めんどり通信/2013年7月7日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <悪しき霊について:出たり入ったりと移動する> |
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★新約聖書 ヨハネによる福音書 14:23
イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そ
うすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人ととも
に住みます。
★新約聖書 マタイによる福音書 12:43 ー45
汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つか
りません。 そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいて
いて、掃除してきちんとかたづいていました。 そこで、出かけて行って、自分よりも悪い
ほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、
その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうこ
とになるのです。」
★新約聖書 コリント人への手紙 第一
6:19、20
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あ
なたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、
代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしな
さい。
●聖書には、「霊」が出たり入ったりと移動することが書かれている。(マタイ12:43-45、ルカ
11:24-26)
汚れた霊が住みつくというのは、我々のからだの内に住みつくということである。
Tコリント6:19には、我々、主イエス・キリストを信じ救われた者のからだは、神から受けて自分
の内に宿っている聖霊の宮であると書かれている。
人のからだは、「霊が住むところ」と言え
る。 「霊」には、神によって吹き込まれる「聖なる息(聖霊)」と悪魔(サタン)から吹き込まれる
「汚れの息(悪霊)」がある。 神である主は、アダムを創造された時、その鼻にいのちの息を
吹き込まれた。 それで、人は生きる者となった。(創世記2:7) すなわち、霊のある人となっ
た。 この「いのちの息」は、他の生き物にはない「神と交わるための霊」である。
主は、この
霊が機能していない人を「死人」と言われた。(マタイ8:22) 罪が入るまでは、アダムとエバに
は神との愛の交わりがあった。
この世の君(支配者)はサタンであると主は言われた。 (ヨハネ福12:31,14:30,16:11) という
ことは、この世に生きている人間は、サタンの支配下におり、多かれ少なかれサタンの影響を
受けているということである。
そのサタン、悪霊の支配のもとにいた我々を救い出すため、イ
エス・キリストは十字架にかけられたが、3日目によみがえられ今も生きておられる。 主は勝
利された。
ところが、きれいになって、そのままにしておくなら、いつでも汚れた霊が帰ってき
て居座る可能性があると主は言われる。 また、実際に悪霊に入られた、取り憑かれたという
だけでなく、再び、悪霊の影響を強く受ける可能性があるということでもある。 食い尽くすべき
ものを捜し求めながら、歩き回っている悪魔、悪霊どもは目を光らせているからだ。 ルカ1
1:24によるとどうも汚れた霊は、からだに住むことを願っているようである。 特に、人のから
だを欲するが、時と場合によっては、動物のからだの中にでも入ろうとする。 墓場に住む男
の内に入っていたレギオンと名乗った悪霊は2千匹の豚の中に入った。(マルコ5章、ルカ8章)
悪霊どもは、自分の存在を主張するために、人のからだと心を大いに必要としている。 人
が、自分の存在を主張することは、この地上で生きているときに必要なときもある。 しかし、
往々にして傲慢な自己主張になりやすいことが多いのも事実である。 サタンの最大の自己主
張が、「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ・・・密雲の頂に上り、いと高
き方のようになろう(イザヤ14:13、14)」であった。 サタンは、自分を主張して、自分が神にな
ろうと傲慢と神への反逆のため、天から追放されたのだった。(イザヤ14:14-15)
さて、キリスト教会では
一旦、主を信じて救われたなら、たとえ何があっても何をしたとしても決
して救いを失うことはないと主張しているところもあるらしい。 また聖霊を受けたなら、聖霊は
決して去って行くことはないと教えている教会もあると聞いたことがある。 しかし、聖霊は、神
に逆らって、自分の思い、考えを優先し続けているからだの内に留まることなどできない。 そ
のような者のために働くことができない。 聖書に書いているとおり、「あなたの口でイエスを主
と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、
救われる。」(ローマ10:9) 「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」。(ヨハネ福3:36) しか
し、だからと言って救われた者たちが、何をしても、どうであっても大丈夫ということはない。
人の心の中は、救われる前、片付けられていない家と同じようなものであろう。
罪、生まれな
がらの性質から出てくる神に喜ばれない思い、自己中心的な願い、自分を基準とした考え、思
い…などなどが「我」という家の中いっぱいにあった。
悪しき霊、汚れた霊が、住みやすい家
であり、影響を受けやすい家であった。
正しく良心を用いて、自分はこのままではいけない、
変わらなければならないと様々なことに取り組み努力をした者もいるだろう。
中には、その努
力が報われたかのように思えた者もいるだろう。
しかし、何かあれば、変わっていない以前
の自分が現れ、愕然としたという経験をした者もいるのではないだろうか。 また、自分では、
努力のかいあって「変わった」と思っても案外、他人から見ると「心底は変わってない」と見られ
ているものである。
そんな我々の罪の身代わりとして十字架にかかり、自分の思いではな
く、神の御心がなるように、と究極の「片付け」をしてくださったのがイエス・キリストである。
しかし、主イエス・キリストを受け入れ、一旦、きれいにしてもらって片付けられても、自分ひとり
よがりの生き方に戻るならば、悪霊どもは放っておかないということである。 「家はあいてい
て」、ということは、聖霊を自分の心の王座にお迎えしていない。 留まっていただいていないと
いうことである。 「掃除してきちんとかたづいて」、ということは、一旦は主イエス・キリストを信
じて、主の「ことば」聖書から、人生の意義あるいは目的、生きる価値、人間のあり方などをあ
る程度受け入れた状態だと思われる。 しかし、聖霊の導き、キリストがともにおられるのでな
ければ、その「良き教え」「良きことば」は、いつでも悪しき霊どもに覆(くつがえ)されるものであ
る。 結局、聖霊が心の王座にしっかりとおられるかどうか、キリストが自分の内に住み続けて
おられるかどうかが鍵である。
主イエス・キリストを信じた我々がすべきことは、キリストに生かされた者として、心を主に向け
ながら、聖霊の導きに従って生きることである。 聖霊が心の王座に座り続けていただき、しっ
かりとキリストにつながり続けておくことである。 日々の生活の中で、主に尋ねたり、礼拝した
り、主のみこころを知ろうと祈ったり、聖書を読んだり。 時には、主から聖徒を整えるために
立てられている指導者と交わったり、聖霊の導きがあれば同じキリスト者と交わったりなどしな
がら歩んで行くことである。
そのように取り組むことが、キリストと一緒に住むことでもあるか
らだ。
いろいろなかたちで語られるキリストのか細い声を拒むことなく、素直に聞き取ってい
きたいものである。 そうしているなら、初めの時よりももっと悪くなるということはない。 日々
の生活の中で、主の主権を認め、主の御前にへりくだることを徹底していき、絶えず、御父と
御子イエス・キリストとの交わりをしながら進んでいきたいものである。
★旧訳聖書 詩篇 101:6
私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道
を歩む者は、私に仕えます。
★旧訳聖書 イザヤ書 57:15
いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられ
る。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりく
だった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。
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