めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年7月21日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
キリストを信じる者がすべきことについての思考:@主にゆだねることについて



★旧約聖書 詩篇 31:5
   私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいま
   した。
 
★旧約聖書 詩篇 37:5
   あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
 
★旧約聖書 詩篇 55:22
   あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正し
   い者がゆるがされるようにはなさらない。
 
★旧約聖書 イザヤ書 26:3
   志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼してい
   るからです。
 
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず(ローマ3:23)」という
御言葉によって、自分も罪人であるということを認め、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこ
の世に来られた。(Tテモテ1:15)」こと「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私た
ちが義と認められるために、よみがえられた(ローマ4:25)」ことを信じて、キリスト者(クリス
チャン)と呼ばれるようになった者がすべきこととして、教会でもよく教えられることは、@聖書
を読むこと、A祈ること、B集会に出席すること(礼拝や交わりを含む)などである。 そして、
日々の生活の中で、特に、「主にゆだねる」こと、「生活の中でみことばを適用する」ことが勧め
られるが、このことは、聖霊の導きに従って歩もうとするときに必須な条件であるといっても過
言ではない。  
 
今回は、「主にゆだねる」ことについて思考してみる。 口では「主にゆだねる」と簡単に言える
が、実際、このことは重々しいこと、重要なことであるから、口癖のように軽々しくに言うべきで
はない。 「主にゆだねる」内容にもよるが、「主にゆだねる」とは、そのゆだねた内容のすべて
を、自分の願いや思いを介入させず、主がご自身のみこころを行なってくださるようにと、ゆだ
ねることである。 だから、ゆだねた結果や経過に対して、決して不平不満の一点も入れては
ならず、そのまま受け入れることである。 もし、不平不満の一点でも入れるならば、それは
「主にゆだねていた」とは言えない。
 
また、我々がよく「主にゆだねた」とき、「主が良いようになさってくださる」という言葉をよく使う
が、その言葉の裏には、「主にゆだねているのだから、決して事態は悪くならないだろう。 結
果は良い解決が見られるはずだ。」との期待がある。 そのことは悪いことではない。 我々は
主に期待すべきである。 そして、確かに主はそうなさるだろう。 ただ、その通りになるまでの
過程は、我々が想像できるようなものではない。 しかし、案外、人は、その過程さえ、想像し
期待している場合がある。 しかし、その過程は、我々の想像や期待とは甚だ違っていること
も多い。 ゆだねたことが、悪い状態になってくると、「なぜですか?」「どうして、こうなるのです
か?」と怒りを込めた語気になってうろたえがちになることも多い。 苦しみが伴えば、さらに主
への抗議の意味を込めて更に語気が強くなる。 「主のみこころは何でしょうか? 自分は、ど
うあるべきでしょうか?」とへりくだることができない。 これも、「主にゆだねた」とは言えない。 
 
「主にゆだねる」とは、結果もそれまでの経過も、たとえ自分の想像、願望、期待と違っていた
としても、苦しみが伴ったとしても、「すべて主のみ心のままになさってください。 それをわたし
は受け入れます。」ということである。 真に「主にゆだねる者」「主に求めてくる者」を主は見捨
てられることはない。 たとえ、その時には、傍から見れば悪い経過、苦しい経過、悪い結果と
見受けられても、それで終わりではない。 「主にゆだねた」ことに最終結果を現してくださる
「主の時」がある。 必ず、主が定められた「主の時」が来たら、「益」にしてくださる。 そのと
き、はじめて、「主にゆだねて期待していた通りになった」と主を褒めたたえることができるもの
である。 なお、その人が、「主のことば」をいただいているなら、最終結果は「主のことば」通り
に必ずなる!
 
「主にゆだねる」ことについてダビデから学ぶことができる。 ダビデは、主から油注がれ、「エ
ルサレムでダビデが王として統治し、ダビデの家はとこしえにまで続く」という約束が与えられて
いた。 ところが、ダビデが実際、王になるまでの道のりも王となってからの道のりも厳しいも
のだった。 とりわけダビデの子アブシャロムが王に反逆して、エルサレムを牛耳った時に、ダ
ビデの苦しみは相当なものだったと思われる。 エルサレムに留まって戦うこともできたが、多
くの犠牲者が出ることを避け、自分からエルサレムを出る決断をしたと思われる。 しかし、そ
れはダビデ自ら王座を退いたということである。 それまでのすべてを失うだけでなく、自分の
命さえ脅かされる逃亡生活に入ることになる。 
 
まったく約束の「神のことば」とは違う状況である。 ダビデはいくらでも神に怒りを込め、語気
を強めて神に疑問を投げかけることができたが、ダビデは平静だった。 神に対して怒ること
なく、不安や恐れが支配することもなかった。 契約の箱をかついでダビデと一緒にエルサレ
ムを出ようとした祭司ツァドクには、「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の恵みをいただく
ことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいとを見せてくださろう。 もし主が、
『あなたはわたしの心にかなわない。』と言われるなら、どうか、この私に主が良いと思われる
ことをしてくださるように。(Uサムエル15:24,25)」と言った。 この状況のときにこの言葉は、
決して自分の願いや思いを優先させず、すべてを主にゆだねきり、主に任せたダビデの心を
表している。 ダビデが神から愛された理由は、この真実でへりくだった心のゆえである。
 
また、「ゆだねる」ことについて我々に最大の模範を示されたのはイエス・キリストである。 ゲ
ツセマネの園で「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように
地に落ちた。(ルカ22:44)」「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。(マルコ14:34)」と記さ
れている。 そして、「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。(マタイ26:3
9)」「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取り
のけてください。(マルコ14:36)」とご自身の願いを父なる神に申し上げたが、続けて「しかし、
わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と言われた。 
 
我々人間の罪を父から杯として差し出され、それを飲む(受ける)ことの苦しみがどれほどのも
のであるかが、少しだけだが知ることができる。 少しだけであって我々は、まだまだ主の御苦
しみを知っていないように思う。 それほど十字架の苦しみは深い。 言い換えれば、人間の
罪の支払う値としての死の苦しみは甚大なものであるということだ。 我々人間は、「死」につい
て、罪の値としての「死」について深く考えず、なおざりにしているところがある。 しかし、イエ
ス・キリストは、そのような人間を贖(あがな)うために身代わりとなり、裁かれたのだ。 これほ
どまでに我々を愛してくださっている父なる神をあがめ、主イエス・キリストをほめたたえ、心か
ら感謝する! また、イエスは十字架の死だけでなく、十字架に至るまでの過程、すなわち群
衆の寝返り、罵倒、…などすべてを「御心のままに」と受け入れられた。 ご自身を完全に父な
る神にゆだねられたのである。 ここに我々が大いに学ぶべき模範がある。 
 
こうして見ると、「主にゆだねる」ということは、、内容によっては、自分を捨てる覚悟がいるとい
うことである。 「捨てる」とは原語では「置く」という意味だという。 すなわち、「捨てる」ことは
「主にゆだねる」ことである。 「主にゆだねる」内容は、小さなことから大きなことまで様々ある
が、いずれにしても自分の思い、自分の願い、自分の考え、自分の計画、・・など自分から出て
くるものを捨てる覚悟がいるということである。 そして、主がみこころを行ってくださることは、
自分の思いや想像、自分の願い通りでないかもしれないが、それが一番、良いことであると信
じ、そのような期待を主に対してすることである。 そうするなら、すばらしい主のみわざを体験
できるであろう。
 
以上のことを踏まえて、我々は、日々の生活の中で、大きいこと小さいことにかかわらず、「主
にゆだねる」ことをしていき、「主にゆだねた人生」を歩んでいきたいものである。 それがこの
地上を豊かに生き、確実に天の御国へ歩んで行く秘訣である。
 
★新約聖書 (口語訳)   マタイによる福音書  16:24
      それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自
       分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。  
 


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