「神のことば」である。
しかし、大切なことは、祈って、主が今、自分に、どうすることを望まれているのかを知ることで
ある。 「偶像を造ってはならない。 偶像を拝んではならない。(出20:4、5)」を、聖霊に導か
れて行なうために、今その時に、どうしたらよいのか、どう行動すべきかを主に尋ね、祈って
祈って知ることである。
日本人だからこそ、「偶像を造ってはならない。 偶像を拝んではならない。(出20:4、5)」とい
う「みことば」を行なうためには、聖霊の導きが必要なのである。 聖霊に導かれて、偶像礼拝
を拒否し、キリストが主であることを明確に打ち出して、非難を受けたり、悪口を言われたりし
ても、その時には、主が責任を取ってくださる。 そのときにこそ、「その日には、喜びなさい。
おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。(ルカ6:23)」という
「みことば」を受け入れるならば、その「みことば」は、その人のものとなるであろう。
とにかく、我々キリスト者(クリスチャン)は、どのような「聖書のみことば」も、キリストにしっかり
つながった上、聖霊に導かれて、キリストにあって行なえるようになるために求めていくべきで
あろう。 「みことば」を行なう、「みことば」に従うことにおいても、表面上のかたちだけに囚わ
れず、「主のみこころ」を知って、聖霊に導かれながら行なっていけるようになりたいものであ
る。 日々、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主に尋ねること、いつも祈ること、神に
依り頼むことをしていきたいものである。 神のことばと信じて聖書を読み、聖霊の流れに乗
っていきたいものである。
★旧約聖書 詩篇 143:10
あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。・・・
★新約聖書 ヘブル人への手紙 13:21
イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたが
みこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者と
してくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
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