めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年8月25日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<主なる神の優しさ:「取り除き」と「刈り込み」>



★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:1-8
    わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 わたしの枝で実を結ばな
   いものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、
   刈り込みをなさいます。 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、も
   うきよいのです。 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝
   がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなた
   がたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 わたしはぶどうの
   木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっている
   なら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることが
   できないからです。 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てら
   れて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいま
   す。・・・あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄
   光をお受けになるのです。
 
旧約聖書において、イスラエルの民はぶどうの木にたとえられている。 旧約時代、神はイ
スラエルの民と契約を結ばれたが、彼らは、神に背き続けた。 イスラエルの民が出エジプトを
して、奴隷から解放され、約束の乳と蜜の流れるカナンの地に入り、そこで神の喜ばれる信仰
の実、甘いぶどうの実を結ぶことを神は期待された。 しかし、イスラエル人たちは、出エジプト
してからずっと、不信に不信を重ねた。 神は、イスラエルの民が、戒めを行なうことができる
ようにと、甘いぶどうの実を結ぶようにと忍耐強く、何度も何度も働きかけてくださった。 しか
し、彼らは、その神の愛に応えるどころか、反逆を繰り返し、結果、酸いぶどうの実を結んでし
まった。(イザヤ書5:4) それで遂に、神の民イスラエルは、アッシリア捕囚、バビロン捕囚とい
う神の裁きにあうことになった。(エゼキエル19:12,13) 
 
神の時が来て、主イエス・キリストが来られた。 主は仰せられた。 「わたしはまことのぶどうの
木である。(ヨハネ福15:1)」と。 イエスを信じてキリストの弟子になった者たちに、「あなたがた
はその枝である。(ヨハネ福15:5)」と。 これらの「主のことば」には権威がある。 天において
も、地においても、いっさいの権威が与えられている主の宣言である。(マタイ28:18) そして
主は、「わたしにとどまりなさい」「わたしにつながっていなさい」と枝に命じられた。 そして、主
の命じに従うなら、「多くの実を結ぶ」ことが約束された。 
 
「実」とは、ガラテヤ人への手紙5章22節23節に書かれている御霊の実「愛、喜び、平安、寛
容、親切、善意、誠実、柔和、自制」や「義の実(Uコリント9;10、ヘブル12:11)」もあるが、
ハネによる福音書4章36節「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を
集めています。・・・」とあるように、「永遠のいのちに入れられる」こと、すなわち「救い」のことが
特に重要な意味であろうと思われる。 ヨハネによる福音書12章24節にも、「まことに、まこと
に、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままで
す。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」と書かれているが、この実も、「救い」のことで
ある。 
 
イエスが弟子たちに、「実を結ぶ」ために「わたしにとどまりなさい」と命じられたのは、我々が
多くの実を結び、キリストの弟子になることによって、父なる神が栄光を受けられるからであ
る。(ヨハネ福15:8) 多くの者が、真に救われることを、主なる神が喜ばれることであると言わ
れる。 どこまでも主は、我々人のことを愛してくださっている。 主なる神は、ひとりでも滅びる
ことを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる。(Uペテロ3:9) その主
の御心に心から感謝する。
 
さて、主は「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみ
な、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさる」と仰せられた。 ぶどうの木は、手塩にかけ
て育てることによって、甘い実になるという。 イスラエルでは日本のような棚作りと違い、太い
幹から枝が、地面に水平に、斜面に向かって伸び、この枝の先端を支えるために岩が置かれ
ているという。 時には、支柱や垣作りをして、地面に垂れ下がった枝を1本1本持ち上げて養
分が回るようにするという。 また、ぶどうは刈り込み、いわば「剪定(せんてい)」をして、余分
な枝や葉や腐った実を切り取り、甘い良いぶどうの実が多くなるよう整えるという。 
 
農夫であられる父は、「取り除き」「刈り込み」をされるが、「取り除き」という言葉は、原語
ギリシャ語では「地面から起こす、持ち上げる、支える」という意味があるという。 だから、「取
り除き」「刈り込み」は同じことを言っている。 この箇所の「取り除き」は、キリスト者(クリス
チャン)が、まことのぶどうの木であるキリストから引き離されるというのではない。 
 
農夫であられる父なる神は、キリストを信じ、キリストの弟子として生きようとする「枝」に実を結
ばせるために、一生懸命、忍耐をもって、地面に倒れている者を起こし、今にも倒れそうな者
をささえるなど、すべてのことをされる。 枝であるキリスト者(クリスチャン)は、自分からの努
力を一切する必要はないし、真に起き上がろうとしても自力で起き上がることはできないもの
だ。 素直に、へりくだって主なる神に自分自身を任せることが大切である。 ただ、キリスト者
(クリスチャン)の方が、その神のあわれみ、キリストの愛に気づいていないことがある。 ま
た、まことのぶどうの木の枝とされているのに、それに気づいていない者もいる。
 
実際のぶどうの木に、「取り除き」「刈り込み」は、甘いぶどうの実を結ぶためには必須であ
るように、枝であるキリスト者(クリスチャン)は、農夫であられる父なる神からの訓練、試練が
必要である。 「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる
からである。(ヘブル12:6)」と書かれている。 主からの訓練、試練は、一人一人のことをよく
ご存知の主が、一人一人に応じての訓練をなさる。 この訓練は、人によってはなかなか厳し
く、苦しいものである。(ヘブル12:11) 訓練、試練を受けている者の中には、主に頼りつつ
も、あまりにも苦しいので、その苦しさから逃れようと必死にもがく。 もがき主に叫んでも、そ
の叫びが主のところに届いていないかのように難問が次々生じたり、ゴタゴタが絶えなかった
り、心の底、霊が落ち着くことができないことを体験する者もいる。(詩篇88:14) そこに悪霊
が巧妙に攻撃してくることもある。 その時には、失望感、絶望感に襲われたりすることもあろ
う。 現状がそのようであれば、当然、自力では立ち上がることはできない。
 
しかし、それらは主のご計画の範囲にあることだ。 何事も父の御ゆるしがなければ起こりえ
ない。 我々は、肉眼で主なる神を見ることはできないが、確かに神は、倒れ伏せっているも
のを起こそうと働かれていることは事実である。 ただ単に起こされるのではない。 起こされ
るときには、自我が砕かれ、肉が切り取られて鍛えられた者となり、深い主の御心を知ること
ができる者へと変えられる。 神がアダムとエバを造られ、罪が入る前には、アダムとエバは、
神との愛の交わりがあったが、そのように御父および御子イエス・キリストとの交わりが、より
深いところで親しくできる者にしてくださる。 もちろん、それで肉の切り取りがすべて終わると
いうのではないが、明らかに訓練、試練を通る前の自分と通った後の自分は明確に違う。 
ただ、どうして人によって訓練、試練の厳しさの度合い、苦しみの度合い、苦しみの期間の長
い短いがあるのか、我々はすべてを知ることはできない。 しかし、それらの期間が過ぎ去っ
た後になって、その答えを知ることができるのかできないのかもわからないが、はっきりしてい
ることは、主は生きておられること、「まことのぶどうの木」「枝」に対して、主が介入されてい
るということである。 
 
我々がすべきこと、我々の側の責任というのは、主の中に「とどまる」ことである。 また、「とど
まる」というのは、一時、一瞬だけのことではない。 「とどまり続ける」という継続である。 この
ことに取り組んでいくべきであろう。 そうすることが、主なる神の優しさに応えることにもなる。 
そのために、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないことであるが、意識
的にこのことに取り組む必要がある。 どれだけ自分は主キリストに留まっているかを、「わた
しを離れては、あなたがたは何もすることができない(ヨハネ福15:5)」のことばをもって時々、
吟味してみることも大切なことであろう。 
 
いずれにしても、今置かれているところで、大小にかかわらず、すべての道、すべての事で、
主を認め、ますます「主のみこころ」を知ることに取り組んでいきたいものである。 主は生きて
おられ、自分をしっかり立たせ、甘いぶどうの実を結ばせるために、今もなお働いてくださって
いることに感謝しつつ、主との交わりの中に留まることに取り組んでいきたいものである。
 
★旧約聖書(口語訳) 詩篇 37:23,24
   人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。 たといその人が倒れ
   ても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。



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