めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年7月28日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
キリストを信じる者がすべきことについての思考:A生活の中でみことばを適用することについて



★旧約聖書 ホセア書 6:3
   私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現わ
   れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。
 
★新約聖書 マタイによる福音書 13:23
   良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実 
   を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。
 
★旧約聖書 詩篇 1:1,2
   幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着か
   なかった、その人。 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口
   ずさむ。
 
●キリスト者(クリスチャン)と呼ばれるようになった者がすべきこととして、今回は、「生活の中
でみことばを適用する」ことについて思考してみる。 「みことばを適用する」ためには、聖書を
読んだり、みことばを聞くことが必要である。 聖書を読むというとき、ただ単に読むというので
はなく、まず聖書は「神のことば」であると信じ、神が我々に「教えようとされることがある」こと
を踏まえて、祈りをもって読むことが大切である。 そして、信じること、信じたことが、本当にそ
のとおりかどうかを調べることも大切なことである。 時には、実際に自分に関する出来事や自
分の言動が、聖書の裏づけがあるかどうかを調べることが大切なときもある。 また、聖書を
読む以外に、主が立てられた指導者や主が良しとされるキリスト者(クリスチャン)からみこと
ばを聞くことは「主のみこころ」を知るために大いに役立つ。 パウロは、「信仰は聞くことから
始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」と言っている。(ローマ10:17) 
 
これらのことで我々キリスト者(クリスチャン)は、使徒行伝17章に書かれているベレヤの人た
ちから学ぶことができる。 ここで書かれていることはこうである。 伝道を続けていたパウロと
シラスたち一行は、テサロニケでねたみにかられたユダヤ人たちから迫害された。 それで、
兄弟たちはパウロとシラスをベレヤへ送り出した。 ベレヤでパウロたちはユダヤ人の会堂に
入り、「みことば」を語った。 「ベレヤのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人た
ちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」と記
されている(使徒17:11) そして、その結果、「彼らのうちの多くの者が信仰にはいった。そ
の中にはギリシヤの貴婦人や男子も少なくなかった。」ということであった。
 
ベレヤのユダヤ人はパウロとシラスから「神のみことば」を聞いた。 パウロとシラスは主が立
てられ、主が良しとされた指導者だった。 ベレヤの人たちは、テサロニケにいる者たちよりも
「良い」人たち、と記されているが、この「良い」は、原語では、「より素直な」「より立派な心がけ
をもった」という意味があるという。 また、「熱心に」という言葉は、「乗り気になって」とか「心を
傾けて」という意味があるという。 ベレヤの人たちのように、神に対して、みことばに対して、
「より素直」で、「より立派なこころがけをもち」みことばに「心を傾ける」ことは重要なことであ
る。 ベレヤの人たちの心の根底には、表面上のことに影響されず、捉われずに、「真実」「真
理」を知りたいという良き「思い」「願望」があったと言えよう。 そのような「思い」を持っているこ
とは、彼らの心は、主イエスが言われた「良い地」であり、「みことばの良い種」が根付く状態に
あったと思われる。 だからみことば」を信じ受け入れた後の日々も、熱心に聖書を調べ、
「みことば」を生活の中で適用していったと思われる。
 
主イエスが言われたことは、「良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心
でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです(ルカ8:15)」であ
る。 素直であること、自分の考えや思いに固執しないこと、自己主張しないこと。 純粋である
こと。 そうであるならば、「良い地」「良い心」である。 「神のことばは、すべて純粋」であるか
ら、みことばを受け入れる者も、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な信仰であること
が大切である。(箴言30:5、Uテモテ1:5)
 
ただ、これらのことは、自分の努力でできるものではない。 「良い地」「良い心」となっていない
者は、主に求めることが必要である。 全体的にみれば、テサロニケの人たちよりベレヤの人
たちの方が「良い地」「良い心」であったが、ベレヤの人たちの皆がみな、パウロの語る「主の
ことば」を受け入れたわけではない。 ここには書かれていないので推測にはなるが、熱心に
みことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べていたベレヤの人たち一人一
人に応じて、主が何らかの試しをされ、その人に応じて取り扱いをされ、砕くことをされたので
はないだろうか? 人は、生まれながらにして、神に対しても、みことばに対しても素直な人は
いないと考えられるからだ。 聖書に「善を行なう者はいない。ひとりもいない。(詩篇53:3、
ローマ3:12)」と書かれている。 ちなみに英語の聖書では「良い」も「善」も「good」が使われて
いる。 
 
また、主である神は、「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えら
れる。(ヘブル12:6)」 また、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選ば
れた。(エペソ1:4)」 だから、主を信じた以降のことがらは当然だが、主を信じる以前のこと
がらさえ、その人を砕くために主は用いておられることがあるということである。 「主のみここ
ろ」「真実」「真理」を心の深みに受け入れ、主のみこころのままに歩んでいきたいと、真に主に
求めている者は、主を信じる前に起きた様々な苦しくて痛みが伴ったこと、嫌なことがら、理不
尽なことで、苦しみもがいた体験さえ主は無駄になさらないということである。 
 
そして、主なる神は、自分の壺が割られて(自我が砕かれること)、自分を捨て、日々自分の十
字架を負って、「主のみこころ」「真実」「真理」を知ろうと取り組んでいる者の壺(自我)を砕い
てくださる。(ルカ9:23、マルコ14:3) 自我が砕かれ、肉(生まれながらの古い性質)が切り取
られることによって、主イエス・キリストに対して、みことばに対して素直に純粋になれるもので
ある。 そうすると、主キリストとの交わりが深くなっていき、少しずつ主のみこころを悟り、主の
望まれる言動ができるようになる。 また、訓練の苦しみの中、必死に主に叫び求めている時
に、主の方から「聖書のみことば」をくださることがある。 そのように主から与えられた時、そ
「みことば」こそが、確実に生活に適用、適応される。 それ以上に、その「みことば」こそ
が、その人を生かす。  
 
ただ、昨今、思うに「主のみこころ」を知ることは結構難しい。 だから、「みことば」を生活に適
用することも結構、難しいと思う。 著者の場合、今まで、「主のみこころ」と思っていたことの中
には、自分の思い込みがあったかもしれない。 しかし、そのことに気づかず行動してきたこと
も多かったと思う。 ただ、主はその時の信仰状態や状況によって、主は著者にあえて指摘さ
れなかった。 むしろ、著者の気づいていないところで、主が著者のために配慮してくださって、
働いてくださったと思われる。 あわれみ深い主に感謝する。 そして、信仰の成長に伴って、
「主のみこころ」を悟るのに妨げていた肉を切り取るために、試しが与えられ、試練に合うこと
を良しとされ、清めてくださったと思われる。 そのことは、終わったのではなく、今もなお続い
ている。 
 
たとえ、「主のみこころ」を知ることが難しく、みことばを生活に適用することも難しく、自我が強
く、肉が旺盛な者であっても、「主のみこころ」「真実」「真理」を知ろうと取り組み、生活の中で
みことばを適用することに取り組んでいるなら、主がその真剣な姿勢を見ておられて、「良い
地」「良い心」に変えてくださるだろう。 「良い地」「良い心」にされた者は、悟った「主のみここ
ろ」「真理」の根を深く張り、少しずつ実を結ばせていくことができよう。
 
ただ、生活の中でみことばを適用することは大切だが、このことの危険性は、意識してか無意
識かはわからないが、主に祈ったとはいえ、「みことば」による苦しみを軽減しようとする思いが
心底にある上での判断がされることである。 「みことば」を自分の都合の良いように適用して
しまうことである。 
 
いずれにしても、日々の生活の中で、絶えず主の主権を認め、主の前に自分の真の願い、思
いを知って、清められ、最後まで神の前にへりくだり続けていきたいものである。 「主のみここ
ろ」「真実」「真理」を知ることに取り組んでいき、正しく「みことば」を生活の中で適用できるよう
になるためにも、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、神の子として
訓練されながら、御子イエス・キリストにあるものを受け継ぐことのできる「良い地」とされ、三十
倍、六十倍、百倍と実を結んでいきたいものである。 
 
★旧約聖書 箴言 3:5
   心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
 
★新約聖書 エペソ 5:17 
   ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
 
★新約聖書 ペテロの手紙 第一 2:2
   生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それに
   よって成長し、救いを得るためです。
 


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