めんどり通信/2013年7月14日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <日々の細々したこと、些細なことの中にまで主を認めよ!> |
|
★旧約聖書 箴言 3:5,6
心を尽くして主(ヤハウェ)に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所、どこにお
いても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」
★新約聖書 コリント人への手紙 第一 1: 9
神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・
キリストとの交わりに入れられました。
●新約聖書の最初の4つの福音書で、イエス・キリストが登場されるが、イエスがこの地上で約
3年半、癒しや悪霊の追い出しなど数々の奇跡を現されたこと、山上の垂訓他、多くの権威あ
る教えをされたこと、弟子たちを訓練されたこと、我々の罪をあがなうために、十字架で死んで
下さったこと、3日目によみがえられたこと…などが書かれている。
旧約で預言されていたこと
がキリストの登場で成就された。
イエスが登場された時、「…その(旧約)聖書が、わたしについて証言しているのです。(ヨハネ
福5:39)」と言われたが、旧約聖書も新約聖書も、一言で言えば、イエス・キリストのことを書い
ている。 旧約聖書に「イエス・キリスト」ということばは出てこないが、明らかにイエス・キリスト
のことを語っていると読み取れるところが多い。 また、使徒行伝に入ると、イエスの働きは弟
子たちを用いて聖霊が続けられておられる。 そして、それは今の我々にまで続いている。
聖霊は我々の中で働いておられる。
キリストのからだを建て上げるため、すなわち教会を建て上げるために、キリストご自身が、あ
る人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになっ
た。(エペソ4:11-13) それで教会は、主のために働く器、キリスト者(クリスチャン)を一人ひと
り整えてきた。 教会も指導者たちも、主に仕えることとは、どのようにすべきかと聖書のみこ
とばをもって考え、話し合い、祈って取り組んできた。 教会では、いろいろな聖会を催し、信者
たちも集まっては主をほめたたえ、証しをしたり、伝道集会を開いて、ひとりでも多くの者が救
われるようにと取り組んできた。
著者も以前、所属していた教会で、牧師の命令で数々の聖会に出席したり、一人でも救われ
る人が起こされるようにと戸別訪問伝道をしたり、トラクト配布をしたり、証し集会を開いたりし
た。 当時、クリスチャン生活がある程度続いて成長してくると、生活の細々したことなどは小
さなことだから、主から任されている。 だから、自分で判断していき、主の働きについては、
主に祈って行なっていくことが大切だと教えられていた。
ただ、今、思うに、このことは案外、自分勝手な基準の判断に陥る危険性がある。 それは、
人生の重大な事柄なら当然、祈るべきだが、生活の細々したこと、世に関わる些細な事柄な
どは、自分自身で判断して行なうべきであり、一方、主のための働き、教会に関しての働き
については当然、祈って行なうべきであるなどと、自分の考え、思い、願い、感情で判断してし
まい、自分の生活に間違った区分をしてしまうことになる。 また、「これは世のことだから避け
なければならない」、「あれは主のことに関係することだから、行なわなければならない」、「そ
れも世のことだから関わってはならない」・・・など「・・してはならない」「・・するべきである」という
律法主義に陥りやすい。 しかし、生活の細々したことも自分が関わる世での些細な事柄も自
分の人生の道の中にあり、また主のための働きも教会のための働きも自分の人生の道の中
にあることだ。
「主のための働きや重大な出来事については主が介入してくださって良いですが、世の生活で
の細々したことは、主に介入していただかなくても良いです。 自分の思い通りにします。」と
言っているようなものである。 それは優先権を握ろうとする肉(生まれながらの性質)の強さで
あり、自我の強さの表れと言えよう。 案外、世の生活での些細なこと、細々したことで、旺盛
な自我が出ていることが多い。 そのような旺盛な自我を持ち、肉が強いままだと、肝心な主
のための働きについて祈り、行動したとしても、自分の考えや思いを主のみこころと履き違え
ることになる可能性が大である。
約18年前、ある聖会に出席したときのこと。 そこでは、賛美歌が奏でられ、盛大に主がほめ
たたえられ、数人のクリスチャンが証しの壇に立った。 主の癒しの奇跡が次々と証しされ喜
び、主をほめたたえた。 その会場は、聖霊に包まれ、「素晴らしい」、の一言で表現できるよう
であった。 そのとき、著者も主を褒め称えていたが、心の奥の方で「この証しをした人たち、
ここにいる涙流して主を褒め称えている人たちの日々の生活はどうなんだろう?」と問うている
自分がいたことを今もはっきりと覚えている。 そして、讃美歌が多数の楽器で演奏され、歌唱
力のある聖歌隊が歌っているその場の雰囲気は、聖霊に包まれていると勘違いしているのか
もしれない、という思いがよぎったことも明確に覚えている。 よくある一般的な何かのコンサー
トと同じような雰囲気だったようにも思う。
当時、著者は家のことと教会の奉仕、働きで目まぐるしい忙しさだった。
「主の働きを何よりも
優先することは当然のこと」という教えは心の奥に染み込んでいた。 家のこと、家族のこと、
自分のことより何がなんでも主のことを最優先すべきという教えに自分自身を合わせていた。
またそうすることが、主のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てること、自分
を捨てることになると思っていた。(マタイ19:29、16:24) その教えに反するような思いや考
え、感情が出たら、必死に「取り除いてください。」と祈ったものだ。
「口先だけでキリストを伝
えるのではないから、どのような人がキリストを伝えるのか。 キリストを語るのか。 それが重
要なことだ。」と教えられ、教えてきた。 確かにそうである。 今もそう思う。
しかし、当時は本当の主のみこころをわかっていなかったとつくづく思う。 主への熱心が、とも
すれば律法的になり、主のみこころを履き違えていたように思う。 砕かれなければならなかっ
たのは当然だ。 主は、主のみこころを勘違いし、思い違いをしていたような著者を様々な体
験を通して砕いてくださった。 まだまだ途中経過ではあるが、本当に思うことは、我々一人一
人の存在、すなわち、我々の生活のすべて、生き方のすべてに主が介入されること、主を認め
ることを主の方が望まれているということである。 我々一人一人の細々した生活のすべて、
傍から見れば、それは世に関わっている事柄であって主のためではないと思われるようなこと
でも、祈って祈って主のみこころを尋ねたとき、主が「良し」とされたことは、「良い」ということで
ある。 我々の生き方そのものが本当の伝道であり、本当の証しになるということである。
キリストを信じる者が全力をあげて取り組むべきことは、「主のみこころを知る」ことである。
それも大きい問題のときだけ「主のみこころ」を知り、「主の答え」を頂ければよいというのでは
なく、日常の些細なことでも「主のみこころ」、「主の答え」を頂くよう求めていくことが必要であ
る。 主は「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも
不忠実である。(口語訳ルカ16:10)」と言われたが、同じように常日頃の細々したこと、自分
が関わる世での些細な事柄などの小事であっても絶えず主に祈りながら行うという歩みが大
切である。 要は、絶えず主と交わっていること、主なる神との個人的な交わりの中にいること
が必要なのである。
日々の生活の中での主なる神との個人的な交わりのあり方を旧約聖書の登場人物を通して
も学ぶことができる。 旧約聖書に登場する人物たちは、決して「立派な人物」としては描かれ
ていない。 むしろ今の我々と同様「弱さ」があり、その「弱さ」や「自我」「肉」が浮き彫りにさ
れ、神の介入によって事態も人物自身も変わっていく様が書かれている。 大いに適用でき
る。 旧約聖書も新約聖書も我々キリスト者にとって必要な「神のことば」である。
いずれにしても「あなたの行く所どこにおいても」「すべての道で(口語訳)」「In all thy ways
(KJV訳)」とあるように、今置かれているところで、大小にかかわらず、すべての道、すべて
の事で、主を認め、ますます「主のみこころ」を知ることに取り組んでいきたいものである。
そのためにも個人的な主との交わりの中に留まることに取り組んでいきたいものである。
★新約聖書 エペソ人への手紙 5:15-17
そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、
よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚か
にならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
★新約聖書 ヨハネの手紙 第一 1:3
・・・私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
|
|