めんどり通信/2013年8月4日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <自我が砕かれ肉が切り取られるのに悪霊の影響があったとしても主の御前にへりくだって取り組むことが大切!> |
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★旧約聖書 イザヤ書 66:2
――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのこと
ばにおののく者だ。
★旧約聖書 イザヤ書 57:15
・・・わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだっ
た人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。
★旧約聖書 箴言 20:30
打って傷つけるのは悪を洗い落とすため。腹の底まで打ちたたけ。
★旧約聖書 申命記 8:5
あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練
されることを、知らなければならない。
●数日前、買い忘れの品があり、夜8時過ぎにスーパーマーケットへ行った時のこと。 著者の
顔を見て、一人の女性が声をかけてきた。
立ち止まって、しばらく話をした。 約20年程前、
戸別訪問伝道をして、何回かその人の家に行き、福音を話したことがあったが、明確に主を受
け入れるまでには至らなかった。 その後、著者は以前所属していた教会を離れ、いろいろな
体験を通されているうちに、その人のことはすっかり忘れていた。
彼女が、「全然、変わらん
な。すぐにわかったわ。」と言った。 めんどり通信のHPを見てくれるよう話し別れた。 ほんの
数分程度のことだった。 帰りながら思った。 「変わらないというのは、たぶん外観のことを
言っているだろうが、自分の内側はどうなんだろう。 20年前とは変わったと思うが、あの人に
はそう見えただろうか? 少し話したくらいでは無理か?
しかし、多く話さなくても見ただけ
で、キリストの香りが漂っているように見られるくらい変わりたいものだな。」と。
さて、人が「変わる」ということは、「新しくなる」ということである。 一般的に人は、何かの度に
新しくなろうと頑張って、心機一転、心を奮い立たせ、何かを始めたりする人が多いかもしれな
い。
新たなスタートを切り進み出したと思っても、少し続くとまたぞろ心機一転、新たな再ス
タートをしなければならない状態、状況に陥る。
そしてまた、心機一転、再スタートしようとす
る。 そういうことを繰り返している人が多いと思われる。 イエスは言われた。「人は、新しく生
まれなければ、神の国を見ることはできません。(ヨハネ福3:3)」と。 またペテロは、「神は、ご
自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによっ
て、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。(1ペテロ1:3)」と
言っている。
人が「変わる」ということは、人が「新しくなる」、「新しく生まれる」ということである。 この点に
ついては、イエスが言われるとおり、人は主イエス・キリストを受け入れた時、新しく生まれる。
ただ、その後においても、人は新しくなる必要がある。 救われて主キリストにあって歩み出し
たとき、救われる前の古い自我の強い自分、肉(生まれながらの性質・神に従い得ない性質)
の強い自分と向き合うことになる。 古きを終わらせようと努力するも努力の甲斐なしという現
実に落胆する者も多い。 もしくは、聖書に「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけら
れたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであるこ
とを、私たちは知っています。(ローマ6:6)」と書いているから、自分は新しくなっている、と思い
込む楽天的な者もいる。 楽天的というより、「聖書のみことば」の受け取り方が間違っている場
合が多い。 自分の都合のよい受け取り方をしている可能性大である。 とにかく、楽天的な
場合は、単に楽天的だけであって、日々の生き方、考え方、思いは何も変わっておらず、古き
のままである。
「聖書のみことば」は、真実で実際である。 重要なのは、その人にとって、みことばが実際と
なっているかどうかである。 みことばによって、その人が生かされているかどうかである。 み
ことばを知識で知るだけでは、主キリストを知ることにはならない。 「ことば=キリスト」であり、
キリストは頭で理解できるものではないからだ。 肉眼で見ることができなくても、キリストは実
際であるから、みことばを実際に体験、体得することがキリストを知り始めることになる。(ヨハ
ネ福1章) みことばが、自分の実際となり、自分の血となり肉となるために、その人の生かさ
れている霊が成長することが必要である。 ある意味、それは同時進行である。 ところが自
我や肉はそれを邪魔する。
そのために主なる神は我々を様々な方法で試され、試練に合うことを許されて我々を訓練なさ
る。 そして、我々の自我を砕き、肉を切り取ってくださる。 ご自身を我々に知ってほしいと主
ご自身の方が望まれているからである。 それは、主の恵みであり、あわれみである。
それ
でキリスト者(クリスチャン)は、主により頼み、主のみこころを知ろうと祈り求める。 主は祈り
に応えられて、人は主の望まれる者へと変えられ整えられていく。
ところが、祈り求めているのに、なかなか変化の見えない者も結構いる。 なにが原因なのか
は、一人一人によって違うが、その中でも、悪しき霊が影響している場合がある。 12弟子の
中の一人、イスカリオテのユダの場合。 ほかの弟子たち同様、イエスについて行った。 イエ
ス一行の金袋を預かっていたが、中身をごまかしていた。(ヨハネ福12:6) その性質から出た
言葉が、葬りのために香油をイエスに注いだマリヤに 「なぜ、この香油を三百デナリに売っ
て、貧しい人々に施さなかったのか。」であった。 綺麗ごとを言っても本音はお金に執着して
いた。 結局、主を銀貨三十枚で祭司長や律法学者たちに売った。 主を裏切った。 そして、
後で後悔したが、イエスのところへは行かず、自殺した。(マタイ27:3-5)
イスカリオテのユダは、イエスのそばにいて、多くの奇跡やいやし、悪霊の追い出しなど不思議
な神の御力の現われを目の当たりに見たり体験したり、権威ある新しい教えを絶えずイエスか
ら聞いていたが、真にイエスをキリスト(救い主)として信じていなかったということである。 イエ
スを、イスラエルをローマから解放するための王、政治的メシア(救い主)として受け入れてい
たと思われるが、それは自分の都合のよい、または自分の願い通りの受け入れ方をしていたこ
とになる。 だから、自分の都合、願いと合わなくなると離れて行ってしまった。 自我が強く、
霊的な成長がなされていなかったからであろう。 また、イエスからいろいろ指摘されたり、教え
られたりしていたにもかかわらず、それらの「主のことば」にへりくだらなかったので、自我は
砕かれず、肉が強いままであったようだ。 よく皆の前でイエスから指摘、注意、忠告されたペ
テロはその度に砕かれ、肉が切り取られていった。 ペテロは、イエスからの指摘、忠告、注意
に対して、それを心深く受け入れた。 すなわち、へりくだった。 しかし、ユダははねつけた。
ひと言で言えばユダは「新しく生まれること」、「新しく変えられること」、「古きが終わること」に
真剣に取り組んでいなかったということである。
ただ、そればかりではなく、イスカリオテのユダの場合、「サタンが彼(ユダ)にはいった」ことも
ユダが「新しく変わらなかった」「砕かれなかった」原因の一つであろうと考えられる。 サタン
(悪魔)、悪霊の力、影響は人にとって、すさまじいものがある。 悪霊は人を滅ぼすことに全
力を傾けている。 だからほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き
回っている。(Tペテロ5:8) そうすることが、神に対しての最大の武器になることを知ってい
るからだ。 悪魔、悪霊は、とにかく強い。 特別な力がない限り、人間の力では到底太刀打ち
できない。 光の天使に擬装するなど巧妙に人をだます。 悪魔、悪霊は肉の性質に働きかけ
て、
古い支配の下に引き戻し、古いところに留まらせようとする。 人の古き性質から出てくる
「思い」に働きかけてくる。 「思い」に働かれても人はそれに気づかないことが多い。 悪しき
霊どもは、あくまで「御霊によって生まれた者は霊です(ヨハネ福3:6)」という「神のことば」に逆
らい、人が「新しく生まれた」という体験をすること、成長することの邪魔をする。 十字架の力
を人が体験できないように逸らさせる。
悪しき霊の影響がある場合、その部分は、特別な人でない限り、我々人の力ではどうすること
もできない。 神が動いて下さらなければ、人ではどうすることもできない。 かと言って、人が
何もしないで、神が働かれるまで、それまでの生き方のように自由奔放に生きていくというので
はない。どうせ聖霊が働かれるまでは無理なのだから、いずれ聖霊が働いて下さるまで待って
おこうと安逸をむさぼるような生き方をするのでもない。
主が働かれるまで、自我を砕き、肉
が切り取られるように、主が一人一人に応じて示してくださった取り組みをすることが大切であ
る。 神は、我々が本当に変わりたいのか、心底から主に喜ばれる者になりたいのかどうかを
見ておられる。 試しておられる。
主なる神は、真剣に取り組んでいる者、主に寄りすがって
いる者、主を尋ね求める者を見捨てられない。(詩篇9:10)
伝道者の書7:29に「神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる。 神
は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。(新共同訳、新改訳)」と書
かれている。 我々人がすべきことは、自分の複雑な考え、理屈を捨て、「主のことば」に対し
て素直になり、主の御前にかたちではなく、真にへりくだることであろう。 自分の思うように「へ
りくだる」のではなく、主が望まれるようにへりくだっていくことであろう。 そのためにも日々、祈
りつつ聖書を読み、祈りに祈って聖霊に導いていただきたいものである。
★旧約聖書 詩篇 34:18
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。
★新約聖書 コリント人への手紙 第二 5:17
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去っ
て、見よ、すべてが新しくなりました。
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